異血の子ら

■孤立■

 エドア=ガルドと会議をした日から、アマルカンとイズナは詰め所で待つだけの日が続いた。
 妖魔(ヴァン)の報が入ると、まず、ネルソン=ガロウが単独で出る。次の報には、コトハが。複数の妖魔(ヴァン)は出なかったし、出動が三回重なることもそれほどはない。そして、物見の櫓からは、緑の妖魔(ヴァン)の報告も、なかった。
 近い方向に妖魔(ヴァン)が続けて出て。アマルカンとイズナが詰め所に残っているにもかかわらず、コトハが二ケ所目も回ることになった。アマルカンは、待機室に聞こえてくる無線の連絡に、イズナの顔を見る。連戦の負担は想像がつくのだろう、イズナは表情を硬くする。しばらくして。コトハから「戦闘が長引いている」と援護の要請が入り、これまた二戦目のネルソン=ガロウが向かう。
 コトハはバイクではなく、狙われた被災者と一緒に、装甲車に乗せられて戻った。ネルソン=ガロウがコトハを抱き上げ、詰め所のベッドに移す。医務員を無線で呼ぶ声が聞こえてくる。
霊力(フィグ)を消耗しただけよ。眠れば直るわ」
 待機室を通りしな、コトハは弱々しく、アマルカンに笑いかけた。
「連戦は無茶だ」
 ネルソン=ガロウが舌打ちする。
「バイクは?」
 アマルカンは、装甲車の運転士に、バイクを置いてきていることと、その位置を聞いた。
「イズナ。運転して戻ってこられるか」
 イズナには、すでにそこそこ、バイクの操作を教えてあった。
「はい」
「取りに行こう。雨が降ってきた。妖魔(ヴァン)は羽が濡れるのを嫌う、引き揚げたはずだ」
 防水の上衣で、アマルカンはバイクにまたがり、イズナが後ろに乗った。
 しかし、目的地に着くと。ライトに浮かびあがったコトハのバイクは、無残に破壊されていた。運転士からそんな報告は受けていない。コトハたちが去ってからの出来事だろう。
 異常を悟ったアマルカンは、バイクをターンさせようとして。ジャリリと妙な感触に、バイクが滑る。ライトがふらつき、地面に撒き散らされたバイクの部品の破片を照らす。持ちこたえきれず、バイクが倒れる。イズナがからくも跳ね降りたのを目の端に見ながら、アマルカンもバイクを飛び降りた。同時に、道脇の暗がりから、剣を構えた妖魔(ヴァン)が次々に跳ね出て、二人に駆け寄る。
「変化っ」
 反射的に、霊武器(フィギン)を呼んだ。妖魔(ヴァン)は蒼白の刃先を避けて、倒れたバイクに向かう。パシッと剣がライトを砕く音がして、光が消えた。とっさに目が慣れず、周囲が闇に沈む。駆け寄ったイズナの気配を、アマルカンは背中に感じる。すらりと鞘ばしる音がして、イズナの霊武器(フィギン)が白銀の光を吐いた。
 妖魔(ヴァン)の目が、赤く光り、霊武器(フィギン)は濃い紫の色に見える。人の霊武器(フィギン)と異なり眩しい光ではないが、妖魔(ヴァン)の武器も僅かに光を放つのだ。
 目が闇になじんでくれば、夜空は漆黒ではない。遠い街明かりが低い雲に映え、灰色の空に透かせば、妖魔(ヴァン)の黒い影の輪郭は見て取れる。恐ろしいのは木立の影で、妖魔(ヴァン)の輪郭をすぽりと呑んでしまう。妖魔(ヴァン)は、闇の住人。闇の中に立つ人間の動きを見ることは、なんの困難もないだろう。濡れた翼を畳み、地面に立っている。間合いを計り、じりり、と動く足音がする。
「五体?」
「のようだな」
 イズナの確認に、アマルカンは頷く。どちらかがバイクを立て直す間、五体をもう一人で防ぐのは無理だ。しかも、バイクからは、燃料油のこぼれた臭いがする。立て直しても始動するかどうか怪しい。
 互いに背を預けて立つアマルカンとイズナに、妖魔(ヴァン)は、すぐには仕掛けてこなかった。
「無線で……」
 イズナが提案しかけたが。
「呼ぶな。一人加わったところで、形勢は逆転しない」
 今夜、コトハは戦えない。ネルソン=ガロウが来て三対五、しかもネルソンは今夕二戦をこなした後だ、万全の力とは言いがたい。三人の魔狩(ヴァン=ハンテ)が全滅し、霊武器(フィギン)妖魔(ヴァン)に奪われる事態を、アマルカンは恐れる。
