異血の子ら

■異界の門■

 オーリンとイズナが立つのは、地上、人の背の半分ほど高さのある大きな岩の上。闇の底にいた目には、満月が眩しく映る。
「状況はっ?」
「雌雄はほぼ決したが」
 オーリンの視線の先に、壁と瓦礫を盾に、一塊になった妖魔(ヴァン)たちと竜、そして、ナズナ。周囲は、人と精霊(ア=セク)に取り囲まれている。
 イズナは、
「これ、ありがとうございました」
 焦りのあまり投げ出す手つきで、オーリンにシェーヌの首飾りを返すと、大岩を飛び降りて駆け出した。人と精霊(ア=セク)をかきわけ、ナズナの目前へ、出た。ニエルが、イズナを見つけて、傍らに追いついて来た。
 精霊(ア=セク)霊武器(フィギン)を携え斬り込むには、壁と瓦礫が邪魔。
 銃の射手の中には、妖魔(ヴァン)が盾とした瓦礫に登って、銃を構えている者がいた。だが、銃を持つ人間にとっては、ナズナという少女を人質に取られているに等しい。
 妖魔(ヴァン)の側から動くには、周囲の包囲が厚い。
 動きを止めた両軍のただなか、サガが声を上げる。
妖魔(ヴァン)王の第一王子と王女が空の罅に呑まれ、《門》も失われた。もう一つの《ノ=フィアリスの門》とは、どこだ?」
 囲み手を睥睨するサガを、ナズナは、その背後から見つめる。緑の翼は片方が裂け、手にした霊武器(フィギン)の色は失せて、戦いの始めに竜形に変じた腕は元の姿に戻っている。しかし、声は力を失っていなかった。サガの問に答える声はない。サガは、今度は人を率いて来たエドア=ガルドに顔を向け、視線でイズナを示した。
「そこの娘と、《門》を渡せ。そうすれば、妖魔(ヴァン)は永久にこの地から去ってやる」
 エドア=ガルドが、物問いたげに精霊(ア=セク)王を見る。精霊(ア=セク)の王の表情はほとんど動かないが、第二の《門》といわれて、戸惑っているようにも見えた。
 イズナは。竜が地上に降りたのに、ナズナがなぜ妖魔(ヴァン)から逃れようとしないのか、怪訝に思ったのだが。ナズナが予言の子で、妖魔(ヴァン)をすべてノ=フィアリスへ連れていくことができれば、アスワードから妖魔(ヴァン)はいなくなるのだと、ようやく気づいた。だからナズナは、妖魔(ヴァン)に従っているのだ。
「もしかして……」
 イズナは、横に立つニエルのポケットに、強引に手を入れると、石の包みを取り出した。ノ=フィアリス、と言っていた、と思い出したのだ。
「おいっ」
 ニエルを振り切るように、赤い石を取り出す。緑色のなにかが、包みから零れ出たが、頓着しなかった。赤い石を、妖魔(ヴァン)たちに差しつける。
 血想晶(プラディースタ)が輝き、誰の目もそれに吸い寄せられた。
「妾の名はハルシア、銀の髪の異血(ディプラド)、アヤカシの王の血筋。ノ=フィアリスについて知りたくば、石を開け」
 精霊(ア=セク)の王宮同様、オーリンがその場にいるのだから、それが光ることには不思議に感じなかったイズナだが。緑翼の妖魔(ヴァン)が、
「我は望む」
 と答え、血想晶(プラディースタ)の光が増したので、驚いた。
 若く美しい女の姿が現れる。精霊(ア=セク)の王宮で開いたもう一つの血想晶(プラディースタ)の女によく似た、艶やかな銀の髪。
「妾の名はハルシア、アヤカシの王の血をひく者。精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)も、妾にとって優劣はない。──先の近接(タゲント)、融和派の精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)は、手をたずさえてノ=フィアリスへ渡ってきた。ノ=フィアリスは、まこと、精霊(ア=セク)にとっては楽園だ。しかし、純血の妖魔(ヴァン)はこの地では生きられぬと判った。妖魔(ヴァン)は、長く、人は楽しみのために口にするもの、食することを止めても命には関わらぬと信じてきた。しかし、妖魔(ヴァン)はおそらく、長く人を喰らいすぎたのであろうよ。……人の存在せぬこの地で、妖魔(ヴァン)は餓えに苦しみ、子もなさず、ほんの数年の寿命で老いて死んでいった。生き残ったのは異血(ディプラド)の妾のみ。見よ」
