異血の子ら

妖魔(ヴァン)出撃■

 数千年前精霊(ア=セク)が建てた城は、幾度もの妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)の戦いの舞台となり、周辺は壕というより荒れた谷と化した。しかし、その谷の中央、石と金属で支えた高台の上、大ドームとその周囲のいくつかの塔は今も匠精(メト)の手で手入れをされ、妖魔(ヴァン)王たちの居城となっている。
 妖魔(ヴァン)王の居所は、大ドームの中央、塔の地下にある、玉座の間だった。
近接(タゲント)の刻は近い。ドームの頂上へ、異血(ディプラド)の娘と、《ノ=フィアリスの門》を運べ」
 妖魔(ヴァン)王リュウガの指令に、第一王子ナムガ=オ=リュウガは片膝を折って従う意を示す。
魔狩(ヴァン=ハンテ)の娘がいる限り、ラローゼめの長女は予言の子たる資格を欠きますが?」
 王女にしてナムガの妹、リュア=エ=レネルは問い返す。彼女が主張するように、異血(ディプラド)の者の血を「飲む者」を「予言の子」と解釈するなら、異血(ディプラド)の者の姉や妹が生きていても差し支えはない。リュウガは答えもしない。リュアの主張など聞く価値もないというように。
「お前たちも、《ノ=フィアリスの門》近くで刻まで控えよ。今宵は、精霊(ア=セク)どもはいまだ到着せんようだが」
「父上は?」
「わしはここで、魔狩(ヴァン=ハンテ)の娘を待つ。……今夜がまこと、予言の夜ならば。魔狩(ヴァン=ハンテ)めはわしを贄として求めるであろうよ」
「父上……?」
「わしは諦めの良い精霊(ア=セク)どもとは違う。千年の齢で集めた霊力(フィグ)、すべて駆使して、魔狩(ヴァン=ハンテ)の力を量ってやる」
 王たることに倦んだかに見えた妖魔(ヴァン)王の目が爛々と光るのを見て、ナムガはにやりと笑う。父が強い者との戦いを好むことは知っていた。継嗣に指名された彼でさえ、父が望むほどには強くなかったことも。
「御意のままに……、サガ、異血(ディプラド)の娘を運べ」
 前夜、リュアがサガから奪おうとしたことなどそしらぬ顔で、ナムガは命じる。不服顔のリュアに囁いた。
「お前が飲む血は、父上が裂いたあとの異血(ディプラド)魔狩(ヴァン=ハンテ)でも用が足りよう?」
 夕闇のなか、月が昇り始めていた。サガは、ナズナを、母竜ロインに乗せ、ドームの頂上へ運ぶ。ナズナは、白い長衣の上にきらびやかな飾り帯を巻いて、匠精(メト)の手でいかにも巫女然と装わされている。緑の石を連ねた霊術具(フィガウ)《ノ=フィアリスの門》は、濃紫の礼装の王女リュア=エ=レネルが、がんとしてナズナに渡さず、帯からざらりと垂らして身に帯びていた。周囲を、妖魔(ヴァン)の群れが鳥の群れのようにぐるぐると飛び回る。
「予言が今宵実現するなら、魔狩(ヴァン=ハンテ)の小娘はきっと現れる! 精霊(ア=セク)どもが来ないというなら、精霊(ア=セク)の先王の孫娘が予言の贄となろう! 見張りを怠るな!」
 
