異血の子ら
■妖魔出撃■
数千年前精霊が建てた城は、幾度もの妖魔と精霊の戦いの舞台となり、周辺は壕というより荒れた谷と化した。しかし、その谷の中央、石と金属で支えた高台の上、大ドームとその周囲のいくつかの塔は今も匠精の手で手入れをされ、妖魔王たちの居城となっている。
妖魔王の居所は、大ドームの中央、塔の地下にある、玉座の間だった。
「近接の刻は近い。ドームの頂上へ、異血の娘と、《ノ=フィアリスの門》を運べ」
妖魔王リュウガの指令に、第一王子ナムガ=オ=リュウガは片膝を折って従う意を示す。
「魔狩の娘がいる限り、ラローゼめの長女は予言の子たる資格を欠きますが?」
王女にしてナムガの妹、リュア=エ=レネルは問い返す。彼女が主張するように、異血の者の血を「飲む者」を「予言の子」と解釈するなら、異血の者の姉や妹が生きていても差し支えはない。リュウガは答えもしない。リュアの主張など聞く価値もないというように。
「お前たちも、《ノ=フィアリスの門》近くで刻まで控えよ。今宵は、精霊どもはいまだ到着せんようだが」
「父上は?」
「わしはここで、魔狩の娘を待つ。……今夜がまこと、予言の夜ならば。魔狩めはわしを贄として求めるであろうよ」
「父上……?」
「わしは諦めの良い精霊どもとは違う。千年の齢で集めた霊力、すべて駆使して、魔狩の力を量ってやる」
王たることに倦んだかに見えた妖魔王の目が爛々と光るのを見て、ナムガはにやりと笑う。父が強い者との戦いを好むことは知っていた。継嗣に指名された彼でさえ、父が望むほどには強くなかったことも。
「御意のままに……、サガ、異血の娘を運べ」
前夜、リュアがサガから奪おうとしたことなどそしらぬ顔で、ナムガは命じる。不服顔のリュアに囁いた。
「お前が飲む血は、父上が裂いたあとの異血の魔狩でも用が足りよう?」
夕闇のなか、月が昇り始めていた。サガは、ナズナを、母竜ロインに乗せ、ドームの頂上へ運ぶ。ナズナは、白い長衣の上にきらびやかな飾り帯を巻いて、匠精の手でいかにも巫女然と装わされている。緑の石を連ねた霊術具《ノ=フィアリスの門》は、濃紫の礼装の王女リュア=エ=レネルが、がんとしてナズナに渡さず、帯からざらりと垂らして身に帯びていた。周囲を、妖魔の群れが鳥の群れのようにぐるぐると飛び回る。
「予言が今宵実現するなら、魔狩の小娘はきっと現れる! 精霊どもが来ないというなら、精霊の先王の孫娘が予言の贄となろう! 見張りを怠るな!」
◆
ニエルは、イズナやキラムとともに風の吹く大広間にいたはずが、一瞬の圧迫感の後、ごつごつとした荒地にいた。丘と崖に挟まれた谷の底、見上げる空が狭い。
「キラム、ここは?」
イズナの声。
「わかんない……。遠翔したの、おいらじゃない。遠翔されたんだ、たぶんあの次女王に」
キラムは困まり果てた口調で言う。
「あの次女王。ナホトカ様が亡くなった後の、トキホの結界の匂いがする。でもイズナを守りたいなら、こんないきなり飛ばしたりはしないだろうし」
ニエルの手の中の赤い石は、イズナに見せたときの状態に戻っていた。包み直してポケットに入れ、さてと、と、周囲を見渡す。
そのとき、上空の風が、雲を掃った。
「あれは、なんだ?」
顔を出した月が照らしだしたのは、丘ではなく。岩と金属が支える高台の上に立つ、いくつもの塔。人工の高台を斜め下から見上げると、その周辺部は崩れて廃墟化しているのが目についた。上空に、烏の群れのように飛び交うのは、数百の妖魔。
「妖魔王の、城だ。昔、精霊が建てたんだけど、もう何百年も妖魔に占領されてる……」
「逃げられるか?」
キラムは硬直している。
「オーリン様の王宮まで遠翔ぶんで精一杯だったんだ。力が、もう……」