 女は、首飾りのように赤い球を連ねたものを取り出した。捧げ持って、念じる。球はきらきらと光を放つ。それにつれ、女は年老いていった。
「人一人を喰らって取り戻した若さも、たかが霊術具(フィガウ)一つ調えれば褪せてゆく。……それでも妾は三百年を生きた。この美しい地でな」
 老女となった女は、静かに笑んだ。
「純血の妖魔(ヴァン)は、ノ=フィアリスへ渡ってはならぬ。異血(ディプラド)の者は自ら決めよ。大地に、風が吹き、木々が揺れる、この地は、精霊(ア=セク)のための地だ。──この石が開かれたなら、異界の旅人の約は成る」
 最後に、血想晶(プラディースタ)が、赤ではなく金の光を発した。光に弱い妖魔(ヴァン)が、何人か、顔をしかめた。答えるように、イズナの手元で何かが光る。連ねた石が、輝いていた。
「《ノ=フィアリスの門》?」
 リュア=エ=レネルと共に空の罅へ消えた霊術具(フィガウ)と同じ形を見て、サガの口から声が出た。輝きが薄れたとき、それは緑ではなく、金色に色を変えていた。
「……ノ=フィアリスにあって、赤い時にはアスワードへ。アスワードにあって、緑の時にはノ=フィアリスへ。金色に変じたら、イーザスンへ。……こいつはもう、ノ=フィアリスへは通じていないはずだ」
 ニエルが言った。
「失われた《ノ=フィアリスの門》は、緑の色をしていた」
 サガの声が、低い。
「イーザスン、……って?」
 風霊(ウィデク)であるシェーヌには、ニエルの言葉が判るのだが、一語だけが解らなくて、訊ね返す。
「イーザスンは、俺の故郷の、世界の名だ。こいつは、今は《ノ=フィアリスの門》じゃない。これで、イズナかナズナを殺すっていう、バカ話はチャラだな?」
「謀ったな?」
 シェーヌが唾棄するようにいう。
「そりゃ、カンベンしてくれ。こうなるなんて、俺に予想できると思うか?」
「《ノ=フィアリスの門》は、再び失われたと?」
 オーリンの声で一斉に精霊(ア=セク)がざわめく。
 対して妖魔(ヴァン)達は、押し黙っている。今日の戦闘で、滅びの語が現実性を帯びるまで数が減ったところへ、妖魔(ヴァン)はノ=フィアリスへは渡れないと言い渡されたのだ。
 竜の傍らに降りていたナズナは、いきなりサガに手首をつかまれ、囲み手たちを見渡せる場所、ひときわ大きな瓦礫の前まで引き出された。
「少しだけ堪えろ」
 サガが、ナズナの耳元で囁いた。あっと思う間に、ナズナは両腕を後ろ手にねじりあげられ、首筋に刃の感触。
「他の者たちを、逃せ。応じるなら、この娘を返す」
 サガが視線で指すのは、背後の妖魔(ヴァン)たちと竜。ノ=フィアリスへ渡れないことを知っている、わずかな生き残り。滅亡を予言された者たち。
 サガとナズナと竜、そして二十ほどの妖魔(ヴァン)を見渡して、エドア=ガルドの表情が揺れる。迷っている、とナズナは思った。目の前の一人の命と、ここで二十足らずの妖魔(ヴァン)たちを見逃すことでこれから失われる命の数。
 誰しも疲労の色が濃く、霊武器(フィギン)の光もすでに薄い。膠着状態が長引けば、決着は着かなくなるだろう。
 ナズナは、自分と妖魔(ヴァン)たちを取り囲む銃口を、見回した。自分の震えを抑え、サガに腕を押さえられたまま、背に力を篭める。
「私は……、私の命より、人が妖魔(ヴァン)に怯えずに済む世界を望みます」
 ナズナが驚いたことに、サガは笑んだ。妖魔(ヴァン)の王子であることを行動理由にしたサガが、領主の娘でも人の女王でもないナズナの決意を、賞賛する笑み。
「それを理由に、そなたに、全てを強いて来た」
