異血の子ら

■白い鳥

 ナホトカの意識が戻ったとき、目の前には、白い鳥の姿があった。白く艶やかな羽毛に、銀を散らした美しい鳥である。本当の鳥というより、煌びやかな細工物のようだ。大きさは、人の姿のナホトカが跨れるほど。
「目が醒めたかい?」
 少女の声で、鳥は言った。
「ここがどこか判るかい? 妖魔(ヴァン)の牢塔だよ」
 記憶は、すぐに戻った。魔狩(ヴァン=ハンテ)が呼んだ雷で、樹霊(ジェク)ユキヌを失った。魔狩(ヴァン=ハンテ)の目をはばかって、目立たぬように防戦にまわっていた、のだが。今は暗がりの中、地霊(ムデク)の力を断つ呪縛の鎖に吊られている。武器となりそうな霊術具(フィガウ)は、すべて奪われていた。
妖魔(ヴァン)の雑兵の呪縛に落ちたとは。地霊(ムデク)ナホトカも、衰えたものだ」
 自嘲の笑みに唇が歪む。
「あたいはちっちゃな樹霊(ジェク)だけど。可哀想だから助けてやるよ」
 アスワードの花である月下蘭の強い香りがして、鳥の嘴で何か啄ばむ仕草をする。ナホトカを縛っていた呪縛が、はらりと解けた。
「あたいに乗りな。見張りが寝ているうちに、出発しちまおう」
 獄の戸はすでに開いていた。地霊(ムデク)は暗くても目が利く。見張りを置くらしき部屋に、横たわる妖魔(ヴァン)の足先が見えたような気がしたのだが、白い鳥がしきりにせかすので、確認しそびれた。夜行性の妖魔(ヴァン)には、夜眠る習慣はないはずである。まして床の上に寝る習慣は。
 鳥は背にナホトカを乗せ、やすやすと飛び立つ。牢塔の周囲は、深い森。妖魔(ヴァン)が一人、追ってきた。なんだかふらふらしている。
 白い鳥は、すらりと伸びた首だけ後ろを振り向くと、かっと嘴を開いて、鮮やかな青い火を吐いた。妖魔(ヴァン)が落ちる。
「良い色の火だろ」
 白い鳥は自慢げに言った。異空の感触が、ナホトカを包み、周囲が突然、昼間になった。鳥が異空を超えたのだ、と気づいて、ナホトカは驚く。遠翔(テレフ)の魔法陣を見逃したのだろうか。
 妖魔(ヴァン)の牢獄は、彼の地霊(ムデク)としての領土であるトキホから、そう離れてはいなかったのに。わざわざ遠くへ連れて来られてしまったのだ。
「どこへ行くつもりだ」
「オーリン様ンとこ」
「トキホへ、……自分の領へ戻りたいのだが」
「ここまで来ちゃったもん。王にお目どおりくらいしてけばいいじゃないか」
 動こうとしたナホトカは、ゆるやかに、しかししっかりと呪縛されていることに気づく。鳥の背を離れることができない。
「もう着いちゃったしさ」
 王宮として使われている、巨石が組み合わさったような洞窟の入り口、岩板を敷きつめた庭に舞い降りた。鳥の足が岩板につくと、ナホトカは普通に鳥の背を降りられた。
 匠精(メト)が多いのは精霊(ア=セク)の宮の常とはいえ。風霊(ウィデク)地霊(ムデク)樹霊(ジェク)も、以前に知る宮廷より多い。数十の精霊(ア=セク)が集まっている。どこか、様子がおかしい。ナホトカを遠巻きに見るような。奇妙な気配に気をとられている間に、白い鳥を見失う。
「ナホトカ。王がお待ちです」
 声がした。
 白い長い衣装の裾を引いた、少女の姿。
「次女王、自ら……?」
 誰かが囁いたのが聞こえた。ラローゼが身を隠してから、次女王として王廷に上がったシェーヌという少女がいることは、結界から出ずにいたナホトカも噂で聞いていた。
 
 玉座の間には、オーリンの玉座の横に次女王シェーヌが登り、ナホトカを見下ろしている。
「ずっと自領の結界に篭っていたナホトカが、わざわざの来訪とは」
「いや……」
 ナホトカは口ごもる。自分の意思で来たわけではない。妖魔(ヴァン)に攫われた後は、鳥に連れてこられた。
