異血の子ら

■砂に還る■

 ニエルは、イズナが家に帰りついたとたん、家中の引き出しや、物入れを開け始めたので驚いた。その動作は決然としていて、帰路ずっと考えていたのかもしれない。
 木で作った、櫛。玩具。器。小物入れ。籠の中に集めていく。
「これ……」
 キラムがくんくんと鼻をうごめかした。
「そうよ。おばあちゃまの作ったもの」
「ユキヌ様の? どうするの?」
「売る。お金が要るときは、いつも、おばあちゃまが木の細工を作ってくれて。それを売ってたの」
 イズナは、一番汚れた、金にならなそうな小さな玩具を一つとると、じっと握り締めた。
「これだけ残して、後は売ってくる」
 木の精霊(ア=セク)が作った、木細工らしいのだが。売るためのものは、もう少し違ったのではないか、と、ニエルでさえ想像がつく。そこにあるのは、いかにも手元で使うための、実用品だった。
 イズナはそれを手早くまとめて、走るように出てゆく。
 しばらくして。
 薄汚れた自転車を一台引いて帰ってきた。
「これしか、買えなかった」
「乗るのか」
「ええ」
「見せてみろ」
 ニエルは覗きこむ。
「錆を落として、油をさせば、いくらかはマシになる」
「二時間もしたら、使うの」
「やってみよう」
 ニエルは、つい、引き受けたのだが。
 夕刻。イズナは屋根に登ると言い出したのである。
「イズナ。まさか、この自転車で魔狩(ヴァン=ハンテ)に出るつもり?」
 キラムが驚きの声を上げる。
「かならず出るとはいわない。三発目の花火が上がった時だけ」
 いま、魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所には、ネルソン=ガロウとコトハしかいない。妖魔(ヴァン)が三箇所出れば、どちらかが連戦になる。それは、ニエルにも判るのだが。
「どうしても?」
「どうしても」
「わかった。おいらも行く」
 キラムは両手を伸ばして、イズナに見せる。
「ナホトカさまの腕輪がある。結界を張れば、しばらくでも狙われた人を隠せる」
 イズナが、目を瞠った。
「そんなことができるの? もっと早く来てもらえばよかった」
「イズナ。キラムを連れていって、他の魔狩(ヴァン=ハンテ)が納得したのか?」
 ニエルは、思わずぼそりと口をはさむ。
「無理ね」
 イズナが、肩を落とした。
「俺も、行く」
「直してもらった自転車だけど。三人は乗れないわ」
 キラムは、弱りきった状態は脱したが、もともとそんなに速く飛べない。
「走る」
「えぇ?」
 イズナは、受けきれない冗談を言われたと思ったらしい、困ったように笑う。
「まぁ、見てろ」
 イーザスンのサイボーグ技術を駆使した脚部である。自転車どころか、もしかしたらアスワードのバイクでも同じ速度が出せるかもしれない。
「イズナ、おいらがあっちの木に登って見張る。屋根より高いからな」
 そして、その夕。三発目の花火は、上がったのである。
「イズナ!」
 木からふわっと飛び降りてきて、キラムがイズナの後ろにしがみつく。
「街の東だ」
 自転車が走り出す、ニエルはやすやすとついて走る。ミューはニエルの肩にちゃっかり止まっている。妖魔(ヴァン)出現を告げるサイレンが鳴り出した。キラムが右だ左だと曲がる指示をする。街頭テレビがある道は、この夕刻でも人目がある。テレビがない路地を選び、街のはずれへ出た。放電柵をくぐる瞬間、キラムが小さくうめくのを、ニエルは意識する。
「このあたりのはず」
 キラムがそういったのと、地上をしきりに狙う翼人がニエルの目に入ったのが、同時だった。ニエルがイメージしていたのより、人間に近い体躯に、蝙蝠を思わせる大きな翼がついている。
妖魔(ヴァン)だ!」
 キラムが声を上げた。
 地面には、人間が一人、転げまわり、這いずって、その攻撃をなんとか避けている。まだ、少年だ。