月を見上げれば、雲は尽きつつあった。意外なほどの明るさが、ニエルたちの周囲を照らし出す。一抱えの岩なら、ごろごろとしているが、三人の身を隠すほどの場所は見当たらない。
「朝まで見つからないでいられたら、妖魔は城に入ってしまうだろうけど」
「しばらく休んでいれば回復するものなのか?」
ニエルの語調は真面目だが、半分は興味である。
「たぶん」
キラムが自信なげにいった。
「おいら、遠翔が使えるようになったばかりの初心者なんだぜ?」
「それもそうだな」
脳天気な口調のニエルを遮るようにイズナが言った。
「キラム……。さっき言ってたこと」
「うん」
「精霊や、それから妖魔にとっては、《予言》というのはとても大事なことなんだよね? で、私か姉さんか、どっちか死なないと、予言は適わない?」
「うん、たぶん」
「キラムは、私か姉さんか、どっちかに死んでほしい?」
キラムは、首を横に振った。
「無理だよ、そんなの。ナホトカ様もそうだったんじゃないかな。そうでなければ、一人を殺して一人を王廷に預けるよ。オーリン様の言う通り」
「そういうもの?」
「精霊にとっては、それくらい大事なことなんだ。人を殺しても仕方ないくらい」
「キラムまで私たちを殺したいんでなければ、いい」
城の方向へ目を転じる。あのどこかに、姉がいるのだろうか。妖魔もまた、滅びを避けたい、そんな壮大な望みで姉を攫ったのか。
「イズナ。おいらは、イズナのお父さんが殺されるとこを見た、ラローゼ様も殺された。妖魔は残酷だ。ナズナを予言の子にするために、イズナを殺そうとするし、近接の儀式が終われば、きっとナズナも殺してしまうと思う。ナズナを殺したいなんて、おいら、思わない。でも、二人とも死んでしまうよりは。イズナだけでも生きていて欲しかったんだ」
「で……、王が協力してくれると思ったんだよね?」
「うん。王が予言を信じてないなんて、思ってもみなかった」
◆
トキホの街には、妖魔の予言について知る人間はいない。妖魔がトキホ近くに集ったのは、近接のためであることは判らない。今宵、妖魔来襲を知らせる花火の数は数十、五十人近い魔狩で支えきった。犠牲が無かったわけではないが、街頭テレビが功を奏したのか、魔狩の到着が早かったのが良かったのか、一部の妖魔は市中に入り込んだにもかかわらず、火をかけるものもなく、最も危険が大きな夕刻は過ぎ去った。
「皆に相談がある」
エドア=ガルドが切り出した。
「いささかの装備を用意している。妖魔と精霊の戦争が起こるという地へ挑んで見たいという者はいるか?」
「正直、魔法陣まで渡って来て、この程度の仕事では少々欲求不満ですね」
「うちらは特に、この一ヶ月近く出動がなかったもので」
遠来の魔狩の中には、やんやと手を打つ者もいる。
「バイクを繰れる者を用意した。バスで仮眠をとってくれ。到着まで、一眠りする程度の時間はあるはずだ」
魔狩に替わって、バイクにまたがったのは、揃いの装備をした者たちである。
彼らは利き腕に銃をもち、逆の腕には剣に対処する小型の盾を装備している。
「あれは、霊銃?」
「霊銃は、実用に耐えないという噂を聞いた……」
数人から声が上がる。
「霊銃ではない。火薬で鉛弾を飛ばす。……ある者から示唆をもらって、匠精に作らせた」
「また匠精どもに金銀を積んだのかぁ?」
そう笑う者もいれば。深刻に尋ね返す者もある。
「竜角の弾でなければ、妖魔には無効では?」
「翼にしか効かない。ただし、翼を撃ちぬけば、妖魔を落とすことができるはずだ。現地についたら、霊武器を持つ者と、銃をもつ者が組んで行動してくれ」
「これは要するに、妖魔と精霊の戦争に乗じて、妖魔を一匹でも余計に減らしておきたい、ということなんですね?」
「そうだ。これを卑怯と言うものが居たら、エドア=ガルドに命じられたといえ。功といわれることがあったら、自分が行ったと胸を張れ」