  ◆
 
 ニエルは、イズナやキラムとともに風の吹く大広間にいたはずが、一瞬の圧迫感の後、ごつごつとした荒地にいた。丘と崖に挟まれた谷の底、見上げる空が狭い。
「キラム、ここは?」
 イズナの声。
「わかんない……。遠翔(テレフ)したの、おいらじゃない。遠翔(テレフ)されたんだ、たぶんあの次女王に」
 キラムは困まり果てた口調で言う。
「あの次女王。ナホトカ様が亡くなった後の、トキホの結界の匂いがする。でもイズナを守りたいなら、こんないきなり飛ばしたりはしないだろうし」
 ニエルの手の中の赤い石は、イズナに見せたときの状態に戻っていた。包み直してポケットに入れ、さてと、と、周囲を見渡す。
 そのとき、上空の風が、雲を掃った。
「あれは、なんだ?」
 顔を出した月が照らしだしたのは、丘ではなく。岩と金属が支える高台の上に立つ、いくつもの塔。人工の高台を斜め下から見上げると、その周辺部は崩れて廃墟化しているのが目についた。上空に、烏の群れのように飛び交うのは、数百の妖魔(ヴァン)
妖魔(ヴァン)王の、城だ。昔、精霊(ア=セク)が建てたんだけど、もう何百年も妖魔(ヴァン)に占領されてる……」
「逃げられるか?」
 キラムは硬直している。
「オーリン様の王宮まで遠翔(テレフ)ぶんで精一杯だったんだ。力が、もう……」
 月を見上げれば、雲は尽きつつあった。意外なほどの明るさが、ニエルたちの周囲を照らし出す。一抱えの岩なら、ごろごろとしているが、三人の身を隠すほどの場所は見当たらない。
「朝まで見つからないでいられたら、妖魔(ヴァン)は城に入ってしまうだろうけど」
「しばらく休んでいれば回復するものなのか?」
 ニエルの語調は真面目だが、半分は興味である。
「たぶん」
 キラムが自信なげにいった。
「おいら、遠翔(テレフ)が使えるようになったばかりの初心者なんだぜ?」
「それもそうだな」
 脳天気な口調のニエルを遮るようにイズナが言った。
「キラム……。さっき言ってたこと」
「うん」
精霊(ア=セク)や、それから妖魔(ヴァン)にとっては、《予言》というのはとても大事なことなんだよね? で、私か姉さんか、どっちか死なないと、予言は適わない?」
「うん、たぶん」
「キラムは、私か姉さんか、どっちかに死んでほしい?」
 キラムは、首を横に振った。
「無理だよ、そんなの。ナホトカ様もそうだったんじゃないかな。そうでなければ、一人を殺して一人を王廷に預けるよ。オーリン様の言う通り」
「そういうもの?」
精霊(ア=セク)にとっては、それくらい大事なことなんだ。人を殺しても仕方ないくらい」
「キラムまで私たちを殺したいんでなければ、いい」
 城の方向へ目を転じる。あのどこかに、姉がいるのだろうか。妖魔(ヴァン)もまた、滅びを避けたい、そんな壮大な望みで姉を攫ったのか。
「イズナ。おいらは、イズナのお父さんが殺されるとこを見た、ラローゼ様も殺された。妖魔(ヴァン)は残酷だ。ナズナを予言の子にするために、イズナを殺そうとするし、近接(タゲント)の儀式が終われば、きっとナズナも殺してしまうと思う。ナズナを殺したいなんて、おいら、思わない。でも、二人とも死んでしまうよりは。イズナだけでも生きていて欲しかったんだ」
「で……、王が協力してくれると思ったんだよね?」
「うん。王が予言を信じてないなんて、思ってもみなかった」
 