 イズナは自転車を止める暇もなく、飛び降りるように抜刀し、駆けてゆく。横倒しになる自転車に巻き込まれもせず、キラムも器用に飛び降りると、木の葉が落ちて溜まった場所を見つけて、素早く潜り込んだ。
「ニエル! あの子、ここに連れてきて」
 声だけが、する。
 イズナがキラキラと光る霊刀で妖魔(ヴァン)を狙い、そのすきにニエルは、少年を助け起こして、キラムの張った結界まで連れ込んだ。妖魔(ヴァン)は獲物を見失ったらしい、きょときょとと周囲を見回す。
 だが、少年は、何が自分を守ってくれているのか、判らない。妙なカラクリ鳥を肩に乗せた見知らぬ男に、なんだか奇妙な発音で、木の葉の上に伏せろと言われただけなのだ。
「あ……、あ……」
 パニックに陥った、らしい。突然、がばと跳ね起きると、駆け出した。
「待て!」
 追おうとしたニエルに、キラムが縋りついてきた。
「ニエル、あんたまでやられる!」
 イズナと戦っていた妖魔(ヴァン)は、獲物を再発見する。急降下すると、少年の腰を掴んで空中へ攫った。少年は、足をばたばたさせて暴れる。妖魔(ヴァン)は、その足を一本ずつ食いちぎる。痛みと恐怖にぐったりとした体と、二本の足をまとめて抱えたが、足の一本が地面に落ちた。妖魔(ヴァン)は、面倒そうにそれを見下ろすと、地上に降りもせず、そのままどこかへ飛び去る。
 イズナは、抜き身の霊刀を提げたまま、呆然と見上げていた。
 遠く爆音が響く、近づいてくる。魔狩(ヴァン=ハンテ)のバイクだ。
 バイクから降りたのは、ニエルがアマルカンの葬儀で見かけた、斧を背負った巨漢だった。夕闇のなか、バイクのハンドルを握ってライトを振り、周囲を確認する。倒れた自転車を見、地面に撒き散らされた血、転がった人間の足を見た。
 巨漢は、いきなり掌を振り上げると、イズナの頬を打った。おそらく、その膂力のフルパワーではないだろう、それでも、イズナは、横ざまに倒れた。
「ハンパなこと、すんじゃねぇ!」
 野太い声が吠えた言葉は、ニエルにもかろうじて判った。
 ニエルは、起き上がると、ただ黙ってイズナの傍らに立った。魔狩(ヴァン=ハンテ)に、殴ることはないだろう、と、言いたいのだが、言葉が出ない。
 ああ、そうだ。魔狩(ヴァン=ハンテ)はキラムが結界を用意したことを知らないのだ、とニエルは思い。しかし被害者が結界を知らなければ同じことだと思いあたる。これを繰り返しても、たぶん、今日の出来事の二の舞だ。
 被害者を保護するための車が追いついてきて、運転士が降りて来た。淡々と、車から白い布をもってきて、足を包み、車に積む。手慣れた動作。花火への対応が遅れた時には、こういう経験をしてきたのだろう。
「イズナは、とりわけ狙われてる。車に乗せる。悪いが、その自転車で、なるべく早く引き揚げてくれ」
 魔狩(ヴァン=ハンテ)は怒りを含んだ声で言い、ニエルは頷いた。装甲車とバイクが走り去るのを待って、自転車をこぎだす。運転手から見えない距離まで、装甲車が遠ざかると、キラムがふよふよと空を飛んで追いついて来た。帰路にも、妖魔(ヴァン)を知らせるサイレンが鳴った。なんだか今夜は、サイレンの数が多いような気がする。
 イズナの家に帰りついた。入ろうとして、イズナが家の前、街頭テレビを見上げているのに気づいた。
「花火、五本目」
 イズナが、低く言う。
「旧市街まで入ってきてないし、複数で組んでるのもいない。普通の……妖魔(ヴァン)。でも五つは多い」
「そうか」
 普通の、妖魔(ヴァン)。あれを日々いくつも繰り返すのがこの世界なのだ、と、ニエルは思う。
「明日から、一人で行く。今日はたまたま妖魔(ヴァン)の増援が来なかったけど。明日は、わからないから」
 王子ナムガと王女リュアの手勢が尽きたことを知らないイズナは、言った。
「それは、無茶だ」
 というのがニエルの認識である。