エドア=ガルドの返答に魔狩たちが沸く。
エドア=ガルド自身が、霊武器を取ってバスに乗るのを見て、
「電気王を亡くすのは困ります」
誰かが声をかけた。
「技師なら、力の及ぶ限り育ててきた。三百年に一度の機会だ、わしとて見届けておきたい」
◆
妖魔の城のドームの頂上、一体の妖魔が飛来して、派手やかな戦衣に身を包んだ第一王子ナムガ=オ=リュウガの前に片膝をつき。岩の陰に隠れている精霊らしき者を見た、と、報告した。異血の娘を連れている、と。
ナムガは、
「二手にわかれて、城へ追い込め! 王がお望みだ!」
命じて自分も報告の方向へ飛ぶ。リュアが続いた。
◆
乱れ飛んでいた妖魔が、突然、統制のとれた空の軍列となって、イズナたち三人のいる方向へ向きをかえる。
「見つかったらしいな」
ニエルは思わず口に出した。キラムは棒を呑んだように立ち尽くしている。まだ、テレポートできないのだろうとニエルは溜息をつく。イズナが、数百の妖魔に目を据えて、霊刀の柄に手をかけた。
ニエルは、ベルトにつけた道具箱を開いた。ジャランの形見のケースを取り出しながら、首を振って脳に直結した自分のバイオ・メモリーを排出し、ジャランのそれに入れ替える。D-クラッカー制御のソフトウェアだ。
「キラム。俺とイズナを連れて、空中へ飛び上がれるか?」
D-クラッカーのエネルギーは、あと1回分、残っている。イーザスンへ着かないにしても、イチかバチか、どこか別の世界へ移動してみる手は、ある。
キラムが、悲惨な表情でかぶりを振った。それだけの力さえ、ないのだ。
「じゃぁ、もう一つの方法だな」
ニエルは言葉を発しながら、腕は上着の内側に入れたミューをつかみ出している。電源を入れた。
「博士!」
電源をオフされていたことに、不服を唱える声をあげたミューを、ニエルは遮る。
「ミュー、フルアクセスモード」
ニエルの視界に、ミューのそれがプラスされた。三六〇度を越える視野に、戸惑いはない、慣れている。ミューの側の思考能力は沈黙した。そもそも自分の接続端末に鳥らしい仕草をさせたり、AIを付与したりしたのはニエルの悪趣味にすぎない。
ニエルは、ベルトごとD-クラッカーをはずし、付属の鎖が絡んでいないことをさっと確認して、ミューに繋ぐ。ミュー側の足でベルトをしっかり掴んでから、ニエルの手がミューを投げ上げる。
ニエルは、ミューになった部分で、飛翔した。
電気を嫌う妖魔たちは、ミューがなにか分からぬながら、剣を抜く。しかし飛行での大軍の移動中のこと、混乱をおそれて深追いはしてこない。群れのそこここで、羽ばたく黒い翼、切捨てようと閃く刃、捕らえようと伸ばす手指をかいくぐる。群を上方へ突きぬけ、妖魔の流れの全体を俯瞰する。月光に照らされた、大きなドーム。尖った塔。上空から見ると、下から見たときの廃墟めいた構造部は目に入らず、美しい。その城を背景に、羽ばたく黒い翼の群れ。話に聞いた緑の翼も、ナズナらしき姿も見当たらない。
二列をなしてイズナたちをはさみうちにしに行く、妖魔の群れの中心あたり、流れの要の位置。明らかに衣装が異なる妖魔二人を見つけた。軍服のような男、紫のドレスに緑の飾りをかけた女。
「あれが司令官か?」
ニエルの側が、影響が及ぶ範囲を計算する。影響が妖魔の群れを覆うように。ニエル本体の位置は強すぎないように。司令官らしき妖魔は、頃合の位置だ。ミューを司令官の頭上に位置させ、鳥を模した足指を開く。ベルトが落ちる。ベルトは妖魔の群れのただなか、司令たちのすぐ傍らに落下し。ミューのボディとベルトの間の鎖が、ぴいん、とはりつめた瞬間、その軽い衝撃で。
──ニエルが生まれた世界の武器、次元クラッカーにスイッチが、入った。