 ラローゼがシズサを救ったあと、人族のカイと恋に落ちたのは二十年前のこと。ラローゼは王妹であり、当時は第一の王位継承者、本来は軽々には王廷を離れられない立場。カイと暮らすために匿ってくれと、以前から親しかったナホトカを頼ってきた。地霊(ムデク)の領土結界の中は、精霊(ア=セク)王でさえ見通すことはできないし、めったなことでは足を踏み入れない慣習があったからだ。
 やがて、ラローゼとカイが逝き、残された娘たちを、地霊(ムデク)ナホトカと樹霊(ジェク)ユキヌが面倒を見てきた。予言の子は一人である。二人の異血(ディプラド)の娘の世話を始めた頃、運命が一人を死なせるのだろうと予期していた。生き残った娘を結界の奥で育てあげ、近接(タゲント)の直前に王の元へ伴おうと思っていたのだ。
 しかし、娘たちは二人ともすくすくと育った。
 ナズナが攫われたとき、ナホトカとユキヌはイズナを隠しとおすと決めた。イズナを今、精霊(ア=セク)側に差し出せば、精霊(ア=セク)はナズナを、妖魔(ヴァン)はイズナを殺そうとするだろう。手のうちにある娘に、予言を実現させるために。二人を手元で育ててきたナホトカとユキヌにとって、自分の手でそれを引き起こすのは、耐え難かった。
 しかし、今、ナホトカは、イズナも伴わずに、精霊(ア=セク)王の前にいる。予言は、運命は、彼に何をさせようというのか。
「私に何か言いたいことでもあるか?」
 オーリンの目が、久しぶりの来訪者を迎えるだけにしては、不審なほどに厳しい。
「実は。恥ずかしながらしばらく妖魔(ヴァン)の呪縛を受けておりまして、今が何日かも存じません」
 ナホトカは正直に答える。近接(タゲント)もそう遠くはないはずだが、地霊(ムデク)であっても、占の魔法陣をきちんと用意して、呪を凝らさなければ正確な日時は判らない。
 精霊(ア=セク)たちが、ここ精霊(ア=セク)王宮にいるということは、まだ近接(タゲント)の日までには間があるはずだ。
 王は、静かに笑顔を見せた。
地霊(ムデク)らの占では、二日後、満月が中天に上がる頃、近接(タゲント)の刻が巡るといっている」
 オーリンの答えに、ナホトカは驚く。
「空の紋章は……」
 近接(タゲント)の1ケ月前には、精霊(ア=セク)王が、空に召集の紋章を上げるのが習わし、2日前ともなれば精霊(ア=セク)の王宮は千近いといわれる精霊(ア=セク)たちで溢れたかえっているはずだった。
「掲げない。私は予言を信じない」
 これまでも、予言を信じない精霊(ア=セク)は存在した。しかし、予言を信じない精霊(ア=セク)王は、初めてである。オーリンは強い王だ。他の者が空に召集紋章を掲げる魔法を編もうとしても、王がその気になれば、一陣の風で吹き散らすだろう。
近接(タゲント)の日、《ノ=フィアリスの門》を探しに行きたい者は行けば良い。ただし、王廷の武器は貸与しない」
 精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)も、鉄の武器では傷つかない。殺すことができるのは、竜角で作った霊武器(フィギン)だけである。精霊(ア=セク)は、普通、身近に武器をもつことを好まず、大量の霊武器(フィギン)を保持するのは王廷のみ。
「滅びは、見えない。予言を信じる理由はない」
 少女と侮っていた次女王の声が、凛と響く。次女王もまた、予言を信じていない。今回の予言ははずれてほしいと望むナホトカだが、次の近接(タゲント)までも王が予言を忌避するとなると、恐怖に身がすくむ。その時の王が、オーリンであろうと、シェーヌであろうと。
「滅びは始まっております」
「世界の震えとかいう話か。誰か、地霊(ムデク)以外にそれを感じた者があるか?」
 王が精霊(ア=セク)たちを見回す。答える声はない。地霊(ムデク)以外には、解らないのだ。