 家に戻り卓を囲んで、イズナとニエルに、キラムが加わる。キラムがミューを嫌うので、ミューは離れて家具に止まっているが、スネていると伝えたいのだろう。鳥の形の脚で小石を蹴る動作をしている。
魔狩(ヴァン=ハンテ)の装甲車を皆が信じるのは、鉄の塊で目に見えて、テレビで他の人が助かってるのを見ているから。結界じゃダメなんだと思う」
 イズナが噛み締めるように言う。
「だからといって一人では余計無理だ」
「私は……、私の姉さんを探しているの。ニエルや、キラムの、お姉さんじゃ、ない」
「ナズナには、おいらだってまた会いたいよ」
 キラムが抗議する。
「俺も俺の話をしていいか?」
 ニエルは、重すぎる話題を、微妙にそらした。
「俺は実は、今日、初めて、妖魔(ヴァン)を見たんだ」
「テレビ、見てなかったか?」
「テレビは、羽が遠くから映ってる、くらいだからな。ノイズもひどいし。で、なんとなくもっと動物的なもんだと思ってたんだが、案外、人間めいた動きをするんだな」
妖魔(ヴァン)、知らなかったのか? だってアヤカシを探しているんだろ?」
 キラムが投げた発言は、ニエルにとっては爆弾だった。
「人間そっくりのも、いる」
 イズナの言葉が追い討ちをかける。
「アヤカシってのは、……精霊(ア=セク)のことじゃないのか?」
「違うよ! アヤカシのなかに二種類いる。精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)だ」
 キラムが、ニエルの思い込みを訂正する。
「なんだって?」
「大昔、妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)だった。闇霊(ヴァナク)と呼ばれる、闇の精霊(ア=セク)だった、って、話もある。そのころは、あまり強くなかったんだって」
「おじいさまに聞いたことがある。おとぎ話だと思ってた」
 キラムが、イズナに頷き、話を続けた。おとぎ話と言われても抵抗がないほどに、古い古い伝承なのだ。
精霊(ア=セク)も、ものすごく弱ったときや、どうしても霊力(フィグ)が必要なときに、人間の霊力(フィグ)を吸うことがある。吸いすぎると、その人間は心が壊れて元には戻らない。精霊(ア=セク)にとって、自分の力のために、人の霊力(フィグ)を吸うのは、……恥じるべきことなんだ」
 キラムが、ちらっとニエルを見る。キラムはニエルの霊力(フィグ)を吸ったことがあった。
「でも闇霊(ヴァナク)は、人間を血肉ごと喰らうと、霊力(フィグ)を吸うより力が得られることに気づいて、自分たちの力を増すために人間の命を奪うことを選んだ。……だから、人を食わなくても、別に飢え死にしたりはしないといわれている。いにしえの闇霊(ヴァナク)は、翼がなくても空を飛んだらしいんだけど、血肉を食うようになってから翼が生えて来た」
「翼だけが霊武器(フィギン)じゃなくても破れるのは、それと関係がある?」
「かもしれないけど、おいらもよく知らない。高位の奴は、術を使うし、姿も変えられる」
「じゃあ、これは……、もしかしたら、妖魔(ヴァン)の王にやらないといけないものなのかもしれないな」
 ニエルは、内ポケットから包みを出す。布に似た包みをほどきながら、
「これは、ハルシアの血族にあうと、どうかなるらしい。ハルシアは、三百年前のアヤカシの王の血を引くのだそうだ」
 緑の珠を連ねた霊術具(フィガウ)はニエルに与えられたものだから関係がないだろう。赤い石二つをイズナとキラムの前に並べる。
 二つの石のうち、一つが弱々しく光りだした。光は弱いが、もう一つとは明らかに違う。
 ニエルはぎょっとして、イズナとキラムを見比べる。
「おいらは王の血は引いてないぞ。でもイズナはラローゼ様の子供だから。ええと、現王の王妹の子供は、先王の……孫だな」
「……早く言えよ」
「ニエルが王に会いたいって言うから。王の血族でいいなんて言わなかったじゃないか」