 しかも。バイクまで寄って、無線のスイッチを入れても、動作するかどうかも、分からない。
「イズナ。斃れた魔狩(ヴァン=ハンテ)は、翌朝まで放置することになっている。帰還が優先だ。……私が残っても、お前が残っても」
「私が死んだら、一人で帰って」
 イズナの声が、怒りを含む。
「お前もそうするんだ。……カイが死んだとき、私がしたように」
 妖魔(ヴァン)たちは、容易に動かない。アマルカンも動けない。互いに、徒歩どおしの者と戦うのは、慣れていない。
 イズナが剣を握り直す。人間同士の剣道の構え。勝てる気でいるらしい。
「下手に動くな。夜明けまで睨みあえば、こちらの勝ちだ」
 低く制した。
 さすがにそこまで甘くはなかった。妖魔(ヴァン)の一体が、突っ込んできた。イズナに斬りかかる。イズナが迎え撃つ。他の妖魔(ヴァン)がアマルカンを襲う。竜角の刃と刃が打ち合い、キン、という、澄んだ音が続けざまに上がる。それがきっかけに、乱戦になった。イズナの剣の白銀の光と、アマルカンの長剣の蒼白の光が交錯する。数に勝る妖魔(ヴァン)は、イズナかアマルカン、どちらかに手出しをしようとするが、連携が悪い。その隙をついて、イズナとアマルカンは複数の刃をかいくぐる。
 戦いが長引くにつれ、イズナの剣の白銀の光が、おぼつかなく明滅した。
 アマルカンは、妖魔(ヴァン)の隙をついて、イズナの背に回る。背と背を合わせた、最初の体勢に強引に戻った。
「カイから聞いた剣のこと。憶えているか?」
 弾む息を抑え、低く訊ねる。赤竜の剣は、妖魔(ヴァン)霊力(フィグ)を吸い取り、使い手に還元する、と、カイから聞いた話を、アマルカンはイズナに伝えたことがあった。イズナが頷く。
「急所にこだわらず、傷をつけにいけ。援護する」
 アマルカンは、二人を囲む妖魔(ヴァン)を見渡した。
「イズナ、お前の……、左だ」
 呟くほどの声だったのに、イズナは正しく反応する。左側の妖魔(ヴァン)、胸でも首でもなく、利き腕と逆の二の腕を狙った。アマルカンは、槍ほど長さのある長剣を駆使して、イズナへの刃を防ぐと同時に、他の妖魔(ヴァン)の動きにも目配りをする。イズナの剣が、妖魔(ヴァン)の腕を切り裂く。光色の火花に似たきらめきが散って、イズナの剣に光が戻った。傷はそれほど深くないはずだが、妖魔(ヴァン)は大きくよろめいた。すでにかなり消耗した時点で、剣に霊力(フィグ)を吸われるのは、痛手が大きいらしい。
 他の妖魔(ヴァン)も黙って見ているわけではない。再び、混戦状態になったが、イズナはすれ違いざまに腕を、相手の刃をくぐる際には足を狙い、傷としては浅手でも、霊力(フィグ)の火花を散らして、妖魔(ヴァン)を消耗させてゆく。
「やあっ!」
 気合とともに、イズナが、一体の妖魔(ヴァン)の胸を斜めに斬り裂いた。止めを刺して、霊剣の刃が光色を帯びて煌く。イズナの刃が返るまでの隙を、妖魔(ヴァン)が狙う。その背を、アマルカンの蒼白に光る長剣が貫く。
 残る二体は、もう少し腕があった。一体は消耗しつつも剣を巧みに繰り、イズナの剣と互角に打ち合う。アマルカンと対した一体は傷が少ないのか活発な動きで、長剣の長さに押されつつも、しつこく隙を狙ってくる。
 二体? もう一体は?
 アマルカンの視界の隅で、何かが動いた。木立ちの闇に溶けた影、赤い目が開く。紫の刀身を鞘から抜きなおす。切っ先は抜きざまにイズナに向かう。
「イズナッ!」
 アマルカンは反射的に、妖魔(ヴァン)とイズナの間に割り込んで。長剣で薙いだつもりがいなされ、鋭い痛みが、胸脇に突き刺さる。アマルカンの体に剣を深く刺し、妖魔(ヴァン)の動きが一瞬止まる。アマルカンは、残る力を振り絞り、妖魔(ヴァン)の首を刎ねた。その動作で、刺さった刃が体をえぐる。温かいものが、気道を逆流する。げぼ、喉が鳴って、血反吐を吐いた。霞む視界のなか、正面の妖魔(ヴァン)が、剣を振りかぶる、振り下ろす、アマルカンの胸に突き立てる。
「アマルカン!」
 イズナが、呼んだような気がした。それがアマルカンの意識の最後だった。