「それだけではありません。電気というものの影響を、侮ってはなりません」
「機を見て、人間との交渉を再開する。《聖域》を設けさせ、精霊(ア=セク)と人間をこのアスワードで共存させる」
「《聖域》の構想は、たしかに二十年前には、ありえました、しかし今となっては」
「くどいぞ、ナホトカ」
 次女王シェーヌがナホトカの言葉を止め、精霊(ア=セク)王オーリンが宣する。
「これまで近接(タゲント)のたびに、精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)は戦を繰り返してきた。多くの精霊(ア=セク)が戦に倒れ、しかし、予言は実現しなかった。戦のたびに、精霊(ア=セク)の数は、次第に減じてきたのだ。私は予言を信じない。殺されるために、《ノ=フィアリスの門》を求めたい者があるなら、行け。ただし、全ての精霊(ア=セク)を巻き込むことは許さぬ」
 ナホトカは、列する精霊(ア=セク)を見回す。すでに、驚きはない。ただ、戸惑いを消せないだけだ。近接(タゲント)が近いのに、紋章が上がらないことをいぶかしんで集った精霊(ア=セク)たち。彼らに対して、王のこの宣言は、何度も繰り返されているのだろう。そして、未だ、全員を納得させるには至っていない。
「わかりました……」
 ナホトカの声が震える。
「わしの手元に、異血(ディプラド)の娘がいる……。望む者のみ、わしと来い」
 イズナを予言の子とするには、ナズナを手にかけねばならない。きしむような胸の痛みに耐えて、王が知らない情報を持ち出すナホトカに。
「くだらぬ」
 オーリンが、吐き捨てた。
「今までも、近接(タゲント)のたびに異血(ディプラド)の娘は用意されてきた。にもかかわらず、予言は実現しない。予言をなぞる行為に、意味などない。もしも予言が実現するなら、それは運命が自ずからそう流れる時であろう」
「しかし……」
 数人の精霊(ア=セク)が、身じろいだ。ナホトカの傍らに動こうとしたのか。それとも、異血(ディプラド)の娘を隠してきたナホトカに憤ったのか。
「王に対する反逆であるっ!」
 シェーヌの声が響いた。白い衣をふわりと舞わせて、掌がつきつけられる。呪縛の術が放たれた。そのとき、ナホトカは微かに月下蘭の香りを嗅いだ。
「明日……、処刑を!」
 少女の声を、
「シェーヌ……」
 王が小声で、たしなめた。
「オーリン……、必要です」
 動けなくなったナホトカを、従順な匠精(メト)が牢へと引き立てた。
 
  ◆
 
 牢室に、白い鳥が入って来た。鉄格子の前に立つ。嘴で鍵を繰ると、閉鎖の術がかかったはずの格子扉が開く。不自然なまでに強い月下蘭の香り。香を浴びたような。
「あたいはちっちゃな樹霊(ジェク)だけど。可哀想だから助けてやるよ」
 鳥の嘴で何か啄ばむ仕草をする。ナホトカを縛っていた呪縛が、解けた。妖魔(ヴァン)の牢から出したときと、全く同じく。
「お前と行きたい精霊(ア=セク)を探そう。精霊(ア=セク)たちを集めたら、異血(ディプラド)の娘のところまで飛んで行こう」
 乗れ、と、鳥は白い羽毛に覆われた背を、ナホトカに向けた。
「なんの遊びだ? ……シェーヌ殿」
 鳥はよろ、と鉄格子をよろけ出ると、扉に嘴を伸ばして、ばたり、と閉めた。牢の格子が、バチリと火花を散らして、閉鎖の術が戻る。再び閉ざされた格子扉のすぐ外で、鳥は、次女王の称号をもつ少女に姿を変えた。
「いつ、私だと解った?」
「今だ。……はったりという言葉はご存知か。シェーヌ殿」
 シェーヌの表情が憮然とする。
「そもそも、樹霊(ジェク)を名乗ったのは失敗だったのではないか? 樹霊(ジェク)は火を吐かない」
「そうか」