「イズナ、持ってみてくれ。なんかこう、呪文とかないのか?」
 イズナは、光る石を手にとる。霊武器(フィギン)を繰るときのことを思い出しながら念を篭めてみたが、何も起こらない。
「ナホトカっていうのは王の血族なのか?」
「違う。でもナホトカ様なら王宮へ行ける。ニエルは遠翔(テレフ)の魔法陣を知ってるよな。ナホトカ様なら王宮の魔法陣に通じる陣を書けるけど、おいらじゃ無理」
「いろいろとややこしいんだな……。でもとりあえず、精霊(ア=セク)の王のほうに会えば良さそうでほっとした。好奇心が強いとよく言われるが、妖魔(ヴァン)の王に会いに行くのはさすがに願い下げだ」
「……用件を切り出す前に食われると思うな」
 キラムがぼそぼそと答えた。
 
  ◆
 
「ナズナ、ナズナ……」
 サガがナズナの部屋を訪れるには少し早い時刻。ナズナの部屋に、女の声がした。長らく話すのはサガだけだったから、ナズナは驚いて周囲を見渡した。
 匠精(メト)が出入りする天窓に女の顔が覗いている。
「ナホトカ様が、ご心痛です」
 何かが落とされた。手にとる。見たことがある。祖父がいつも身につけていた飾り鎖だ。
「お祖父さまが?」
 ナズナはそれを握りしめる。迎えの者を信じることができるように、と、これを預けてくれたのだ。懐かしさに胸が痛い。厳しいけれど優しい祖父。ナズナとイズナを甘やかしすぎては、祖父に叱られていた祖母。会いたい。会いたい。どれほど心配しているだろう。
「これを」
 縄梯子が下ろされた。ナズナは、ふらりとそれを握る。
「早く……、見つかります」
 私を助けにきてくれたのに。妖魔(ヴァン)に見つかったら食われてしまう、と、ナズナは梯子を上り始めた。天窓を抜け、塔の上に出た。
 強い力で両腕を掴まれる。
 ナホトカの使いと思っていた女の背に、黒々と翼が開いて、羽ばたいた。ナズナが目を瞠る間に、体は宙に浮いていた。いくつもの塔の屋根が、眼下にあった。
「暴れると落とすぞ、ナズナ。妾は、血さえ飲めれば、お前が瀕死でもいい」
 冷たい声に硬直した。
 
  ◆
 
 その頃。離れた地にあるオーリンの王廷は、ナホトカの処刑の時刻を迎えていた。
 ナホトカは、精霊(ア=セク)王の居城がある、厳しい山の中腹に引き出された。空の下の広場である。精霊(ア=セク)たちが、ぐるりを囲み、見守っている。
 広場に敷き詰めた岩板に直接座らされたナホトカは口を開いた。
「この地霊(ムデク)ナホトカは罪を認める。異血(ディプラド)の娘が存在することは事実だが、姉妹であって、予言を満たさない。二人は異なる地にある。トキホの一人は魔狩(ヴァン=ハンテ)、己の出自も知らぬ。わし以外が迎えに赴いても、精霊(ア=セク)と知ったとたんに斬りかかってくるだろう。もう一人は……、わし以外に居場所を知る者はない」
 そう言って、顔をあげ見回す。謀反の計があると聞けば、誰も彼も危うく見える。首謀は、星が震える音を聞くあの地霊(ムデク)か。ノ=フィアリスに憧れるあの樹霊(ジェク)か。それとも……。
「わしは昨夜、精霊(ア=セク)を二つに割ろうとした、今は悔いている。戦略を学ぶことさえなかったわしが、たとえ予言の子を連れようと、妖魔(ヴァン)を凌げるはずがない」
 精霊(ア=セク)を二つに割ってはいけない……。真意は、謀反者に届くだろうか。
 少し俯いた首筋に、次女王シェーヌの魔刃が振り下ろされた。その体から首が落ちた、と見えたのは、数秒のこと。その体も首も砂と崩れ、風霊(ウィデク)の王の宮に吹く風に、散らされていった。
 
  ◆
 
「なんの真似を!」
 ナズナの耳を、サガの声が打った。振り向くと、緑の翼を開いたサガが、ナズナを捕らえた女を追っていた。
「姉上! ナズナはお返しいただく」
「ふん! この娘は自ら、お前が結界を張った部屋を出てきたのだ」
 姉? サガの姉? 妖魔(ヴァン)王の王女?
 ではこれは?