爆発音とは、違う。世界そのものに罅が入る轟音。その近辺にあるものを、次元の外、どの世界にも属さない虚空へと、引きずり出す。飛ぶ妖魔、群れの周囲の空気、そしてミューも、次元の渦のなかへ巻き込んで。羽ばたく妖魔たちは、何が起こったかも判らないまま、空を打ち欠いた闇色の罅へと吸い込まれていく。
ニエルの周囲にも、強風が吹いた。衝撃に身構えて、ミューとの接続を切ったつもりが、ほんのコンマ数秒遅かったようだ。次元の傷のなかで、裂けながら、世界の外へと引きずり出されるミューの衝撃を、ニエルは受け止めていた。それとも。妖魔たちの「排除」を確認したいという気持ちが、無意識に接続の切断を遅らせたのだろうか。全身を何かに叩きつけられた直後のように、体中の神経がショック症状で、自動駆動をオフした脚部がうまく繰れない。
上空の風の塊は膨れあがり、地上をも薙ぐ。荒地に上る砂ぼこりが月を曇らせる。小石が飛び、それから一抱えのもの岩が揺らぎ始めた。
「ニエル!」
飛びつくようにして、イズナがニエルを無理やりに座らせ、キラムをも抱き寄せようとした。
キラムは、それを振りほどいて立ち上がり、両手を広げた。
突然、身体を飛ばそうとする風圧が弱くなる。風は、ある。しかし、彼らを飛ばそうとする方向ではなく、彼らの周りを旋風のように回っているのが、三人の髪の流れでも判る。それでいて、旋風の芯である彼らの居場所には、襲ってこない。世界の外へ全てを吸い出す強風のなかに立つ、風の塔。
「おいら、これでも、風霊だから」
びょうびょうと旋風が音を立てるなか、キラムの声は妙な確実さで、ニエルの耳元に届いた。まるで、音を乗せる小さな風を、キラムが繰っているように。
◆
オーリンが妖魔の城の近くへ、一気に遠翔し、呪文を唱え、大広間ほどの魔法陣を空中に描く。シェーヌたち精霊は、魔法陣の内側へ遠翔し、王の指示を待った。風霊は飛び、地霊と樹霊は、鳥形の飛翔霊術具の上に立つ。その数合わせて、七十余。妖魔たちが城の向こうへ列をなして飛んで行く。一度には数え切れないが、妖魔の数は三百といわれている。妖魔王の力は強大だ。アスワード中の妖魔が召集に応じているはず。
そのときである、空が裂けたのは。妖魔の群れの中、魔獣の顎のように開いたそれは、妖魔たちを吸い込んでいく。妖魔は、次々、空の裂け目の向こうへ、消え失せてゆく。
風域は膨れあがり、城を巻き込んだ。数千年の間、立ち続けた城が、刃のような風に削りとられ、みしみしと揺らぐ。
「風よ、静まれ」
オーリンが呪をこめて命じるが、風は弱まりさえしない。風霊は、太陽が地を暖め海を温め、その力から派生してくる風を、己の力とする者。風霊である精霊王の命に、従わない風があるとは。
「理が、異なるのか」
王がつぶやくのを、シェーヌは聞く。
オーリンは、両手を前に突き出す動作で、風域の周囲に囲いこむようにぐるりと結界をはった。両の掌から広がった術の幕が、空の罅と精霊たちの間を遮断する。境界を定められて、その内側の風は、かえって荒れ狂う。
ほとんど反射的に、シェーヌはオーリンに並び、結界を支えていた。掌の先には、暴風がある。恐怖を抑えて目をこらした。妖魔たちが風に巻かれ、翼を引き千切られていくのが見える。オーリンがかつて融和を望み、王になってからは敵視せざるを得なかった一族は、何百もの数が、一気に失われてゆこうとしていた。
◆
空が裂けた時、ナズナは、サガと、サガの直属配下の十余の妖魔とともに、ドームの上にいた。轟く異音とともに、サガが体当たりのような勢いで動き、空の罅とは逆側へ身を躍らせる。気づけば、ナズナは、サガに横抱きに抱かれて飛んでいた。
「退け!」
共にいた妖魔たちと竜が、サガの指示に従う。ナズナは、サガの肩ごしに、空が罅割れて行くのを、見た。
どこからともなく──とナズナたちには見えた──結界が出現し。風の根源をぐるりと囲んだ。ナズナたちと風の間が、遮られる。