 サガの呟きに、ナズナは思わず振り返る。サガの金の眼と、目があった。
「私の負けだ」  サガの唇が動く。エドア=ガルドの声がかぶる。
「すまぬ……、よく言った……」
 エドア=ガルドの声がかすれた。腕を上げ、斉射、と、手が指図した。
「姉さん!」
 イズナが事態を止める暇はなかった。数え切れない銃声、硝煙の霞が月下に満ちた。せめて緑翼の妖魔(ヴァン)は自分の手で倒したくて、イズナはまっすぐ斬りかかる、緑の翼がイズナの予期とは異なる動きをして、イズナは背を斬り裂く手ごたえを感じた。霊力(フィグ)を吸い取り、刃が輝く。それが数秒の間のできごと。
「サガ!」
 ナズナの悲鳴。何が起こったのか、イズナには認識しきれなかった。そのまま、周囲の戦闘に巻き込まれる。
 銃弾で飛べなくなった妖魔(ヴァン)を、魔狩(ヴァン=ハンテ)精霊(ア=セク)の戦士が複数で斬りかかる。銃弾を避けて飛び上がった妖魔(ヴァン)は、風霊(ウィデク)が上空に待ち構えていた。戦いは、激しかったが、短かった。妖魔(ヴァン)がいかに個体戦闘力が優れようと、あまりにも、多勢に無勢だった。
 傷だらけの竜が、咆哮する。竜の周りには、断末魔にねじれた妖魔(ヴァン)の死体だらけで、それを再び、精霊(ア=セク)と人間たちが取り囲んでいた。竜の足元に倒れたサガに、ナズナが覆いかぶさるようにしていた。
「ねえ……さん……?」
 イズナは、息を呑む。ナズナは、生きていた。ぼろぼろと涙を零しながら、サガの体に手を当てている。子犬を癒すときの動作。
「姉さん?」
 イズナは、ナズナの傍らに膝をつく。
「サガが、私を、かばったの」
 ナズナが言って、サガの体に当てた掌に、意識を集中している。
 イズナは、銃撃の瞬間のサガの動きを、ようやく理解する。銃が発射された時、サガはナズナを腕と翼で抱きしめ、体で銃弾を防いだのだ。その背を、イズナが斬った。
「無駄だ……、そなたの力では、足りぬ。たとえ王妹ラローゼであろうと、ここまでの深手は……」
 サガはかすれた声でナズナに言って、竜へ向かって手を伸ばした。竜はひどく優しい仕草で、その手に頬ずりする。まるで、なに?と言っているようだ。
 サガは掌で竜の鼻先を捕らえると、念を篭めるように瞼を閉じた。竜の体から、鱗の隙を破った銃弾がぽろぽろと落ちて、血の糸を引いた。妖魔(ヴァン)に癒しの力はない。銃弾を単純に動かして、体の外に出せるだけ。ナズナが与えようとした霊力(フィグ)を、その術で使い尽くして、サガの手は力なく地面に下りた。イズナに、視線を向ける。
「とどめを、刺せ。私に、息があれば、……は飛ばぬ」
 「竜」とは聞こえなかった、「母」と言ったことをイズナは聞き取れない。
 それでも。竜はサガがいる限りここを離れないことは理解できた。いずれは殺されてしまうだろう、妖魔(ヴァン)の騎竜を憎む者か、角や鱗を欲する者に。
 イズナは霊剣を握りなおし、振り上げた。
「イズナ、やめて! 彼は人を食べなくても生きられるの。純粋な妖魔(ヴァン)じゃないから」
 ナズナが、両手を広げ、サガとイズナの間に割り込んだ。斬ろうとする妹と、斬るなという姉は、わずか半歩の距離。
「姉さん……」
 イズナは、深く息を吐いた。肩の力が抜ける。剣が、地面に落ちた。
「ねえ、姉さん、知ってた? 姉さんと私ね、純粋な人間じゃないんだって」
 両手を伸ばし、姉の肩を抱き、耳元に唇を寄せて囁きで尋ねる。
「ええ。サガに、……彼に聞いたわ。異血(ディプラド)、サガも私たちも異血(ディプラド)の子だと」
「姉さん。姉さんは、どうしたいの」
 囁く問に、答えは、戻らない。すぐには言葉にできない願い。
「姉さん。父さんと母さんを殺したのが、緑の翼の妖魔(ヴァン)だったって知ってる?」
 ナズナは、声もなく頷き。広げた手を、イズナの背に回した。詫びるように。