 ナズナは、ナホトカの飾り鎖を、縋る気持ちで握りしめる。突然、その鎖が崩れた。空中にいるナズナの手から、さらさらと砂を引いて崩れてゆく。
「お祖父さま!」
 ナズナの悲鳴に、女が視線を落とす。
「ふん、老いぼれめ、霊術具(フィガウ)を利用されたと知って命を絶ったか?」
 リュア=エ=レネルは、にやりと笑う。ナホトカは父の目を恐れて、城から離れた牢塔に隠してあった。脱獄したことは報告が届いていたが、放ってあった。衰えたナホトカには、ナズナを取り戻す力はないからだ。
 サガが、飛びながら、太刀を抜いた。
「姉に、刃を向けるか? 竜の子は下衆で困る」
 リュアは、ナズナを、塔の屋根の一つに下ろす。夕方の風に落ちそうで、ナズナは、塔の飾りにしがみついた。
 リュアが、剣を抜いた。サガは抜刀のまま、太刀を握った手指に印を結び、その手でもう片方の腕の肩口から爪の先まで撫ぜ下ろす。腕は鱗に覆われ、手指が爪に変じた。その変容にナズナは息を呑んだが、リュアは驚きさえ見せない。笑顔のままで、サガに斬りかかる。黒の翼と緑の翼が、猛速でぶつかる。
「王に次ぐ使い手に挑むとはな、サガ」
 リュアが魔狩(ヴァン=ハンテ)の剣に傷つけられたのは、今は昔のこと。現在の腕前は、ナズナの目にも、リュアの剣が、速度と狙いの緻密さを両立させていることが見て取れるほどだ。サガは剣でリュアを狙いながら竜の爪でリュアの剣を止めようとするが、リュアはそれを巧みに避け攻撃を続ける。
「異端に、ナズナは渡さん」
 宣するサガを、リュアは哂う。
「妾が異端だと誰が決めた? これまでの近接(タゲント)の儀式がことごとく失敗に終わったのは、旧来の読み方が」
 リュアは、大きく剣を振りかぶる。
「間違っていたからだ!」
 サガの利き腕から血が散った。
「サガ!」
 思わずナズナは悲鳴を上げる。
「ナズナ! 予言は教えてもらったのか?──『異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘』──お前が予言の子たるには、妹は死なねばならぬ! この竜の子めは、近接(タゲント)の日に、お前の妹を殺す気だぞ!」
 サガが一瞬ひるんだ。その隙をリュアに打ち込まれ、からくも逃れる。
 ナズナは思い出す。近接(タゲント)の日「までは」手だしはせぬ、と、サガは約束した。でも、近接(タゲント)の当日は?
「妾につけ! ナズナ! 妾は、異血(ディプラド)を受けるとは、血を飲むことだと考えている。妾は、母の唯一の娘だ。妖魔(ヴァン)王の娘、継嗣の妹、これ以上に予言にふさわしい女がいるか?」
 リュアはサガに視線を据えたまま、ナズナに言う。
「妾につけば、妹の命は救ってやる」
「《門》が純血の妖魔(ヴァン)に応えたことはない! 姉上に従えば、無駄死にだぞ!」
 リュアの言葉、サガの言葉が、こもごもにナズナの心を揺らす。
「何の騒ぎだ」
 しなる鞭がすばやく二打。リュアとサガの剣を叩き落とした。サガの竜の腕の変容が解ける。
「兄上……。兄上が、妹の方を手に入れてくださらないので」
 リュアが、鞭の主を確認して、(ア=セヴ)しく笑う。最近は、兄ナムガの鞭と、妹リュアの剣、二人で組めば、どんな妖魔(ヴァン)との武術試合でも、負けたことがなかった。
「今は引け。近接(タゲント)も近いのにこの騒ぎとは。父上の勘気を蒙るぞ」
「父上は、気にくわぬとなれば、先の継嗣も斬られる方。姉に刃を向ける弟など、斬って捨ててもお咎めはありますまい。どうせ、娘に生まれなかった、できそこないの異血(ディプラド)です」
 妖魔(ヴァン)王は、かつて、ナムガやリュアとは異腹の姉、タチア=オ=リュウガを斬殺していた。オ=リュウガとは、リュウガの継嗣を意味する。
 サガは、一つ息を吐くと、ナズナの傍らに降り立った。
「怪我はないか、ナズナ」
「はい、私は」
 サガの腕の傷を見る。常の彼女なら、こんな傷を見たら癒していただろう。近接(タゲント)の日にお前の妹を殺す、という言葉が耳に蘇って、サガの手をとることができない。
 ナズナの心の内を見透かすように、リュアの声が追い討ちをかける。
「娘、もう一つ教えておいてやる。お前の目の前にいるサガは、お前の親の仇だぞ?」