  ◆
 
 トキホの街には、妖魔(ヴァン)の予言について知る人間はいない。妖魔(ヴァン)がトキホ近くに集ったのは、近接(タゲント)のためであることは判らない。今宵、妖魔(ヴァン)来襲を知らせる花火の数は数十、五十人近い魔狩(ヴァン=ハンテ)で支えきった。犠牲が無かったわけではないが、街頭テレビが功を奏したのか、魔狩(ヴァン=ハンテ)の到着が早かったのが良かったのか、一部の妖魔(ヴァン)は市中に入り込んだにもかかわらず、火をかけるものもなく、最も危険が大きな夕刻は過ぎ去った。
「皆に相談がある」
 エドア=ガルドが切り出した。
「いささかの装備を用意している。妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)の戦争が起こるという地へ挑んで見たいという者はいるか?」
「正直、魔法陣まで渡って来て、この程度の仕事では少々欲求不満ですね」
「うちらは特に、この一ヶ月近く出動がなかったもので」
 遠来の魔狩(ヴァン=ハンテ)の中には、やんやと手を打つ者もいる。
「バイクを繰れる者を用意した。バスで仮眠をとってくれ。到着まで、一眠りする程度の時間はあるはずだ」
 魔狩(ヴァン=ハンテ)に替わって、バイクにまたがったのは、揃いの装備をした者たちである。
 彼らは利き腕に銃をもち、逆の腕には剣に対処する小型の盾を装備している。
「あれは、霊銃?」
「霊銃は、実用に耐えないという噂を聞いた……」
 数人から声が上がる。
「霊銃ではない。火薬で鉛弾を飛ばす。……ある者から示唆をもらって、匠精(メト)に作らせた」
「また匠精(メト)どもに金銀を積んだのかぁ?」
 そう笑う者もいれば。深刻に尋ね返す者もある。
「竜角の弾でなければ、妖魔(ヴァン)には無効では?」
「翼にしか効かない。ただし、翼を撃ちぬけば、妖魔(ヴァン)を落とすことができるはずだ。現地についたら、霊武器(フィギン)を持つ者と、銃をもつ者が組んで行動してくれ」
「これは要するに、妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)の戦争に乗じて、妖魔(ヴァン)を一匹でも余計に減らしておきたい、ということなんですね?」
「そうだ。これを卑怯と言うものが居たら、エドア=ガルドに命じられたといえ。功といわれることがあったら、自分が行ったと胸を張れ」
 エドア=ガルドの返答に魔狩(ヴァン=ハンテ)たちが沸く。
 エドア=ガルド自身が、霊武器(フィギン)を取ってバスに乗るのを見て、
「電気王を亡くすのは困ります」
 誰かが声をかけた。
「技師なら、力の及ぶ限り育ててきた。三百年に一度の機会だ、わしとて見届けておきたい」
 
  ◆
 
 妖魔(ヴァン)の城のドームの頂上、一体の妖魔(ヴァン)が飛来して、派手やかな戦衣に身を包んだ第一王子ナムガ=オ=リュウガの前に片膝をつき。岩の陰に隠れている精霊(ア=セク)らしき者を見た、と、報告した。異血(ディプラド)の娘を連れている、と。
 ナムガは、
「二手にわかれて、城へ追い込め! 王がお望みだ!」
 命じて自分も報告の方向へ飛ぶ。リュアが続いた。
 