「アマルカン!」
 息を吐きつくすように、イズナは叫ぶ。
 アマルカンを刺した妖魔(ヴァン)への怒り。救えなかった自分への怒り。そして、自分を庇ったアマルカンへの怒り。庇ってなど欲しくなった。そんなことは望んでいなかった。
 イズナは、吼えた。胸の底の熱が沸き立って、肩から腕へ駆け抜ける。
 霊武器(フィギン)が、眩く輝き、一瞬、妖魔(ヴァン)の動きが止まる。残った3体を、なで斬りに、屠る。妖魔(ヴァン)から吸った霊力(フィグ)が、イズナの腕から、身体に逆流した。
 気づけば。イズナは、独り立っていた。妖魔(ヴァン)は斃れ、アマルカンもまた動かない。
「アマルカン……?」
 アマルカンの傍らに膝まづく。失った衝撃は、認めたくないほどに大きい。かつて、優れた魔狩(ヴァン=ハンテ)として、憧れた。少女が男に向ける想いではなく、自分がそうなりたかった。だが、ユキヌを殺されて憎み、なおもすぐれた教導者であることに、感謝するより苛立った。憎み、蔑み、敬し、憧れた相手は、イズナを狙った刃に貫かれ、横たわっている。
 おずおずと手を伸ばし、首筋に触れる。脈はなく、すでに冷たい。
 その視界で気づいたことは、自分の身体がかすかに発光していることだった。妖魔(ヴァン)からの霊力(フィグ)の逆流は、イズナの体力にも影響を及ぼし、さらに溢れるように、身体を発光させていた。
 バイクを引き起こしてみる。バイクはけっこう重量があって、いつも苦労するのに、すんなりと立てられた。
 斃れた魔狩(ヴァン=ハンテ)は、翌朝まで放置することになっている、と、アマルカンは言ったけれど。
 闇の向こうで、山犬が遠吠える。人か獣かにかかわらず、夜の間に、死んだ者の身体を食い散らす獣が、どこかで啼いている。
 アマルカンの身体の下に手を差し入れて、抱き上げる。大の男を、すんなりと、バイクの上にもたせかけることができた。ハンドルの上に伏せさせ、座席に下腹を預け、両脇へ垂れた足は、地面に引きずらないように、ベルトをはずして縛った。
「今の私なら、連れて帰れる」
 イズナはゆっくりと、バイクを押し始めた。

  ◆

 トキホの街では、時計は貴重品だ。一日は十二刻に分けられて、日中は一刻に一度、街の鐘が鳴らされる。昼どきと、日没前には、それぞれ鳴らし方が決まっている。しかし、夕から朝までは妖魔(ヴァン)の時間。その時間は、住民は家に篭っていることもあって、鐘は鳴らない。
 ただ、鐘を鳴らすための時計は、領主の館の中にあった。
 霊力(フィグ)を使い果たして昏倒し、領主の館に連れ戻されたコトハは、ふと、目を覚ました。傍らを見ると、ベッドの傍らに、胸から上だけをもたせかけて、ネルソン=ガロウが眠っている。
「ネルソン。今、何時かしら」
 ちょっと声をかけてみたが、ネルソン=ガロウは、ん、と、かすかに呻いたきり、起きる気配はない。彼だって、疲れているのだ、と、コトハは思う。
 恋人の寝息を聞いていると、再び睡魔が押し寄せてきた。