 ナズナは、サガを見た。サガは、否定の語を発しない。わずかに、目を伏せた。ナムガは、リュアの言葉などまったく頓着せず、
「サガ、人の一人も食っておけ。その程度の傷、即座にふさがる」
 と言った。
「こんなかすり傷、放っておいたところで、精霊(ア=セク)に遅れは取りません」
 サガはナムガに答えてから、ナズナを運ぼうと手を伸ばしかけたが。小さく歯を食いしばる。痛むらしい。つい、と、緑の翼を羽ばたいて、宙に浮くと、全身を竜の姿に変じた。
 乗れ、というように、背を向ける。ナズナは、塔からその背に乗り移る。手も、足も震えていたけれど。いろいろなことを知ってもなお、サガ以外の妖魔(ヴァン)に、身体を預ける気にはなれなかったから。
 竜は、無言で羽ばたいた。ナズナがずっといた塔に戻るのかと思ったのに、ぐんぐんと高度を上げていく。以前、竜にのって飛んだあの日と同じくように。遠く、トキホの街の灯が、ちらちらと闇に瞬く。
「憶えています」
 ナズナは、竜形のサガに言う。
「約束しました。アスワードを、妖魔(ヴァン)に怯えずに済む地にするためなら、できる限りのことをすると」
 妹の死を見逃すこと。それも「できること」なのだろうか? ナズナは自問する。
 竜は身を翻すと、妖魔(ヴァン)の城へ戻った。ナズナの部屋がある塔につく。ナズナが降りると、サガは、緑の翼をもつ人に似た姿に戻る。腕の傷から、ついと血が流れた。
「竜の間は、人や妖魔(ヴァン)に判る言葉は発せぬ。今の姿になると、母の言葉は判らぬ」
 サガは、自らを嘲笑うように、小さく笑んだ。
「『二のアヤカシは一となる。異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。アスワードは人間の世界となる。アヤカシの王の族、逝くを見よ』……我らは異血(ディプラド)の娘を用意し、精霊(ア=セク)の王を殺して、予言が実現するのを待つ。ノ=フィアリスへ渡り、滅びを避けるは、我らの悲願。妖魔(ヴァン)のいないアスワードは人間の悲願であろう」
 ナズナは、立ち尽くす。首を、縦にも横にも、振ることができない。
「……そなたの母を殺すつもりはなかった。だが殺したのは本当だ。父は、たしかに意をもって斬った」
 ナズナは、サガを見る。サガの瞳は、闇の中で金色を帯びて光る。なんて哀しい目をするのだろう、と、思った。サガの目は、涙は流していないのに、ひどく哀しげに見えた。
「手を……。傷を塞ぐくらいは、できると思います」
 迷いながら、ナズナは、言葉を口にしていた。
 サガは、半歩下がった。
「そなたの力は、近接(タゲント)の儀式で、必要になる。たいした傷ではない。……人など、食わぬ」
 部屋の扉が、音もなく開いた。サガの術に反応しているのだろう。促されるようにナズナが部屋に入ると、彼女の背後で扉が閉まる。
 扉に背を向けたまま、ナズナは、涙を流していた。自分でも、理由は確かには判らない。ナホトカが死んだと聞いたのが悲しいのか。サガが、親の仇で、イズナを殺す気でいることが悲しいのか、信じかけた者に裏切られたからか。それとも。サガの瞳にあった悲しみにどこか共鳴したまま、心をそこから、もぎ離すことができないだけなのか。
 
  ◆
 
 ニエルが、イズナとキラムと、そろそろ話し疲れたころ。キラムが悲鳴を上げた。
「腕輪が、崩れた……」
 ナホトカにもらったという腕輪が、さらさらと崩れ、砂と化していく。キラムは、庭に走り出ると、地面に掌をついた。
「旧市街の結界も消え……、え? 戻った! でもナホトカ様とは違う!」
 イズナを見上げる。イズナは硬い表情で、キラムを見つめている。
「ナホトカ様は、イズナを放っておくような方じゃない。妖魔(ヴァン)がたくさん来ていたって言っていたろ? たぶん、捕えられたんだと思う。どこかへ連れて行かれて、そして、今日になって……たぶん……亡くなった」
 キラムの声が、掠れて消えた。ボロボロと涙がこぼれる。
 イズナが、ふらりと庭に出た。満月に近い月が、雷に裂けて焼け焦げた枯れ木を照らしている。樹霊(ジェク)・ユキヌの木。イズナは、その幹に、片手をついて、見上げている。
「あのさ。お前の話だと、強い大精霊(ア=セク)だったんだろ? そんなに簡単に捕まったりするもんなのか?」