  ◆
 
 乱れ飛んでいた妖魔(ヴァン)が、突然、統制のとれた空の軍列となって、イズナたち三人のいる方向へ向きをかえる。
「見つかったらしいな」
 ニエルは思わず口に出した。キラムは棒を呑んだように立ち尽くしている。まだ、テレポートできないのだろうとニエルは溜息をつく。イズナが、数百の妖魔(ヴァン)に目を据えて、霊刀の柄に手をかけた。
 ニエルは、ベルトにつけた道具箱を開いた。ジャランの形見のケースを取り出しながら、首を振って脳に直結した自分のバイオ・メモリーを排出し、ジャランのそれに入れ替える。D-クラッカー制御のソフトウェアだ。
「キラム。俺とイズナを連れて、空中へ飛び上がれるか?」
 D-クラッカーのエネルギーは、あと1回分、残っている。イーザスンへ着かないにしても、イチかバチか、どこか別の世界へ移動してみる手は、ある。
 キラムが、悲惨な表情でかぶりを振った。それだけの力さえ、ないのだ。
「じゃぁ、もう一つの方法だな」
 ニエルは言葉を発しながら、腕は上着の内側に入れたミューをつかみ出している。電源を入れた。
「博士!」
 電源をオフされていたことに、不服を唱える声をあげたミューを、ニエルは遮る。
「ミュー、フルアクセスモード」
 ニエルの視界に、ミューのそれがプラスされた。三六〇度を越える視野に、戸惑いはない、慣れている。ミューの側の思考能力は沈黙した。そもそも自分の接続端末に鳥らしい仕草をさせたり、AIを付与したりしたのはニエルの悪趣味にすぎない。
 ニエルは、ベルトごとD-クラッカーをはずし、付属の鎖が絡んでいないことをさっと確認して、ミューに繋ぐ。ミュー側の足でベルトをしっかり掴んでから、ニエルの手がミューを投げ上げる。
 ニエルは、ミューになった部分で、飛翔した。
 電気を嫌う妖魔(ヴァン)たちは、ミューがなにか分からぬながら、剣を抜く。しかし飛行での大軍の移動中のこと、混乱をおそれて深追いはしてこない。群れのそこここで、羽ばたく黒い翼、切捨てようと閃く刃、捕らえようと伸ばす手指をかいくぐる。群を上方へ突きぬけ、妖魔(ヴァン)の流れの全体を俯瞰する。月光に照らされた、大きなドーム。尖った塔。上空から見ると、下から見たときの廃墟めいた構造部は目に入らず、美しい。その城を背景に、羽ばたく黒い翼の群れ。話に聞いた緑の翼も、ナズナらしき姿も見当たらない。
 二列をなしてイズナたちをはさみうちにしに行く、妖魔(ヴァン)の群れの中心あたり、流れの要の位置。明らかに衣装が異なる妖魔(ヴァン)二人を見つけた。軍服のような男、紫のドレスに緑の飾りをかけた女。
「あれが司令官か?」
 ニエルの側が、影響が及ぶ範囲を計算する。影響が妖魔(ヴァン)の群れを覆うように。ニエル本体の位置は強すぎないように。司令官らしき妖魔(ヴァン)は、頃合の位置だ。ミューを司令官の頭上に位置させ、鳥を模した足指を開く。ベルトが落ちる。ベルトは妖魔(ヴァン)の群れのただなか、司令たちのすぐ傍らに落下し。ミューのボディとベルトの間の鎖が、ぴいん、とはりつめた瞬間、その軽い衝撃で。
 ──ニエルが生まれた世界の武器、次元クラッカーにスイッチが、入った。
 爆発音とは、違う。世界そのものに罅が入る轟音。その近辺にあるものを、次元の外、どの世界にも属さない虚空へと、引きずり出す。飛ぶ妖魔(ヴァン)、群れの周囲の空気、そしてミューも、次元の渦のなかへ巻き込んで。羽ばたく妖魔(ヴァン)たちは、何が起こったかも判らないまま、空を打ち欠いた闇色の罅へと吸い込まれていく。
 ニエルの周囲にも、強風が吹いた。衝撃に身構えて、ミューとの接続を切ったつもりが、ほんのコンマ数秒遅かったようだ。次元の傷のなかで、裂けながら、世界の外へと引きずり出されるミューの衝撃を、ニエルは受け止めていた。それとも。妖魔(ヴァン)たちの「排除」を確認したいという気持ちが、無意識に接続の切断を遅らせたのだろうか。全身を何かに叩きつけられた直後のように、体中の神経がショック症状で、自動駆動をオフした脚部がうまく繰れない。
 上空の風の塊は膨れあがり、地上をも薙ぐ。荒地に上る砂ぼこりが月を曇らせる。小石が飛び、それから一抱えのもの岩が揺らぎ始めた。
「ニエル!」
 飛びつくようにして、イズナがニエルを無理やりに座らせ、キラムをも抱き寄せようとした。
 キラムは、それを振りほどいて立ち上がり、両手を広げた。
 突然、身体を飛ばそうとする風圧が弱くなる。風は、ある。しかし、彼らを飛ばそうとする方向ではなく、彼らの周りを旋風のように回っているのが、三人の髪の流れでも判る。それでいて、旋風の芯である彼らの居場所には、襲ってこない。世界の外へ全てを吸い出す強風のなかに立つ、風の塔。
「おいら、これでも、風霊(ウィデク)だから」
 びょうびょうと旋風が音を立てるなか、キラムの声は妙な確実さで、ニエルの耳元に届いた。まるで、音を乗せる小さな風を、キラムが繰っているように。
 