 知っていて決めるならいい、と、イズナは、姉の肩を抱く。両親を失った時は幼かった。両親が妖魔(ヴァン)に殺されたと聞いて、イズナは魔狩(ヴァン=ハンテ)を目指した。けれど、今は、多くの出来事に隔てられて、両親の死はあまりに遠い。
 魔狩(ヴァン=ハンテ)の一人がイズナの背後から回り込むように動きかけた。長年妖魔(ヴァン)と戦ってきた魔狩(ヴァン=ハンテ)にとって、瀕死のサガは妖魔(ヴァン)の一人にすぎないのだ。
 イズナは、抱擁を解いて、すばやく剣を拾う。精霊(ア=セク)魔狩(ヴァン=ハンテ)たちに対峙した。霊剣を低く構え、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちの動きに視線を配りながら、背後の姉に語りかける。
「姉さん、あのね、おばあちゃま、死んだ……。おじいさまも亡くなったって。小精霊(ミア=セク)のキラムね、覚えてる? 戻って来た。でも死んじゃった。ミナセ知ってたよね、私の友達。ミナセも死んだ。アマルカン……《蒼の長剣》も死んだ、私のせいで」
 出会った死を、私は負っていく、とイズナは思う。でもナズナには、サガの死を背負ってほしくなかった。ナズナは、子供のころから、イズナよりもずっと優しかったから。
「その人をこのまま死なせるなら、姉さんじゃなく、私が殺したんだということを忘れないでいて。その人を死なせたくないなら、……私は、姉さんに味方する!」
 サガを「その人」と呼んで、イズナはナズナに選択を委ねる。
「でも……、それじゃ、イズナが一人ぼっちになってしまう」
 戻った答えは、ナズナがサガと共に行きたいという意思表示。わかった、と、イズナは頷く。
 イズナは、たくさんのものを失ってきた。いま、行かないで、戻ってきてと縋れば、姉だけは取り戻せるのかもしれなかった。心にぽっかりと穴の開いたナズナを。
 いやだ、そんなことをするくらいなら、姉が、命を賭けあえるほどの相手と共にいることを考えながら、一人で生きて行くほうがいい。と、イズナは思う。
 じり、と、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちの囲みが絞られる。
 一人で生きるどころじゃないか。ここを生き延びられるかどうか判らないのに。自分でも不思議なことに、イズナの頬に笑みが浮かんだ。しっかりと、声を出す。
「私ね……、ずっと姉さんを守ろうと思ってたのに、あの時、姉さんだけが攫われた時に、守れなかった。だから今は……」
 イズナは、背を伸ばすと、剣を高く構えなおした。応えるように魔狩(ヴァン=ハンテ)の何人かが抜刀した。
 周囲を確認するように見回したイズナの視界の端、気づいていなかったニエルの動きが目に入る。ニエルは、ほとんど意識のないサガを、ナズナが竜に乗せるのに力を貸していた。続いて、ナズナ自身が乗る手助けをする。
「エドア=ガルドに借りた銃で、エドア=ガルドを人質にとるってのも、考えたんだがなぁ。俺じゃあ、脅迫するには語彙が足りない」
 ニエルは、早口にイズナに言って、肩をすくめた。
 イズナは剣を構えたまま、小さく下がって、竜に「飛べる?」と囁いた。竜は、優しい目で頷いた。イズナの動きに呼応して、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちが間合いを詰める。銃口も、いくつも、イズナへと向く。
 いくら竜が気をつけて飛ぶにしても、今のサガでは落ちてしまうかもしれない。でもナズナさえついていれば、支えることができる。今日だけでは無理だとしても、何日をかけても、サガを癒すだろう。二人が乗れば、竜の翼の大きさから見て、飛ぶのは、やっと。イズナやニエルを運ぶ余裕はない。「行って」……イズナが竜にそう言おうとした時。
「ちょっと待ってよ。妖魔(ヴァン)はともかく、イズナを斬ることはないでしょう」
