異血の子ら

■訣別■

 いつもより遅い時刻に起きたイズナが、まだ、朝食を食べているときに。
「おはようございます。イズナさん、いらっしゃいますか」
 声がした。
 イズナは、玄関に出てゆく。玄関にいたのは、領主の館で魔狩(ヴァン=ハンテ)の世話係りをしているノワカだった。
「ノワカさん……」
「領主さまのお召しです。同行いただけますか」
「服を替えたほうがいいですか?」
 領主に会うのに、私服でいいのだろうか、と、イズナは尋ねる。
「そのままで結構です。お待ちですので」
 ノワカからは室内は見えない。心配しないで、と、ニエルとキラムに頷いて見せて、家を出た。のだが。
 ノワカと歩く斜め後ろ、家の屋根から屋根へ、キラムが飛び移っては身を隠し、ついてきている。イズナは、それがキラムの動きだと解るが、ノワカは、視界の端にちらりと動きが見えても、鳥かなにかだと思うのだろう。小精霊(ミア=セク)だとは、気づかないようだ。
 少し歩くと、コトハが合流して、ノワカからイズナを引き継いだ。
「おはよう。ネルソン=ガロウは、エドア=ガルドと行ってるわ」
 ノワカは領主の館のほうへ戻っていく。コトハは、アマルカンの家の方向へ、道をたどった。キラムも、距離をとりながら、後をつけてくる。
「どこへ? ……アマルカンの?」
 イズナが尋ねると、コトハが答えた。
「イズナ。昨夜、《蒼》の霊武器(フィギン)を回収しなかったでしょ」
霊武器(フィギン)? 消えて……」
 アマルカンの特徴的な長剣は、絶命とともに消失してしまった。言いかけたイズナに、コトハはかぶりをふる。
「長剣は消えたでしょう。でも、左の手首につけた宝玉が、起動鍵」
 コトハの言葉に、イズナは目を見開いた。そんなことさえ、知らなかったのだと気づく。アマルカンは、イズナの両親のことは話してくれたが、自分のことはほとんど話していなかった。
「エドア=ガルドとネルソン=ガロウが、ご遺族のところに行っているの。本当は、息子さんに魔狩(ヴァン=ハンテ)になってほしいけど、無理そうだし、せめて、霊武器(フィギン)は譲っていただけないか、と。でも、私たちも、アマルカンが亡くなった事情は知らないわけだから。イズナ、貴女を迎えに行った、というわけ」
 ぴくりと、イズナの肩が震える。
「逃げないでね?」
 イズナは、黙って、頷いた。