  ◆
 
 オーリンが妖魔(ヴァン)の城の近くへ、一気に遠翔(テレフ)し、呪文を唱え、大広間ほどの魔法陣を空中に描く。シェーヌたち精霊(ア=セク)は、魔法陣の内側へ遠翔(テレフ)し、王の指示を待った。風霊(ウィデク)は飛び、地霊(ムデク)樹霊(ジェク)は、鳥形の飛翔霊術具(フィガウ)の上に立つ。その数合わせて、七十余。妖魔(ヴァン)たちが城の向こうへ列をなして飛んで行く。一度には数え切れないが、妖魔(ヴァン)の数は三百といわれている。妖魔(ヴァン)王の力は強大だ。アスワード中の妖魔(ヴァン)が召集に応じているはず。
 そのときである、空が裂けたのは。妖魔(ヴァン)の群れの中、魔獣の顎のように開いたそれは、妖魔(ヴァン)たちを吸い込んでいく。妖魔(ヴァン)は、次々、空の裂け目の向こうへ、消え失せてゆく。
 風域は膨れあがり、城を巻き込んだ。数千年の間、立ち続けた城が、刃のような風に削りとられ、みしみしと揺らぐ。
「風よ、静まれ」
 オーリンが呪をこめて命じるが、風は弱まりさえしない。風霊(ウィデク)は、太陽が地を暖め海を温め、その力から派生してくる風を、己の力とする者。風霊(ウィデク)である精霊(ア=セク)王の命に、従わない風があるとは。
「理が、異なるのか」
 王がつぶやくのを、シェーヌは聞く。
 オーリンは、両手を前に突き出す動作で、風域の周囲に囲いこむようにぐるりと結界をはった。両の掌から広がった術の幕が、空の罅と精霊(ア=セク)たちの間を遮断する。境界を定められて、その内側の風は、かえって荒れ狂う。
 ほとんど反射的に、シェーヌはオーリンに並び、結界を支えていた。掌の先には、暴風がある。恐怖を抑えて目をこらした。妖魔(ヴァン)たちが風に巻かれ、翼を引き千切られていくのが見える。オーリンがかつて融和を望み、王になってからは敵視せざるを得なかった一族は、何百もの数が、一気に失われてゆこうとしていた。
 
  ◆
 
 空が裂けた時、ナズナは、サガと、サガの直属配下の十余の妖魔(ヴァン)とともに、ドームの上にいた。轟く異音とともに、サガが体当たりのような勢いで動き、空の罅とは逆側へ身を躍らせる。気づけば、ナズナは、サガに横抱きに抱かれて飛んでいた。
「退け!」
 共にいた妖魔(ヴァン)たちと竜が、サガの指示に従う。ナズナは、サガの肩ごしに、空が罅割れて行くのを、見た。
 どこからともなく──とナズナたちには見えた──結界が出現し。風の根源をぐるりと囲んだ。ナズナたちと風の間が、遮られる。
 二日前の傷が開いたのか、サガは少しぎこちない手つきで、ナズナを、母である竜の背に預けた。その場にいる誰もが、結界の中に目をこらす。瓦礫と砂埃がびょうびょうと音を立てて流れを描き、視界は悪い、それでも。数千年の時を経た城が、風に削られ、穿たれ、揺れるのは、見て取れた。
「崩れる……のか……?」
 サガの声に、耳を聾する轟音が重なる。城の影は、猛風に押されて、斜めに崩れた。落下する膨大な瓦礫に叩かれ、高台も端から欠けてゆく。土と岩が崩れる音は、しばらく消えなかった。
 