  ◆

 イズナは、夜の雨の中、長身の男の遺体を載せたバイクを、押していく。霊剣が妖魔(ヴァン)から吸った力が、ゆっくりと消費してゆくのが判る。バイクは、次第に、重く感じられる。呼吸が、あがってくる。
 だがイズナが足取りを止めたのは、重さのせいだけではなかった。 
 進路に、幾組もの眼が、待ち構えている。ガルルルルという唸りが、それが山犬の群れであることを告げた。
 雨の夜。獲物は少ない。犬たちは生きており、餓えており、肉を欲している。アマルカンはもう何も感じない。もしかしたら、アマルカンをここに置いて、イズナが一人街に帰るのが正しいのかもしれない、という考えが、脳裏をかすめたが。
 イズナは、強く、かぶりを振った。
 大樹の傍らにバイクを立てると、バイクを後ろに、霊武器(フィギン)を手にとった。鞘は払わない。イズナの霊剣の刃は、妖魔(ヴァン)以外を傷つけないと聞いていたから。刃を抜けば、霊力(フィグ)を無駄に消耗するだけだ。
 唸りを上げて飛びかかってくる山犬を、次々、鞘ごとの剣で叩き伏せる。
 足の近くに落ちた犬を、力いっぱい、踏み抜いた。足元で、キャンと、悲鳴。骨が砕ける感触。絶命した屍骸の足を掴んで、群れに投げ込む。次は、鞘ごとの霊剣で、胸部を突いて、しとめた。2匹。3匹。また、投げる。
 ガツガツと牙を鳴らす音、はふはふという息づかい。
 ふと脳裏に、子犬を抱いた姉ナズナの微笑が浮かんだが。イズナは、歯を食いしばり、共喰いを始めた群れを後ろに置いて、バイクを、ふたたび、押し始めた。

  ◆

「すまん、寝ちまってた」
 ネルソン=ガロウは、身支度をしながら、コトハに声をかけた。コトハは、ぱちりと目を開けた。
「時計、見てきた。一刻以上経ってんのに、アマルカンが戻ってねえ」
 ネルソン=ガロウの不安を、コトハは的確に受け止めた。
「雨で走るの、慣れていないから……」
 雨の夜には、妖魔(ヴァン)が出ない。だから、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちも、雨には慣れていないのだ。
「どっかでコケてんのか?」
 言ってみてから、それはイヤだな、と、ネルソン=ガロウは思う。一台がコケて、もう一台が急停止しようとしてまたコケたりすると、けっこう厄介だ。
「ちょっと見てくら」
「アマルカンの家かも。今日の現場だと、詰め所より、あっちのほうが近いから」
「バイクどっか隠してかよ?」
 アマルカンが家族に魔狩(ヴァン=ハンテ)であることを隠しているのは、ネルソンもコトハも承知である。幾つになってもどこか可愛らしい妻と、アマルカンの溺愛ぶりは、後輩である彼らの罪のない冗談の種になっていた。
 そぼ降る雨の中、ネルソン=ガロウはバイクを走らせる。防水衣を着ていても、いやな感じに体が冷えてくる。バイクが傷むな、と嘆息した。だが、アマルカンが雨の中、バイクを繰って、コトハのバイクを取りに出てくれたのも、そのせいだ。自分のバイクの心配だけしてもしょうがない。
 
 ◆

 イズナが街の入り口の門までたどりついた時には、体力の消耗で膝が笑っていた。常ならぬ力は底をつき、疲労で朦朧となりながら、重いバイクを押していた。魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所は、領主の館の敷地、つまりトキホの街のかっきり中心にある。
 滞在したのは数日とはいえ、よく知っているアマルカンの家は、少し方向が逸れるが、この門から近い。イズナは、バイクのハンドルの向きを慎重に変えて、アマルカンの家に歩き出す。道は濡れ、滑りそうだ。今、バイクがうっかり倒れたら、立て直すことができるかどうか、判らない。