二日前の傷が開いたのか、サガは少しぎこちない手つきで、ナズナを、母である竜の背に預けた。その場にいる誰もが、結界の中に目をこらす。瓦礫と砂埃がびょうびょうと音を立てて流れを描き、視界は悪い、それでも。数千年の時を経た城が、風に削られ、穿たれ、揺れるのは、見て取れた。
「崩れる……のか……?」
サガの声に、耳を聾する轟音が重なる。城の影は、猛風に押されて、斜めに崩れた。落下する膨大な瓦礫に叩かれ、高台も端から欠けてゆく。土と岩が崩れる音は、しばらく消えなかった。
◆
ニエルからも、キラムの風の塔を透かして、外界が見える。
城が、城があった高台が、大きく崩れ、飛ばされた瓦礫が風の塔に落ちかかる。キラムがうめき声を上げたが、風の塔はどうにか持ちこたえた。
「近すぎた、のか?」
風域の周囲をオーリンたちの結界に封じられて、風が行き場を失っていることまでは、ニエルには判らない。キラムの作った安全圏の中心に、イズナと二人、じっとしゃがみこんでいる以外に、何もできない。
「ニエル。この風、何……? さっきの、ミューが持っていった道具。大事なものでしょ、あれでニエル、元の世界へ帰るんでしょ?」
轟きの中、イズナが叫ぶ。
「あれはもともと、武器なんだ。違う世界に行くのに使うほうが、転用で」
「あれは、どうなったの? ミューは? 妖魔たちみたいに消えてしまったの?」
ニエルは否定できなかった。
「ニエル……、帰れなくなってしまうじゃない!」
「ここで妖魔に殺されたら、どうせ帰れない」
ニエルは引きつりながらも笑って見せる。イズナが、唇を噛んだ。
「キラム!」
イズナが急に手を伸ばし、ニエルは反射的にイズナを抱きとめて、その手を押さえようとする。三人の周囲を回る風は、手首くらいへし折りそうな勢いなのだ。
イズナの視線を目で追って、ニエルは愕然とする。
キラムの輪郭が徐々に薄れていく。テレポートできないほど、霊力の限界にあって、風で彼らを守ることが、キラムにとって何を意味するのか。
「キラム! キラム!」
イズナの掌がキラムに触れようとした。力を与えようとしたのだろう。ばちっと、イヤな音がして、イズナが手を引っ込める。キラムの術のバランスは限界で、他者の干渉を許さないのかもしれない。
キラムが小さく振り向いた。僅かに笑った。声もなく、唇が動く。詫びの言葉か、別れの言葉か、聞き取れぬうちに。
ひゅう、と、巨大な笛のような音を立てて、外界の強風が収まるのと、キラムの姿が消えるのは同時だった。轟音が嘘のように静まりかえった世界に、ことん、と、小さな音がした。キラムのいた、ちょうどそのあたりに落ちたのは、テレポートのときに彼らを繋いでいた、霊術具の指輪。
「キラ…ム……」
力の抜けたニエルをそっと押しのけて、イズナは両手を伸ばす。指輪を手にとり、見つめた。キラムが大切にしていた竜鱗の指輪。キラム。死んでしまった。
姉が攫われた。優しい姉だった。守りたかったのに。守れなかった。
それから、ミナセが死んだ。友達だった。
おばあちゃまが死んだ。樹霊だったというけど、イズナを優しく育ててくれた。
おじいさまも死んだという。地霊だったのかもしれない、でもイズナを大切にしてくれた。
アマルカンも、死んだ。イズナが魔狩になりたがらなければ、たぶん、死なずに済んだ。奥さんもいた、息子もいた、家族を残して、アマルカンは死んでしまった。
そして、キラム。死んでしまった。イズナを守るために。無理をして成長して、無理をして王に会いにいって、無理をして作った風の塔。全部、イズナを守るためだった。
イズナは、指輪に唇を触れる。不思議なくらい、温かい。口に含み、飲み下した。
「イズナ?」
「自分でも……、わかんない……。でも……、こうしたほうが、いい気がしたの」
死んでしまった。キラムは死んでしまった。