 声がした。コトハだった。魔狩(ヴァン=ハンテ)をかきわけて前に出てくると、イズナに並んで、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちを見る。のそ、と、ネルソン=ガロウの巨体が、無言でその脇に並んだ。
 トキホの魔狩(ヴァン=ハンテ)が動いたのを見て、エドア=ガルドが苦笑した。
「ナズナ、といったか。カイとシズサの娘」
「はい」
 竜に騎し、サガを支えながら、ナズナが頷く。
「その半妖魔(ヴァン)が人を喰らえば、どの都市のことでも、ここにいる魔狩(ヴァン=ハンテ)の誰かが駆けつける。それは、判っているな?」
「はい。でも彼は本当に、人間を食べなくても生きられるのです」
「皆、聞いてのとおりだ。わしは、ここで魔狩(ヴァン=ハンテ)同士が斬り合うのは見たくない。そのナズナという娘は、トキホの魔狩(ヴァン=ハンテ)の子だ。その子を救った半(ア=セヴ)を、しばらく見守ってくれ、というのが容易な頼みではないことは判っている。半(ア=セヴ)と言っても、数百年は生きるのかもしれんのだからな。ここにいる者が伝承してゆくことになる。それでも、なお頼む。ここは武器を引いてもらえんか」
 刀を抜いた者たちが目を見合わせた。刀を抜いていない魔狩(ヴァン=ハンテ)が、抜刀した者を説得するらしく、ざわざわと声が上がる。
「盟主殿がそうおっしゃるなら」
 一人が明確に声をあげて、ぱちりと刀を鞘に収めて見せた。それがきっかけだった。一人、また一人と、武器を下げる。後列から覗いた、槍のような長剣が、最後に下がった。
 エドア=ガルドは、オーリンを振り向いた。オーリンは上空に視線を投げただけだったのに、上空を守っていた風霊(ウィデク)たちがさっと竜の頭上をあけた。
 竜が嬉しげに羽ばたいた。その翼は無傷とは言えなかったが、飛ぶのに支障があるほど大きな傷はない。竜は、サガとナズナを背に、飛び立った。月は高く上がり、天頂に近い。月光を帯びた空に、竜の影が遠ざかる。
 
 戦は、終わった。妖魔(ヴァン)は、一人の異血(ディプラド)と、封じられた王を残して、壊滅した。人間も精霊(ア=セク)も、犠牲者を出した。傷を負った者もある。無傷の者も、疲労しきっていた。
 霊力(フィグ)が残る精霊(ア=セク)は、精霊(ア=セク)と人間の怪我人に、分け隔てなく、癒しの術を施した。妖魔(ヴァン)には稀な癒しの術を、精霊(ア=セク)はほとんどが使いこなす。王リュウガとは違う潰れた地下室に、妖魔(ヴァン)に仕えていた匠精(メト)の生き残りが見つかり、これも治療した。
 癒しの術を受けてもなお手当ての必要な怪我人を、人間たちは支えたり担いだりして谷を越え、バスに乗せてトキホへ先行させた。無傷の者・働ける程度の傷の者は、一部が地霊(ムデク)が焼いた遺骨を集め、残りは野営の準備を始めた。明朝まで留まり、朝の光のなかで戦場を見回って、息が残った妖魔(ヴァン)があれば止めを刺す予定になっていた。
 癒しの施術を行うこともできないほど消耗した精霊(ア=セク)たちは、風霊(ウィデク)は風を浴び、地霊(ムデク)は大地に膝をつき手をついて、力を貰っている。樹霊(ジェク)たちは、樹木から力を得るために、谷を越えた森へと散って行った。
 イズナはニエルと一緒に、野営組の一角にいた。そこにゆっくりとシェーヌが歩み寄って来た。風霊(ウィデク)独特の、地の上を滑るような飛び方をせずに、歩いてくる。彼女の力も、限界なのだ。
 ニエルの前に立った。
「ニエル……?」
 シェーヌは、少し自信なげに名を呼んだ。あってる、と、ニエルが頷いた。
「ハルシアは、どんな人だった? もしも次の近接(タゲント)でノ=フィアリスへ渡ったら、会えるだろうか」