 アマルカンの家では、大きな窓のある食堂に、マキサたちが、いた。
 マキサ、エドア=ガルド、ネルソン=ガロウがすでに、食卓の周りにいる。そこにコトハとイズナが加わった。マキサが、椅子のことりという音さえ抑える手つきをして、居間のほうを目で指す。
「母がやっと眠ったんです」
 おそらくアマルカンの遺体も、一緒だろう。
「これで魔狩(ヴァン=ハンテ)は揃った。昨日の事情がわかれば、霊武器(フィギン)はお譲りいただけるということでよろしいか?」
 領主エドア=ガルドが言って、
「お約束は、できません。納得できれば、ということです」
 マキサの答えに、深く息をつき、応えた。
「私も知りたい。昨日、いったい何があった?」
 頷いて、最初はコトハが話し始めた。コトハとネルソンで出撃したこと。コトハが霊力(フィグ)を使い果たし、バイクを街外に置いて詰め所に戻ったこと。アマルカンとイズナがバイクを取りにいったこと。雨が降っていたので、妖魔(ヴァン)は出ないと判断したこと。
 皆の視線が、イズナに刺さる。そのあといったい、どうしたのだ、と。
「アマルカンからも、雨が降っているから妖魔(ヴァン)は出ないはずだと言われました」
 けれど、妖魔(ヴァン)はいた。それも5体。バイクが壊れ、逃げることはできず、アマルカンには「自分が死んだら、放置して帰還しろ」と命じられたことも話した。乱戦になり、戦ううちに、イズナをかばってアマルカンが斃れた。怒りで我を忘れ、暴威でもって、妖魔(ヴァン)を焼いた。
 アマルカンの身体を連れ帰ったのは、どうしても置いていきたくなかったから。
「なんで、5体も妖魔(ヴァン)が出るんだよ」
 やけっぱちぎみで口にしたネルソン=ガロウは、答えが戻るとは思っていなかったのだが。
 イズナは、一つ大きく息をして、答えた。
「たぶん、私が精霊(ア=セク)の血を引いてるのと関係があるんだと思う」
 座の視線が、いっせいにイズナに突き刺さる。
「なんだそれは。おまえは、カイとシズサの子なんだろ」
 ネルソン=ガロウが問い返す。
「母は、私を産んだときには、半分精霊(ア=セク)だったのだそうです」
 エドア=ガルドの表情が動いた。
「どういうことだ?」
「二十年前。精霊(ア=セク)がこの町に来た。そこを妖魔(ヴァン)に襲撃されたのではないのですか」
「ラローゼのことか?」
「母……シズサのほう……は、ラローゼの護衛中に致命傷を負って、ラローゼはシズサの命を永らえるために、シズサに憑依した、と聞いています。私と姉は、そのあとで、生まれた。だから、精霊(ア=セク)の血が混じっているのだと」
「聞いています? 誰に、だ」
「アマルカン、です」
 座がしんと静まった。
「つまり。シズサは半(ア=セヴ)になった。カイは半(ア=セヴ)を娶った。それで、魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所を裏切った、ということか」
 ネルソン=ガロウがきしる声でいう。
 そのとき、タンタンと、食堂の窓を叩く音がして。皆、ぎょっとして窓を見る。そこには、逆光のなか、細く伸びた触角を持つ小柄な影が映っていた。
「キラム」
 イズナが呟く。
「言いたいことがあるなら、入れてやれ」
 エドア=ガルドは腹の据わった声で言った。イズナが窓を開き、ふわりと軽い体を、抱きいれた。四歳か五歳の幼児ほどの背に、両足に大きな蹴爪が三つずつ。人ではない容姿に、
小妖精(ミア=セク)……」
 他の者たちが息を呑む。
「カイは、最後まで魔狩(ヴァン=ハンテ)だった」
 目に怒りを燃やして、キラムはいう。さえぎりかけたネルソン=ガロウを、エドア=ガルドが目で抑えた。
「聞こう、キラム」
「ラローゼ様は、シズサの命を救うために憑依した。憑依を解けば、シズサは死んでしまう。領主や魔狩(ヴァン=ハンテ)がラローゼ様に危害を加えるのを恐れて、カイは詰め所を退いた。でも、カイは……。斧使いが……お前の先代か?」  キラムは、ネルソン=ガロウの緊張した顔を確かめるように見て、話を続ける。 「殉死して、耐え切れなくて、再び妖魔(ヴァン)と戦うようになったんだ。ラローゼ様は、遠翔(テレフ)術で妖魔(ヴァン)のところへ飛び、霊術具(フィガウ)でカイを空に飛ばして、カイを助けた。そして、最後、お二人とも緑の妖魔(ヴァン)に殺された」
「アマルカンがそれを知っていたというのか」
「カイは、最初、アマルカンに橋渡しをしてほしいと思って、相談をしに行った。でも、アマルカン自身が、ラローゼ様を受け入れられなくて、カイは詰め所に戻ることを諦めたんだ」
「アマルカンが、カイを責める我々に決して同調しなかったのは、そういうことか」
 エドア=ガルドの声が暗く沈む。
「私が精霊(ア=セク)を嫌悪していなければ、カイとシズサが去る必要はなく、アマルカンも……。目もあてられんな」
 エドア=ガルドは、掌で顔を覆った。その掌の端から溢れた涙が、頬を伝った。
 黙っていたマキサが、急に口を開いた。
「なんだ……。父さんが秘密を作っていたのって、僕と母さんだけじゃなかったんだ」
 マキサは、肩で息をしながら、無理やり口角を吊り上げる。
「出ていってください。父さんが信頼してなかった人たちに、僕が渡せるものなんて何もない」
「そうじゃ……」
「出ていってください。さあ、早く」
 マキサは、少年とは思えないほどの強い声で、領主たちを追い出した。
「帰ろ。イズナ」
 キラムが、イズナの手を引く。半(ア=セヴ)の少女と小精霊(ミア=セク)が去っていく背を、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちは呆然と見送った。