  ◆
 
 ニエルからも、キラムの風の塔を透かして、外界が見える。
 城が、城があった高台が、大きく崩れ、飛ばされた瓦礫が風の塔に落ちかかる。キラムがうめき声を上げたが、風の塔はどうにか持ちこたえた。
「近すぎた、のか?」
 風域の周囲をオーリンたちの結界に封じられて、風が行き場を失っていることまでは、ニエルには判らない。キラムの作った安全圏の中心に、イズナと二人、じっとしゃがみこんでいる以外に、何もできない。
「ニエル。この風、何……? さっきの、ミューが持っていった道具。大事なものでしょ、あれでニエル、元の世界へ帰るんでしょ?」
 轟きの中、イズナが叫ぶ。
「あれはもともと、武器なんだ。違う世界に行くのに使うほうが、転用で」
「あれは、どうなったの? ミューは? 妖魔(ヴァン)たちみたいに消えてしまったの?」
 ニエルは否定できなかった。
「ニエル……、帰れなくなってしまうじゃない!」
「ここで妖魔(ヴァン)に殺されたら、どうせ帰れない」
 ニエルは引きつりながらも笑って見せる。イズナが、唇を噛んだ。
「キラム!」
 イズナが急に手を伸ばし、ニエルは反射的にイズナを抱きとめて、その手を押さえようとする。三人の周囲を回る風は、手首くらいへし折りそうな勢いなのだ。
 イズナの視線を目で追って、ニエルは愕然とする。
 キラムの輪郭が徐々に薄れていく。テレポートできないほど、霊力(フィグ)の限界にあって、風で彼らを守ることが、キラムにとって何を意味するのか。
「キラム! キラム!」
 イズナの掌がキラムに触れようとした。力を与えようとしたのだろう。ばちっと、イヤな音がして、イズナが手を引っ込める。キラムの術のバランスは限界で、他者の干渉を許さないのかもしれない。
 キラムが小さく振り向いた。僅かに笑った。声もなく、唇が動く。詫びの言葉か、別れの言葉か、聞き取れぬうちに。
 ひゅう、と、巨大な笛のような音を立てて、外界の強風が収まるのと、キラムの姿が消えるのは同時だった。轟音が嘘のように静まりかえった世界に、ことん、と、小さな音がした。キラムのいた、ちょうどそのあたりに落ちたのは、テレポートのときに彼らを繋いでいた、霊術具(フィガウ)の指輪。
「キラ…ム……」
 力の抜けたニエルをそっと押しのけて、イズナは両手を伸ばす。指輪を手にとり、見つめた。キラムが大切にしていた竜鱗の指輪。キラム。死んでしまった。
 姉が攫われた。優しい姉だった。守りたかったのに。守れなかった。
 それから、ミナセが死んだ。友達だった。
 おばあちゃまが死んだ。樹霊(ジェク)だったというけど、イズナを優しく育ててくれた。
 おじいさまも死んだという。地霊(ムデク)だったのかもしれない、でもイズナを大切にしてくれた。
 アマルカンも、死んだ。イズナが魔狩(ヴァン=ハンテ)になりたがらなければ、たぶん、死なずに済んだ。奥さんもいた、息子もいた、家族を残して、アマルカンは死んでしまった。
 そして、キラム。死んでしまった。イズナを守るために。無理をして成長して、無理をして王に会いにいって、無理をして作った風の塔。全部、イズナを守るためだった。
 イズナは、指輪に唇を触れる。不思議なくらい、温かい。口に含み、飲み下した。
「イズナ?」
「自分でも……、わかんない……。でも……、こうしたほうが、いい気がしたの」
 死んでしまった。キラムは死んでしまった。
「すまん……、こんなことになるとは、思わなかった」
 ニエルは、イズナの両の肩口に手を置いている。ニエルの顔が、イズナのすぐ前にある。悲しそうな目。こんな目を前にどこかで見た。そうだ、アマルカンだ。