 ◆

 ネルソン=ガロウは、コトハのバイクを置いた現場までのどこかで、アマルカンたちに出会えるだろうと踏んでいたのに、着いてしまった。
 湿った雨の中に血の臭いを感じて、慎重に近づき。ライトに映し出された光景に、総毛立った。
 そこは、今夕、妖魔(ヴァン)が獲物を諦めて飛び去ったはずの場所。なのに、五体の妖魔(ヴァン)の死骸が転がっている。無残に壊れた、コトハのバイク。だが、アマルカンもイズナも見当たらない。アマルカンのバイクもない。
「二人で、五体やったのか?」
 詰め所に戻ったなら、途中で会ったはずだ。残る可能性は、アマルカンの自宅。
 アマルカンの家の近く、これ以上近づくと爆音がアマルカンの家に届く、というあたりでエンジンを止め、押して歩く。四人の魔狩(ヴァン=ハンテ)の中では、一等膂力のあるネルソン=ガロウだが、それでもバイクは軽くはない。
 家に近づいて。雨音のむこう、何かが聞こえた。女の泣き声。アマルカンの妻の声だ。足を急がせると、アマルカンの家には煌々と電灯が灯り、漏れた光が家の前に呆然と立ち尽くす人影を浮かびあがらせる。イズナだ。
「アマルカンは?」
「死んだ……」
 手の中に押し込まれたものを見る余裕さえなく、ネルソンの脳内は、真っ白になった。思わず、玄関の扉に駆け寄る。扉の呼鈴を鳴らすが応答はない。力任せに扉を叩いた。
 そのしつこさに根負けしたのか、扉が細く開き、漏れる泣き声が大きくなる。覗いたのは、女ではなく、少年の顔。見覚えがある。マキサ、アマルカンの息子だ。目が涙で腫れている。外を一瞥し、ネルソンのバイクの上に目が止まった。
「ネルソンさん……。貴方も、魔狩(ヴァン=ハンテ)だったんですか」
 半仮面を忘れたと気づき、同時に、そんなことはどうでもいいとも思った。
「アマルカンは……」
「明日、葬ります」
「会わせてくれ」
「いえ。父のことも、僕らのことも、もう放っておいてくれませんか」
 扉を閉めようとする。ネルソンは、あわてて押さえた。
「待て……」
「母が取り乱しているので。傍に居たいんです」
 少年の目は、ネルソンに向かって、あなたの相手をする暇はない、と明確な意思を放つ。ネルソンは、思わず手を離し。扉は閉まった。
 振り向いてようやく、街路に転がったバイクに気づく。雨がなお洗いきれていない血が、家から漏れる光にてろりと赤い。オイルタンクは割れ、無線装置には罅が入り、バイク全体が傷だらけ。とても走れる状態ではない。イズナは、ここまで遺体を乗せて、引いてきたのか。
 イズナの髪は雨で張り付き、服は血まみれで、もうしとどに濡れている。その胸元を、むずと掴んだ。
「なぜここに運んだ!」
「詰め所に、運ぶべきだった」
 イズナの声はかすれて、消えそうだ。ここまでが少女の体力の限界だったかもしれないが。
「斃れた魔狩(ヴァン=ハンテ)は……」
 言いかけたネルソン=ガロウを、イズナが引き継ぐ。
「翌朝まで、放置する……。アマルカンから聞いた」
 知っていて。けれど、そうしたくなかった。それは判らなくはない。だが、あの家族にいきなり遺体を見せるとは。
「アマルカンが、どれだけ工夫を重ねて秘密を守っていたか、知りもしないで!」
 イズナの唇が、かすかに震えた。しかし、何も言わない。言えるわけがない、いま、まだ、親を失った子供のように泣いている、女の声を聞きながら。
 ネルソン=ガロウは、手の中にあったものは無意識にポケットに押し込んで、自分のバイクのエンジンをかける。イズナを、乗せて帰るつもりだった。領主の前で報告もしなければならないのだから。
 雨の寒さの中で、バイクのエンジンがスタートを渋る。ようやくエンジンがかかったときには、イズナの姿はなかった。
 ふと違和感を感じて、ポケットの中身を引き出す。それは、アマルカンの半仮面だった。