  ◆

 地霊(ムデク)がしかるべき陣を引き、その中心に立って心を凝らせば。近接(タゲント)の日は、知ることができた。すべての精霊(ア=セク)が、瞬時に異空を抜けて移動できるわけではない。だから、これまで三百年に一度の近接(タゲント)の前には、精霊(ア=セク)王が術で、各地の空に召集の紋章が掲げた。生き延びることを望む精霊(ア=セク)は、それを見ると、何日もかけて、《ノ=フィアリスへの門》がある旧の精霊(ア=セク)城、現在の妖魔(ヴァン)王の居城の近くに集まったのである。
 風霊(ウィデク)は、自らの遠翔(テレフ)の術で。霊力(フィグ)の強い他の精霊(ア=セク)は、精霊(ア=セク)王宮への遠翔(テレフ)の魔法陣を描いて、それを抜けた。術が弱い精霊(ア=セク)を一人も残らず、強い者たちに割り振り、連れて来させるのは、王の采配の見せ所だった。
 ところが、今回の近接(タゲント)にあたっては、もうとっくに召集の紋章が上がってもおかしくない時期になっても、王宮の動きは見られなかった。
 それに気づいた地霊(ムデク)たちは、あるいは単独で、あるいは親しい精霊(ア=セク)を誘いあわせて、王宮へ向かった。

 王宮に参じた地霊(ムデク)精霊(ア=セク)王オーリンに召集を迫り、予言を信じない王がそれを却下するという問答が何度か続いた。やがて、新しく参上した地霊(ムデク)も、他の地霊(ムデク)に事情を聞いて、何も言わないようになった。ただ、彼らは自領へ戻ることなく、王宮に留まった。
 そのうち、王宮の匠精(メト)たちのうち、とりわけシェーヌと親しい三人が、交代でシェーヌの傍らにいるようになった。
 シェーヌはじれて、問いただす。
「どうした? 他の用事はいいのか」
「ええ。今日はなんとも、シェーヌさまのお姿を眺めていたい気分でありまして」
「なにかあるのか?」
「いえいえ、何もございませんとも」
 そんな答えで誤魔化しきれているつもりなのか、誤魔化せていないことを承知で空とぼけているのか。
 早く、何も起こることなく、近接(タゲント)の日が過ぎてしまえばいいのに。
 シェーヌは息苦しいような思いを抱えながら、オーリンを見る。
 シェーヌの視線の先、オーリンは、毅然と背を伸ばして、王座にいた。