「どうかな」ニエルは、首を傾げる。「俺の見てる間に、透明になって、消えてしまった。あれは、アヤカシにとって、死ぬってことなのか?」
 シェーヌは頷き、
「そう……。死んでしまったのか。貴方は、血想晶(プラディースタ)の中身を知っていたのか?」
 と、重ねて訊いた。
「いいや」ニエルは、口の端にどうにか笑みらしきものを刻んだ。「ノ=フィアリスの出立はばたばたでな。アヤカシの王に血想晶(プラディースタ)の伝言を届けろとしか言われなかった」
「アヤカシの、王か。ハルシアは、お前がアヤカシの王に出会うことを祈っていたんだな。精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)を共に統べる王が、アスワードに立っていることを」
「俺は、ハルシアの願いの中身を知らなかった。彼女は、自分がアスワードに送りこんだ俺が、妖魔(ヴァン)を滅ぼすことになるとは思わなかった」
「ニエル。判ってる? アスワードの人間にとっては、貴方は、この世界から妖魔(ヴァン)を滅ぼしてくれた英雄なんだよ?」
 イズナが口をはさむ。
「がらじゃない」
 ニエルは肩をすくめた。
 シェーヌは、後ろを振り向いて、怪我人に癒しの術をかけているオーリンを見た。それからまたニエルに向き直る。
「二のアヤカシは一となる……、妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)がどちらかしか生き残れないのではなく、融和の道を探る動きもないわけじゃなかったんだ。上手くは行かなかったとはいえ」
 イズナはかぶりを振った。
「私は、人間だから。人を食い殺さないと存続できない、妖魔(ヴァン)という種族が、滅びなかったほうが良かったとは、やっぱり、言うことができない」
「俺は、イズナが言うこともわかる。だが……、俺は人と人が戦争をする世界から来たけれど、敵を全滅させるっていう戦い方じゃなかった。降伏を待っている戦争なんだ。そうじゃなきゃ、あんなに戦争が長期化しないけどな。……一つの種族を滅ぼしたことに気が咎めるくらいには、俺は、よそ者なんだよ」
 ニエルは言ってから、いやもう、よそ者と言ってもいられないか、と、イズナの手にある、金色の霊術具(フィガウ)に視線を投げた。
「そいつ、イーザスンに通じたらしいが。たぶん、方向を定める道具だ。この世界を飛び出すためのブースター……俺が持ってきた道具は、もう、ない」
 ニエルは、イズナに笑顔を向けた。
「この世界の言葉も、もっと真面目に覚えなくちゃな」
 人同士の戦争を見たことがないイズナは、ニエルの世界を想像できずにいる。ただ、ニエルの世界イーザスンと、このアスワードがあまりに違うことを感じる。その異なる世界に、ニエルは、留まる覚悟なのだ、と、イズナは思う。──私のために、道具を使ってしまったから。
 イズナは、金の光の綴りを持ち上げてみる。まるで何かを誘うように煌めいている。
「ねえ。私じゃ、あの道具の代わりになれないのかな」
 イズナは言ってみる。
「姉さんが生きているから、予言の条件は全部揃ってないけど。でもあの予言はノ=フィアリスの話でしょ? 本当に私に何か力があるなら……」
 イズナの言葉に答えるように、霊術具(フィガウ)はきらきらと光を零す。
「たくさんの人が、私のために死んだ。私は、誰かのために、何かできないのかな? 何の役にも立たないのかな? 守られるだけって、けっこう、悲しい」
 ニエルと自分が異なるから、ニエルをこの世界から追うのではなかった。ただ、違いすぎる世界にいることは、辛いだろうと想うから。
 シェーヌが、ついと月を見上げた。
「試みるなら、今だぞ。月が中天に上がった。……近接(タゲント)の刻だ」
 イズナは、霊術具(フィガウ)の一点を持ち、高く掲げてみる。念じた。応えて、と。珠を繋げた首飾りに見えたものの、珠の一つ一つが、離れ始める。それにつれて、首飾りのようだったものが、四角い輪郭を描きながら、広がった。人一人、通れるくらいの大きさにまで。