 ◆

 キラムが、イズナの帰りが遅いのをしきりに気にするので。
 故郷イーザスンでは平然と不規則な生活もしていたニエルも、心配を始めたところだった。どうやら、トキホでは夜更かしはしないものらしい。
「イズナだっ!」
 気配がわかるらしい、キラムがぱたぱたと玄関先に駆け出した。
「イズナぁッ」
 キラムの声に篭る驚きに、ニエルはオイルランプを持って玄関に出た。
 一目見ると、イズナが朦朧としてるのは、ニエルにも判った。髪も服も雨に濡れそぼり、顔色は死人のよう、衣服のあちこちは血の色が染みている。
 キラムが、玄関の上がり口に、イズナを座らせる。
「どうした……」
 ニエルは、イズナの両腕を掌で支えて、顔を覗きこむ。イズナの腕の冷たさが、手にしみる。
 イズナの唇が小さく震えただけで、返事はない。目が、虚ろだった。
「キラム。髪と体をくるんでやれ。とにかく温めて、何か食わす」
「それどこじゃないでしょ!」
「それ以外に何がある? そんな状態で、むりむり話を聞きだそうとして、何か足しになるか?」
 キラムの抗議を突き放して、ニエルは、風呂に薪を足した。小鍋に炊穀をとって野菜汁を入れ、火にかける。煮えたら冷たい出汁を足して、火傷しない程度に冷ました。
 小盆に椀を置き、風呂場にもっていく。風呂の湯加減を確かめる。
 キラムは、イズナをくるんだ布のうえから、黙って、そっと撫ぜている。
「風呂わいた。とにかく入らせろ」
 声をかけると、キラムは、イズナを、風呂前の脱衣につかう小部屋に連れていった。
「風呂んなかで食え」
 熱い粥の椀の小盆を置いてやったが、イズナは動かない。
「脱がせてほしいのか」
 そこまで言って、ようやくのろのろと手が動き始めた。
 脱衣所から風呂に入る戸の、がらりという音を聞いてから、
「服を、持ち出すぞ」
 声をかけて脱衣所を覗くと、案の定、イズナはすでに風呂へ移動していた。
 汚れた服を持ち出し、かわりに、乾いた部屋着を置く。
 ニエルとキラムで一つの桶のなかを覗き込みながら、イズナが着ていた服を水につけると、じわりと血の色が溶け出してくる。その血の量は、生半可ではない。
「イズナの血じゃ、ない」
 キラムが言う。雛とはいえ精霊(ア=セク)がいうのだから、と、ニエルは信じることにした。

 心配するほど待つこともなく、イズナが風呂から上がる。洗い髪を布で巻き、清潔な部屋着に着替えて、目に生気が戻ったようだった。
「お風呂のなかで食事したのは、生まれて初めて」
 小さく掠れた声でいい、笑おうと努力するように唇の端が震えたが、難しかったらしい。声がとぎれた。キラムが、イズナの部屋着のすそを握って、顔を見上げる。
「何があったか、話せるか? 今でなくても、いいんだぞ?」
 ニエルの問いに、イズナは、かぶりをふった。小さく、頷いた。まるで、心の中で、何か言い争うように。
「心配、かけたよね……」
 搾り出すように声を出す。苦しげに、息をついた。
「アマルカンが……、死んだの。……私を、かばって」
 キラムがぼろぼろと涙をこぼして泣きだした。
「お前が泣くことないだろう」
 ニエルは言ったが、イズナは、柔らかい手つきで、キラムの髪を撫ぜた。
「キラムは……、私の代わりに泣いてくれてる……、私が、泣けないから」
 ユキヌの仇、魔狩(ヴァン=ハンテ)の師。父カイが魔狩(ヴァン=ハンテ)で、自分が精霊(ア=セク)の子であることを教えた男。その死に泣けない自分を責める声で、イズナは言った。
 ニエルは、イズナとキラムを二人まとめて抱きしめる。
「とにかく、今日は眠れ」
 一番肝心なことと、それでイズナが深く傷ついていることは、判った。詳しいことを聞くよりも。今は、イズナを休ませるべき時だと、戦場の世界から来たニエルは、そう思った。