  ◆

 イズナとキラムが、アマルカンの家から帰ってきた日の午後である。
 ニエルは、イズナが、替えの制服に黒いリボンを結ぶのを見ていた。
「どうしてもいくの? アマルカンの葬儀」
 キラムが心配そうに、イズナを見上げる。
「行く」
 イズナは、ぽつりと答えた。
「付いて行っていいか。邪魔はしないようにする」
 ニエルがいうと、なぜ、というふうに、イズナの視線がニエルへ動いた。
「この世界の儀式に、興味がある」
 それは嘘ではないが。イズナの様子も気にかかるし、と、付け加えれば、たぶん、イズナに拒絶される。
 イズナは、いいとは言わなかったが、禁止もしてこない。制服の背には、布の袋に入れた剣を背負っている。それが何なのか、ちょっと目にはわからない。
 日中の、民家の続く街路を、イズナから数歩離れて、歩く。この世界は子供が多い。はしゃぎ声で駆け回る間を、黙々と歩く。
 イズナが足を止めたのは、民家よりやや大きな建物の前。この町独特の黒い瓦、下半分は石を積み、上半分は白い土を塗った、民家と大差ない様式である。民家と違うのは、建物の前に小さな受付があることくらい。
 半仮面をつけた、女と、巨漢の男が、受付と押し問答をしている。言葉が全部は解らないが、どうも断られているらしい。
 男は斧を背負い、女は腰の左右に刀を帯びている。この世界の風習はわからないが、ニエルの感覚では、葬儀にくる格好ではないような気がする。ニエルの生まれたイーザスンは戦争の絶えない世界で、葬儀も年中あったが、武器は帯びない慣わしだった。
 続いてイズナが言うのが、ニエルのところまで聞こえる。
「マキサの知りあいです」
 マキサの通う学校の制服を着た少女にそう言われれば、受付は通す。
 ネルソン=ガロウは、内心、おい、と唸った。知人は嘘ではない。嘘ではないが。半仮面をつけずに魔狩(ヴァン=ハンテ)であることを秘し、誠実とは言いがたい理由で、葬儀に潜り込むとは。
「イズナは……、霊武器(フィギン)を回収できなかったのを、自分のミスだと思っているのよ」
 コトハが囁きをよこす。
「アマルカンの葬儀を穢してか」
 コトハは、目を伏せた。
 ネルソン=ガロウは、入り口から中の様子をかいま見る。妻が健在なら、普通は妻が挨拶役を務めるものだ。しかし、アマルカンの妻は、涙と一緒に魂まで流しだしてしまったかのように、椅子に座ったまま動かない。虚ろな表情の頬に、ひたすら涙が伝う。母のかわりに、マキサが父の葬儀に列席する人々への礼を書いた紙をぎこちなく読み上げている。
 マキサの挨拶が終わり、人々が献花の列を作る。何人かが、複数の花をとり、唇に触れさせているのは、列席できなかった者の代理として、花に名前を囁くのだ。アスワードの古くからの習慣だった。
 しっかりした体格の男たちは、おそらく、昼の仕事の同僚たちだろう。若い男の中には、目を腫らした者もいる。ネルソン=ガロウは、アマルカンが昼の職場でも慕われていたのだろうと思い当たる。
 家の近所の連中か、互いに顔見知りらしい男女が一かたまり。亡くなった一家の主が、魔狩(ヴァン=ハンテ)だったと周囲連中に知られて、アマルカンの妻と息子は、引越しをせざるを得ないのではあるまいか。アマルカンと暮らした、思い出のある家から。そういえば、自分も夜中に扉を叩いたのだった、と、ネルソン=ガロウは、人より大きな拳に目を落とす。
 献花を終えた者は、儀式の場から街路へと吐き出されてくるのだが。ネルソン=ガロウとコトハ以外にもう一人、中に入ろうとしない男がいるのが気にかかる。どこが、と言われると困るのだが。どこか異様な風体の男である。ベルトにつけた道具入れのようなものが目立つ。
「お前、なんだ」
 ネルソン=ガロウは、低く声をかけた。
「待ッテル」
 中にいる誰かが出てくるのを待っているらしいのだが。言葉の発音がおかしい気がする。
「誰をだ」
「知リアイ」
 と、言っておいて、なにやら自分の言ったことに自信がないような表情をする。やっぱり、発音が妙だ。
 見慣れない仕草で、肩をすくめ、場から少し離れた。儀式の邪魔をするつもりはない、という意思表示にも見えたので、放っておくことにする。
 イズナは、献花の列の最後についていた。三輪の花をとる。
「ネルソン=ガロウの代理として」
 唇が動く。頼んでねぇよ、心の中で毒づく。
「コトハの代理として」
 次の動きにコトハを見れば、コトハは反発の表情もなく静かにイズナを見つめている。イズナの手の中の花に、想いを込めるかのように。
 イズナは、三輪の花を置くと、アマルカンの棺の前に頭を垂れている。イズナ以外の列席者は、全て去り。儀式の場には、イズナとアマルカンの妻子だけが残った。
 入ろうと動きかけたネルソン=ガロウの手首に、コトハの指がからみついて、止めた。
「イズナに、任せましょう」
「本気か?」
「ネルソン=ガロウ。貴方は居るだけで威圧感があるの。自覚して」
「本気かよ……」
 再度毒づくが、心が壊れかけたようなアマルカンの妻の前に自分が出て行くことがいいことなのか、自信がなくなる。
 動こうとしないイズナに、マキサが歩み寄った。
「おひきとりください」「お願いがあります」
 マキサとイズナの声が、重なった。
霊武器(フィギン)は、やはり譲っていただきたい」
「断ります」
 マキサの返事は、短く、きっぱりとしていた。
「父のものです。父とともに荼毘に付します」
 街から離れると妖魔(ヴァン)が出るこの世界では、墓地も、街の周囲に限られる。墓地は狭く、遺体は火葬にする。焼く、と、明確に示されて、イズナの声が少しうわずる。