 酷かと思ったが、ニエルは、キラムの近くまで歩みより、確認せずにはいられなかった。
「ナホトカ様がここに、イズナと一緒に住んでいたんだとすると……。電気は、精霊(ア=セク)を弱らすんだ」
 イズナに聞こえないほどの声で、キラムが言う。
「電気? お前もか?」
「う……、うん」
 涙でぐちゃぐちゃの顔で、キラムは頷いた。
「それでお前って、ミューが苦手だったのか?」
「うん」
 そうか、と、息を吐くと。ニエルは、自分の脚部の電源を切った。自動駆動がないとだいぶん歩きにくいが、歩けないわけではない。そういう設計になっている。
「イズナ! 家に入ろう」
 ニエルが声をかけると、イズナは無言で従った。
 
  ◆
 
 翌日、立ち木の枝がざわざわと鳴るほど、風が強くなった。
「ニエル。頼みがあるんだけど」
 小精霊(ミア=セク)が、あまりにも真剣な顔で。
「ぁんだ?」
 ニエルは思わず笑ってしまった。
「おいら……、大きくならないと」
 キラムは生真面目にいう。
「大きく?」
「うん。おいらたちは風の強いところにいって、いっぱい風をもらってさ、そんで一人前になんだ。おいら、ラローゼ様のおつきからはずれたくなくって、ずっと大きくなるのを怠けてたし。おまけにうんと眠ってたし。だから、まだ、こんなちっこいんだけど。大きくならないと。おいらが大きくなる間、誰もおいらに触らないで欲しいんだ。ニエルも、イズナも」
 ああ、わかった、と、ニエルは請け合った。……のだが。
 数時間後。イズナが剣の素振りをし、ニエルが電気部品の作業をしているところに、ミューがあわてた様子で、飛んできた。
「ちび、モウちびジャナイケド。アッチニ、落ッコチテル」
 ミューは、イーザスンの言葉でニエルに告げる。イズナが怪訝な顔をした。キラム同様、イズナは、ニエルの言葉は判っても、ミューのイーザスン語は判らない。ミューもそれを弁えていて、いつもは、イズナの前では自分が習ったアスワードの語を繋げて使っていた。
 ニエルは、ミューの言いたいことはよく判らなかったが、言葉で問い返すより、ミューをアクセスモードに切り替えたほうが速かった。イズナには見てとれない映像記録が、ニエルの脳裏に流れ込んでくる。
 トキホにいくつもある物見櫓の屋根の上に、キラムが倒れている。ミューは、キラムが以前に言いつけたとおり、キラムに近づきすぎてはいない。物見櫓の周りを、遠く円を描くように飛びながら、キラムを見て、その視野を画像に記録している。キラムは苦しげによろよろと立ちあがり、手を広げて風を受けようとしたように見えたが。よろけた、のか。足を滑らせた、のか。櫓から、落ちた。
 軽い物がふわり、と落ちた感じで、怪我をする速度ではないが。
「イズナ。キラムの様子が変だ」
 ニエルはイズナに声をかけた。キラムとの約束を破っていることは承知でも、放っておける状況には見えなかった。
「ミュー、案内しろ」
 物見櫓の足元に、彼は、倒れていた。キラムと同じ服装、だが背丈はだいぶ高い。成長した、というのか、何かにしくじったらしい、触角はしなび、足の蹴爪は抜けかけ、顔は艶を失い灰色じみて、老人のように皺が寄っている。
「どうした?」
「キラム?」
 イズナがキラムの傍らにかがみこもうとした時、キラムは目を開いた。
「触っちゃだめだ……、押さえられないんだ、霊力(フィグ)、吸い取ってしまう」
「触れなければいいんだな?」
 ニエルはコートをぬぐと、内側に下げた作業道具をはずす。はずした物を自分のベルトに下げなおそうとしたところで、イズナが手を伸ばし、コートを奪う勢いで受け取る。イズナは、ニエルのコートで、キラムを包みこんだ。イズナは、コートにくるんだキラムを横抱きに、家へ急ぐ。ニエルは、橇にのせて引いたときに風霊(ウィデク)が同じ大きさの人間ほどは重くないのが判っていたので、イズナに任せることにした。
 トキホの家は、地下に寝室があり、地上にそれ以外がある。本当にいざとなったら、地上部に火を放っても崩れず、地下で生き延びることができる構造だ。
 イズナは、地上の客間にキラムを寝かせると、窓を大きく開いて風を入れる。だが櫓の上の風よりは、当然弱い。
 イズナは意を決した表情で、キラムの体を包んだ、ニエルのコートを開いた。キラムの額に、手をあてようとする。