 それを、そっと地面に置く。縁である霊術具(フィガウ)に手をかけたまま、井戸を覗くように、覗き込む。霊術具(フィガウ)の枠の中には、透明のトンネルがあって。壁からは何かの流れが見えている。何百もの流れ。不思議な光景。しかし、風は吹かなかった。むしろ空気が凝ったように動かない。異世界への通路を開くと同時に、空気を止める何かが働いているのかもしれなかった。
 こんなに疲れていなかったら、もっと広げられたかも、と、イズナは思う。たぶん、数十人が通れるくらいなら。でも数百人はとても無理だ、と、直感する。
「この門、長くはもたないと思う……、だからニエル……」
 ニエルは手を伸ばし、掌でイズナの頬に触れる。
「ありがとう……」
「お礼を言うのは、こっち……。感謝してる、だからこそ帰ってほしい、ニエル。あなたの居るべき場所へ」
「居るべき、場所か……」
 ニエルは、イズナの頬から手を離すと、霊術具(フィガウ)の枠の内側へダイブした。ニエルの姿が見えなくなるまで、イズナは、《門》を支えた。ふいに力が抜ける感じがして、霊術具(フィガウ)は元の大きさに戻り、トンネルが消えた。根拠はないが、満たされた感じが、術が失敗したわけではないと知らせるようだった。
 霊術具(フィガウ)の発する光は消えて、艶やかな宝玉になっている。月の光で色が見づらいが、それはどう見ても、金や黄色ではなく、緑に変じていた。
「イズナ。それ……、貰い受けるわけにはいかないか」
 シェーヌが、言った。
「いいよ。私はもう、要らないから」
「次の近接(タゲント)は、三百年後。予言は、実現するかもしれないし、実現しないかもしれない。どちらの道であっても精霊(ア=セク)が生き延びることができるように……」
 それは以前、オーリンが言った言葉。シェーヌが、掌を差し出す。まるで花飾りでも手渡す気安さで、イズナはその手の上に、霊術具(フィガウ)を置いた。指先、肌と肌が、触れた。
 シェーヌに突然手首を捉えられて、イズナは驚く。
「イズナ、お前……、身篭っている?」
 いつのまにか三人を遠巻きに見守っていた見物の中、コトハとネルソン=ガロウが顔を見合わせ、精霊(ア=セク)の一部は軽く息を呑んだ。精霊(ア=セク)にとっては、イズナが妊娠しているかどうかが問題なのではない。たじろいだのは、人間はそういうことを人前で指摘しないのが礼儀であることを知っている者である。
 シェーヌは周囲の動揺にまったく動じない。身に覚えのないイズナは、きょとんとしている。
精霊(ア=セク)の念が篭ったものを呑まなかったか?」
「キラムの、……指輪を呑んだ」
 どうしてもそうしなければならないような、不思議な感じがしたからだ。ニエルはぎょっとしていたようだが。
「お前の子として、再び生まれたがっている」
「生まれ……たがっている? どうすればいい?」
「受け入れる、といえ。想いを篭めてだ」
「受け入れるよ、キラム。……おかえり」
 イズナの体の奥で、ふわと温まる感じがした。抱きしめるように、掌を当てる。
 シェーヌは、霊術具(フィガウ)を受け取りかけたが。かぶりを振って、イズナの掌に戻した。
「まだ、受け取れないな……。イズナ、聞いてくれ。私が犯した罪。私が、オーリンに犯させてしまった罪。聞いた後でもう一度、お前がニエルから受け取った物を、私に渡せるかどうか、決めてくれ」
 シェーヌは語り始める。ナホトカを牢塔から助けたけれど。そのあと、自分が何をしてしまったか。イズナたちを妖魔(ヴァン)の城へ飛ばしたのが、自分の嫉妬にすぎなかったことも。
 やがて、月光は照らしだす。啜り泣く精霊(ア=セク)の少女と、その首に霊術具(フィガウ)を首飾りのようにゆっくりと掛けてやる、異血(ディプラド)の少女を。