「すまん……、こんなことになるとは、思わなかった」
ニエルは、イズナの両の肩口に手を置いている。ニエルの顔が、イズナのすぐ前にある。悲しそうな目。こんな目を前にどこかで見た。そうだ、アマルカンだ。
言わなくちゃ。イズナは、ふいに思う。アマルカンに言わなければならなかったこと。言えずに終わってしまったこと。言わなきゃ。
「判ってる。……こんなことになると、思ってなかったって。……私を、守ろうとしてくれただけだって」
ニエルは私を守ろうとして、キラムが死んでしまった。アマルカンは私を守ろうとして、おばあちゃまを死なせてしまった。あの時も、判っていた。判っていたのに、言えなかった。判っていると言えなかった。
「わかって……た」
体の奥の奥で、氷のように凝っていたものが、ふいに溶けた。胸の奥、奔流が湧く。それをなぞるように、涙が溢れた。我慢していたわけではない、ミナセが惨殺されユキヌが燃えた日から、ずっと、イズナの奥で痺れたように枯れていたもの。それが、流れとなり、涙となって声となった。イズナは、号泣した。
「イズナ……。すまん……」
ニエルが、言葉にならない声を上げて泣くイズナを、抱き寄せた。泣いている子供にするように、背中を撫でてくれる手が、温かい。悲しみが流れ出して空っぽになった場所に、何かを注ぎ込まれているように。
人を限界で支えるのは、憎しみだと思ったことがあった。そうではないと言ってくれた人がいた。そうだ。この人だ。とイズナは思う。
イズナは、唇を引き結んで、自分の嗚咽の声を止めた。ニエルに預けてしまっていた体に、力を入れた。胸元に掌をついて、そっと体を離す。
「大丈夫……、私、大丈夫だから」
イズナは、ニエルの目を見上げた。見上げることが、できた。ニエルが、笑んだ。
そのとき、廃墟に、不気味な声が響いた。
「ナムガとリュアは失われた、リュアの帯びた《門》も、ともに。もう一つの《門》を感じる。探せ!」
イズナは、弾かれたように、崩れた高台を振り仰いだ。
廃墟の影の上、満月がかかる空。空中に留まる、数十人の一団。翼を持たずに空中を奔る人の形もあれば、鳥形の何かに乗った者もいる。精霊たちだ、とイズナは気づく。高台を隔てて、黒い翼を羽ばたかせる妖魔が二、三十と、人影を乗せた一頭の竜。
「姉さん!」
唇から、声が漏れた。
「姉さん! 姉さんがいる!」
イズナは小走りに駆け出し、
「……連れ戻してくる。待ってて」
ニエルを振り向いて、言った。
「なに言ってる」
ニエルが付いてくる。
「せっかく生き延びたんだから。待ってて」
「バカ言え」
ニエルは引き下がらない。この人は来るのだ、イズナはそう思う。たとえ、拒んでも、ついてきてくれる。ならば、拒むよりも。
「……ありがとう」
着いて来てくれてありがとう。イズナは、引き結んだ唇の端に、小さく感謝の笑みを刻む。
「戦力には、なりそうもないがな。使えるものが残ってない」
ニエルは、皮肉な笑みで応えたが、イズナにとって、傍らに知己がいてくれるだけで、心強い。
元から荒れ地だった谷に、城から崩れ落ちてきた瓦礫が、ぎざぎざとした輪郭を、月光に晒している。金属と石の塊を、時には踏み越え、時にはよじ登って越える。崩れた高台の斜面にかかる。
ニエルはイズナを追い越して、ぐんぐんと先にたって登り、ことに斜面が厳しいところで、イズナに手を差し出した。
「ニエル、私、大丈夫だから、心配しないで」
「俺はちょいと特別製でな」
ニエルはコートをすこし上げると、イズナに脚部を見せた。イズナがそれまで異界の履物だと思っていたその部分が、月の光を反射する。どうみても、芯まで金属の部品を組み合わせた駆動部だった。
「ベースが違うんだ。……先を急いだほうが良かないか?」
イズナは頷くと、ニエルの手を握り返した。