 樹霊(ジェク)のユキヌが火を使った炊事が一切できないので、ナズナとイズナに料理を教えたのがナホトカであることまでは、ナホトカは口に出さない。
「シェーヌ殿。なぜわしを助けた」
 ナホトカの声は、あくまで穏やかだ。
「オーリンに叱られたから助けようと思ったが、やっぱりやめた。明日処刑する」
「それは今の話だろう。なぜ妖魔(ヴァン)のところから助け出してきた」
「助けたのは、妖魔(ヴァン)に捕まっている地霊(ムデク)がいると聞いたからだ。理由なんて、ない」
 トキホ近くの樹霊(ジェク)アジルが、ナホトカが妖魔(ヴァン)の都の外、森の中の古い塔に捕らえられている、という噂をつかんだとき。力の弱いキラムよりも、強い霊力(フィグ)を持つことで名高いシェーヌに知らせた。シェーヌは自ら、ナホトカの救出に向かったのである。
「では、なぜ、ここへ連れてきた?」
 シェーヌは、じっと黙っている。
「わしは、老いた。先の短い身だ。どうあってもこの命が欲しいというなら、差し上げんでもない。だが、理由くらいは知りたいのだ。地霊(ムデク)は、誓いに誠実な支族だ。この老いぼれが消滅するまで、聞いたことはいっさい漏らさぬと誓おう。話してはくださらぬか」
「オーリン王は、予言を信じていらっしゃらない」
「それはさきほど聞いた」
「予言を信じる者は多い。予言を信じると明言した重鎮を一人、牢に入れておけば、見せしめになる。お前は自分の結界に引きこもっていた。王廷の事情を知る者なら、今の王の前で予言を持ち出すようなことはしないからな。近接(タゲント)の日まで牢に入れるくらい、私が助けてやったんだから、いいと思った。それが異血(ディプラド)を匿っているとか言い出すから、斬らざるを得なくなった」
「なぜそこまで、予言を否定する。確信があるのか」
「滅びはどこにも見えない。予言を信じるほうがどうかしているのだ」
 ナホトカは、ほう、と息をつく。
「滅びは、すでに来ている。シェーヌ殿、ワシを見ろ。この身は、異血(ディプラド)の娘の祖父を演じるために老いた姿をとったが、いまはもう元の姿に戻れぬ。本当に、衰え、老いさらばえているのだ。そうでなくて、地霊(ムデク)として名高いナホトカが、妖魔(ヴァン)の雑兵の手に落ちるとお思いか?」
 ナホトカは、術で強化された鉄格子の隙間から、皺がれた手を差し出した。
精霊(ア=セク)は長らく、不老の存在と言われていた。その時代は終わりつつある。見ろ。これが老いだ、滅びだ。ワシは、人の街に、十数年住んで、己の身で実感した。これから人が増えて、あの"電気"というものの影響が広がれば、精霊(ア=セク)はみな老いを知り、子を産まなくなる。よく、見ろ」
「こんなものは、滅びじゃない。今の電気王エドア=ガルドは、厄介な交渉相手だと聞くが。奴が死ねば、オーリンはまた人間と条約を結びに行く。この世界のなかで電気の入らない《聖域》をつくって、精霊(ア=セク)はそこに住まう」
「シェーヌ殿。いま、人間の街は十と七しかない。電気の影響を感じない場所も多いが、電気が発明されてから、三十余年、純血の精霊(ア=セク)がいくたり生まれた? シェーヌ殿、貴女より若い純血の精霊(ア=セク)を、一人でも知っているか?」
 ナホトカはたしかに長らくトキホの結界に篭っていたが、翔者(テレフム)を使って情報を集めていた。精霊(ア=セク)は、子が生まれると、匠精(メト)に祝いを作らせる。匠精(メト)は近年は人から宝玉や金銀を買うことが多い。そのような貴重品は、翔者(テレフム)が運ぶ。翔者(テレフム)を押さえれば、情報は入るはずなのに、その報せは皆無なのだ。
精霊(ア=セク)は人とは違う。あんなに多産じゃないんだ。子がない年が続いたのは、たまたまだっ!」