「アマルカンが大切にしていたのは、きっと、霊武器(フィギン)だから……。妖魔(ヴァン)と戦うのに……、妖魔(ヴァン)から人を守るのに必要だから」
 マキサはかぶりを振る。
「曽祖父の形見と、聞いて、います……」
 語尾が震えた。マキサはたぶん、気づいたのだ。彼の曽祖父、アマルカンの祖父もまた、魔狩(ヴァン=ハンテ)であったという可能性に。何十年も前に、一人の少女がいた。少女の両親を救えなかった魔狩(ヴァン=ハンテ)がいた。魔狩(ヴァン=ハンテ)の孫息子は、少女を愛し、祖父の力を継いで、何十年も秘密を保ってきた。愛する者の心を守るために。後には、好奇の目から息子を守るためにも。
「私は、アマルカンから、魔狩(ヴァン=ハンテ)が去るときは、霊武器(フィギン)を、魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所に納めるのだと教わった」
 イズナの凛とした声が、何かを砕く。
「僕は、聞いてないっ」
 それはもう、理屈ではない。悲鳴でしかない。マキサは顔を覆い、嗚咽を上げる。
「僕は、父さんから、何もっ」
 唐突に、イズナが身を翻した。アマルカンの棺に手を入れると、ブレスレットを抜き取る。
 いくらなんでも無茶な、と、ネルソン=ガロウは動きかけ、再びコトハに押さえられる。
「彼に触らないで!」
 金切り声が響いた。放心状態だったアマルカンの妻が今は立ち上がり、体の脇で両の拳を握っている。
 イズナの手からブレスレットを取り返そうとしたマキサが、狂気じみた母の声に硬直した。
 イズナの手と、マキサの手が、一つのブレスレットを両側から握りしめている。イズナが、静かに動いた。自分の片手ごと、マキサの片手ごと、もう片方の掌で包み込む。
「私を、憎んで」
 イズナの声は、マキサに、言うのか。マキサの母に、言うのか。
「私を憎めばいい……、憎しみは、限界で人を支えるから」
 マキサの目に怒りが灯る。イズナの、理不尽な言葉に、怒ったのだ、とネルソン=ガロウは思う。マキサの感情が昂ぶった、その瞬間。
 イズナとマキサの間にあるのは、ブレスレットではなかった。蒼の長剣。宝玉を思わせる青い鞘におさまった、霊武器(フィギン)だった。
 マキサの母が、瞬いた。
「この子まで連れていくの?」
 問いかける声から、狂気は去っていた。視線は、ただしく息子の上に、いま霊気を帯びた長剣を手に立ち尽くしている息子の上に、焦点を合わせている。
「そんなもの、どこへでも持っていってください。でもどうか、この子まで奪わないで」
 イズナはマキサの母を見て、それからマキサに視線を移した。マキサは長剣を見上げると、試みるように息を吐いた。霊武器(フィギン)は、マキサの呼吸に命じられたように姿を消し、ブレスレットに戻る。
魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所に、献じます。どうぞ……、お持ちください」
 マキサは改まった言葉遣いで言うと、ブレスレットから手を離す。
 イズナは一礼すると、街路へと出て来た。自分の霊武器(フィギン)の鞘を掴み、強く引いた。ばらり、と留め紐が解ける。自分の霊武器(フィギン)と、アマルカンのブレスレットと重ね、ネルソン=ガロウに差し出した。
 ネルソン=ガロウは、自分の手が、アマルカンのブレスレットだけを受け取るのを見た。
「納得したのか? 納得して譲るのでなければ、霊武器(フィギン)は次の持ち主を選ばない」
 言葉が口をついた。イズナの瞳が揺れた。一度差し出した剣を、自分の腰に再び留めつけた。そのまま、二人の魔狩(ヴァン=ハンテ)に背を向け、歩き出した。あの見知らぬ男が、追いついて歩みを揃えた。
 ネルソン=ガロウは、呆然と二つの背を見送る。
「ネルソン=ガロウ?」
 コトハが、語尾を上げた。瞳が、彼らしくない言葉の、真意を問うている。
「俺が言ったんじゃない。言わされたんだ」
「誰に?」
「……斧、かもな?」
 自分の霊武器(フィギン)に手を伸ばし、触れる。
「信じるか?」
 コトハが、深いため息をついた。
「貴方が嘘つく人じゃないのは、知ってるわ。それに、なんだろう、事実だって判るの。まるで私の刀が賛成しているように。……"普通の"人たちが言うとおり、私たちは異能の者なのね、武器の代弁をするほどの」
 コトハの声が、寂しかった。
「ああ。"俺たち"だ」
 独りじゃない、とまでは、口に出せなかったが。声にしなかった言葉を聞きとったかのように、コトハは微かに笑んで頷いた。
 
 ニエルは、行きと同じ道をたどって、イズナの家に戻りながら。
「なぁ。俺が口出すことじゃ、ないかもしれんのだが」
と声をかけた。
 イズナが目をあげて、視線で続きを促した。
「憎しみは、限界で人を支える」
 ニエルは、イズナの言葉を繰り返す。
「本気か?」
「ある人に、そう言われたの」
「たしかに……、一面の真実ってやつは、ある」
 ニエルは、イーザスンの戦争の中で、死を見ていた。憎しみを知っていた。憎しみと怒りで自らの炎をかきたて、ようやく生き延びる局面も見ている。だが。
「だがな。それだけじゃ、ないんじゃないか?」
 戦士であるドォルたちの陽気さ、ユーモア、温かさを思い出す。ジャランという少年がいた。最後の言葉は、「ありがとう」。
 イズナは、答えない。もう会話を終えるつもりか、と、思ったとき、ぽつっと、
「今日は、まだ。否定しないで」
 そういった。
 先の言葉をイズナに教えたのが誰だか、想像がついた気がして。ニエルはそれ以上言葉を重ねることができなくなった。