  ◆
 
 雨は上がったが、まだ地は、夜の帳の中にある。闇の空を、漆黒の翼が、大きく羽ばたいて来る。妖魔(ヴァン)の死骸を見つけ、髪をすうと靡かせて降下した。彼の名はナムガ=オ=リュウガ、妖魔(ヴァン)の第一王子である。
 眼下には、五つの屍。一人は、異腹の弟サガの配下だったが、ナムガの妹リュアがこちらの陣営に引き入れたケドイ。リュアに懐柔され、文字どおり生命をかけたが、リュアの命令は果たせずに終わった。残りは、彼が育ててきた配下である。妹の「今夜、獲物を捕えられなかったら戻ってくるな」という命令が、まるで予言ででもあったかのように、戻ってこなかった。妖魔(ヴァン)の数は無尽蔵ではなく、霊武器(フィギン)の腕に覚えがあって、異母弟サガや、サガの方針を承認した父に情報を漏らさずに使える者となると、さらに限られる。近接(タゲント)の戦も近いなかで、異血(ディプラド)の娘を捕らえるために使える配下は、これで限界だった。
 妖魔(ヴァン)が、闇霊(ヴァナク)と呼ばれる精霊(ア=セク)族の一支族であった頃、その命が失せた瞬間、無へと帰したという。しかし、人族の血肉を喰らうようになった現在、妖魔(ヴァン)は死骸を残す。精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)が戦をすれば、どんなに優勢であっても、戦場に残るのは妖魔(ヴァン)の骸のみである。精霊(ア=セク)は死体を残さないから。
「予言はすでに成ったのではないのか?」
 ナムガは骸に語りかける。
 『アスワードは人間の世界となる』と予言は言う。
 精霊(ア=セク)千、妖魔(ヴァン)四百、対して人族十七万。妖魔(ヴァン)王の地位を継ぐ者と定められた彼は、すらすらとその数値を挙げることができる。
「我らはすでに滅びた種族なのではないのか? アスワードはすでに、人族のものなのではないのか?」
 『近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く』
 その予言にとって「望む」とはなんだ。淡く願っても「望む」か。強く願った者だけが数の内なのか。過去のどこか、誰よりも強く「ノ=フィアリスを望んだ」者たちがすでに《門》をくぐって彼の地に移り住んでいたとしたらどうだろう、と、彼は想うことがある。
 『二のアヤカシは一となる。』
「あの予言は既に果たされていて。ノ=フィリアスにはすでに、一となったアヤカシが暮らしているのだとしたら、どうだ? 今後はどんなに努力しようが、大いなる《門》など開かないとしたら?」
 彼がその想像を、生者の前で、表に出すことは決してない。たとえ、親しい妹の前であろうと。
 彼は、武骨に鍛えられた手で、自分の腰に畳んだ鞭を取り、空中から、死骸に向けて、するりと振った。そのしなやかな先に編みこまれた、竜の骨を磨いた珠は、死骸の胸に当たることなく、わずかに隙を残して、空中で何かを描く。死骸は、しゅん、と、黒い靄を吹いて、闇へ還った。それを、五度繰り返す。
 彼が死者を弔う術を施しに人族の街近くまで訪れたことなど、妹は思いもしないだろう。自らの名を妖魔族(ヴァン=フィア)の歴史に残すという考えに夢中になっている妹。しかしそれは、彼女が妖魔族(ヴァン=フィア)を救うことが前提だ。王女として、これ以上に純粋な願いはないのかもしれない。父の怒りと妹の癇癪を恐れて、自らの想いの底を他に明かすこともなく、妖魔(ヴァン)のノ=フィアリスへの移住成功を願って見せる彼に比べれば。これを倦怠というのか、不誠というのか、彼も知らない。
 彼は自嘲の笑みを口端に刻むと、羽ばたいて、妖魔(ヴァン)の城へと戻ってゆく。夜明けまでには、城に着くだろう。