 言わなくちゃ。イズナは、ふいに思う。アマルカンに言わなければならなかったこと。言えずに終わってしまったこと。言わなきゃ。
「判ってる。……こんなことになると、思ってなかったって。……私を、守ろうとしてくれただけだって」
 ニエルは私を守ろうとして、キラムが死んでしまった。アマルカンは私を守ろうとして、おばあちゃまを死なせてしまった。あの時も、判っていた。判っていたのに、言えなかった。判っていると言えなかった。
「わかって……た」
 体の奥の奥で、氷のように凝っていたものが、ふいに溶けた。胸の奥、奔流が湧く。それをなぞるように、涙が溢れた。我慢していたわけではない、ミナセが惨殺されユキヌが燃えた日から、ずっと、イズナの奥で痺れたように枯れていたもの。それが、流れとなり、涙となって声となった。イズナは、号泣した。
「イズナ……。すまん……」
 ニエルが、言葉にならない声を上げて泣くイズナを、抱き寄せた。泣いている子供にするように、背中を撫でてくれる手が、温かい。悲しみが流れ出して空っぽになった場所に、何かを注ぎ込まれているように。
 人を限界で支えるのは、憎しみだと思ったことがあった。そうではないと言ってくれた人がいた。そうだ。この人だ。とイズナは思う。
 イズナは、唇を引き結んで、自分の嗚咽の声を止めた。ニエルに預けてしまっていた体に、力を入れた。胸元に掌をついて、そっと体を離す。
「大丈夫……、私、大丈夫だから」
 イズナは、ニエルの目を見上げた。見上げることが、できた。ニエルが、笑んだ。
 そのとき、廃墟に、不気味な声が響いた。
「ナムガとリュアは失われた、リュアの帯びた《門》も、ともに。もう一つの《門》を感じる。探せ!」
 イズナは、弾かれたように、崩れた高台を振り仰いだ。
 廃墟の影の上、満月がかかる空。空中に留まる、数十人の一団。翼を持たずに空中を奔る人の形もあれば、鳥形の何かに乗った者もいる。精霊(ア=セク)たちだ、とイズナは気づく。高台を隔てて、黒い翼を羽ばたかせる妖魔(ヴァン)が二、三十と、人影を乗せた一頭の竜。
「姉さん!」
 唇から、声が漏れた。
「姉さん! 姉さんがいる!」
 イズナは小走りに駆け出し、
「……連れ戻してくる。待ってて」
 ニエルを振り向いて、言った。
「なに言ってる」
 ニエルが付いてくる。
「せっかく生き延びたんだから。待ってて」
「バカ言え」
 ニエルは引き下がらない。この人は来るのだ、イズナはそう思う。たとえ、拒んでも、ついてきてくれる。ならば、拒むよりも。
「……ありがとう」
 着いて来てくれてありがとう。イズナは、引き結んだ唇の端に、小さく感謝の笑みを刻む。 「戦力には、なりそうもないがな。使えるものが残ってない」
 ニエルは、皮肉な笑みで応えたが、イズナにとって、傍らに知己がいてくれるだけで、心強い。
 元から荒れ地だった谷に、城から崩れ落ちてきた瓦礫が、ぎざぎざとした輪郭を、月光に晒している。金属と石の塊を、時には踏み越え、時にはよじ登って越える。崩れた高台の斜面にかかる。
 ニエルはイズナを追い越して、ぐんぐんと先にたって登り、ことに斜面が厳しいところで、イズナに手を差し出した。
「ニエル、私、大丈夫だから、心配しないで」
「俺はちょいと特別製でな」
 ニエルはコートをすこし上げると、イズナに脚部を見せた。イズナがそれまで異界の履物だと思っていたその部分が、月の光を反射する。どうみても、芯まで金属の部品を組み合わせた駆動部だった。
「ベースが違うんだ。……先を急いだほうが良かないか?」
 イズナは頷くと、ニエルの手を握り返した。