「だめだ、イズナ。いま、おいら、触れたら、霊力(フィグ)を吸いとっちまう、自分で抑えられねぇんだ」
 キラムは、頭を上げる元気も残っていないらしい、弱々しく顔の向きだけかえて、途切れ途切れにつぶやいた。
「イズナ、やめろ」
 ニエルは、旅の途中、キラムに霊力(フィグ)をとられていたことを思い出す。ニエルは、イズナをキラムから引き離そうと、腕を引いた。
「放して!」
 イズナが抗う。
「キラムは、霊力(フィグ)とやらが、いるんだろ。俺がやってみる、イズナ、俺が意識を失ったら、引き離してくれないか?」
 イズナは、力でもがくのをやめて、冷たいともいえる目でニエルを見る。
「おじいさまに聞いたことがある、魔狩(ヴァン=ハンテ)の血すじは、霊力(フィグ)が強いんだって。ニエルがやるより、私のほうがたぶん、キラムにたくさん力を上げられる。だから、霊力(フィグ)は私があげる。私が意識を失ったら、ニエルが引き離して」
 その目の力に、ニエルは一瞬、ひるんだのかもしれない。イズナが手を引いたとき、ニエルの指はするりと解けた。
 イズナは、床に寝かせたキラムの、頭の傍らに横座りになると、キラムの額に両手を当てた。
「やめ、ろ……」
 キラムは、弱りきった手つきで、イズナを押しのけようとした。
「キラム。お願い。お前まで、消えてしまわないで」
 ニエルは、臍を固めた。二人の横に片膝をつく。イズナとキラムの変化を見守った。
 苦しい、のだろう。イズナは、眉を寄せている。霊力(フィグ)を吸われたときに、痛みなく血を抜かれるような不快感を、ニエルは思い出す。
「キラム……、お願い、消えてしまわないで」
 小さく呟きながら、イズナの顔色は、みるみる蒼白になってゆく。それにひきかえるように、キラムにも変化が見えた。しなびた触角は蒸発し、痛々しくとれかけていた蹴爪も消えうせて、きれいに足指の整った、人間そっくりの足が現れた。しわがれた皮膚がかすかな光をおび、艶やかに回復してゆく。老人めいた容貌が、変貌していった。少年、それも、少女と見まごうほどに美しい。顔立ちが似ているわけではないのだが、ノ=フィアリスで出会ったディノクという美青年にどこか合い通じるものがあった。
「キラ、ム」
 かすかに笑んで名を呼んだのを最後に、イズナの体がくたりと力を失った。
 ニエルは、その肩に手をかけ、静かに、キラムから引きはがして、キラムの傍らに横たえなおした。体温が低いが、呼吸は正常だ。
 キラムは、起き上がろうとしたが、力が入らないようで、再び横になった。
「大丈夫か?」
 まだ不足、とあれば、霊力(フィグ)を与えるつもりで、ニエルが尋ねる。
 大丈夫、と、うけあうように、キラムが頷いた。
「ニエル、お願いが……、イズナに、なにか食べ物を……」
「何がいい」
「木櫃のなかに……、炊いた穀が残ってないかな……。病人には、湯で煮るんだ。あと、黒い陶の壷のなかに、赤いしおれた実がある。一緒に……」
 わかった、と、頷いて、台所へ立った。
 竈の火に石炭を足し、小ナベに湯を沸かして、穀を少し移した。煮ほとびるのを待って器にうつし、酸味と塩気の強い実で味をつけた。
 ニエルは、イズナをそっと抱き起こすと、煮た穀物を匙にとって少し冷ましては、唇に運んでやる。意識レベルは低下しても、反射で飲み込む。噎せない程度に、ほんの少しずつ、口に入れる。しばらくしたら、また与えれば良さそうだ。
「ニエルは、薬師なのか?」
 キラムが突然尋ねた。
「いや……」
「薬師みたいな、目だ」
 ニエルは、答えなかった。
 ニエルが生まれた世界で、ニエルは、テクノロイアとして、サイボーグをメンテナンスしてきた。ほとんど人間に近い者もいれば、ほぼ機械になりきっている者もあった。全員が兵士……、人を殺すことを目的に、あるいは戦場で生き延びるために、身体を機械に置換した者だ。
 ニエルは、首をひとつ振ると、精霊(ア=セク)を救うために霊力(フィグ)を与えた少女に、栄養を補給する作業に黙々と没頭する。キラムは安心したように黙ると、安らかな息づかいで眠りに落ちていった。
 
 夕。ニエルは、妖魔(ヴァン)の到来を知らせるサイレンが、異常なほどの数、鳴っているのを聞いた。イズナとキラムは、こんこんと眠っていた。