「たまたま、ではない。歴史を調べてみよ、三十数年も子供が生まれなかったことはない。滅びは始まっている。ノ=フィアリスへ逃れなければ、アヤカシはみな、死に絶える。貴女は、女王として、新しい世界ノ=フィアリスで精霊(ア=セク)を導く運命にあるのだ」
「女王になんか、なりたくないっ」
 シェーヌは、ナホトカを睨みすえる。
「何を……、納得してここにいらっしゃるのではなかったのか」
「贄には、この身ならばくれてやる。オーリンが生きてくれるなら……」
「何の話だ」
 静かに問い返されて、シェーヌは失言を悟ったらしい。唇を噛んで、黙った。
「贄とはまた。穏やかでないな」
 ナホトカの言葉に、シェーヌの唇が震えた。
「予言の欠落の一行になにが書かれていたか知らないだろう?」
 ナホトカは首をふる。知られていないから「欠落」なのだ。
「お前は明日死ぬのだから教えてやる。『アヤカシの王の族、逝くを見よ』だ。だから、妖魔(ヴァン)近接(タゲント)のたびに、精霊(ア=セク)の王を殺してきた。先の王、オーリンの父君もそうして死んだんだ」
「なのに王は、シェーヌ殿を次女王に任じたのか? シェーヌ殿は、受けたのか」
「三百年の間、女王たることを楽しむか、それとも予言の欠落の一行を忘れて生きるか選べと言われた。女王の位なんて、どうでもいい。オーリンが斃れる瞬間まで……、王の見習いとして、傍に置いてくれるというから、受けた」
 シェーヌの頬を、涙がついと落ちた。
「オーリンを、守る。私には、精霊(ア=セク)の未来より、オーリンのほうが大切なんだ」
「それで、わしを見せしめにしようとした。次には、わしを使って、王の意に反する者をあぶりだそうとしたか?」
 頬を涙で濡らしたまま、シェーヌは頷く。
「王廷のなかに、不穏な動きがある。たとえば、王廷の霊武器(フィギン)を奪うとか。いったい何人でどうやって、妖魔(ヴァン)から《ノ=フィアリスの門》を奪う戦略か、聞いてみたいもんだ。……オーリンは、戦を回避させようとしている、でも、オーリンが精霊(ア=セク)霊武器(フィギン)を向けるとは思えない、霊武器(フィギン)をもった相手を術だけで止めようとするだろう……」
 シェーヌは、幼子のようにしゃくりあげた。
「私が、次女王が、どう言われても、いい……。実際の動きを起こさなくても、王に逆らう意図が見えただけで、次女王に殺されるとなれば、反乱を防ぐことができるかもしれない。見せしめが、要る」
 王は城に留まり、古い記録から歴史を学んでいる。戦いがなんたるかを知っている。王に率いられず、俄かに霊武器(フィギン)を握った精霊(ア=セク)が、妖魔(ヴァン)に戦いを挑めるものか、真剣に考えずに王廷の精霊(ア=セク)たちを扇動した自分に気づいて、ナホトカは愕然とする。だが、シェーヌの危惧は戦敗にはない。反乱軍を妨げようとして王が斃れることを恐れている。
 ナホトカは牢の格子の間から出した指先で、シェーヌの頬をぬぐった。誰にも言えず、苦しんできたのは判るが。恋に狂っている、と、ナホトカは嘆息する。
「シェーヌ……、何をしている?」
 オーリンの声がして、ナホトカもシェーヌも驚愕した。歩かず飛んで移動する風霊(ウィデク)は、足音を立てない。
「王……」
 ナホトカは王を見る。シェーヌは王たることは予言の贄だと知った上で、次女王の呼称を受け取った。オーリンも、同じだ。オーリンはかつては、予言を全面否定はしていなかったのだから。
「オーリン……」
「シェーヌ。まったく、余計なことを言ってくれる。ナホトカ。すまんが、時限の呪で姿を変えて、誰かに託す。近接(タゲント)が終わったら、赦免してやる」
 予言を信じない、と言いつつ。近接(タゲント)の後までオーリンが生きると信じるならば、なぜ時限の呪なのか。
近接(タゲント)まで二日。大人しくしていてもらうぞ。お前にも、予言を信じる連中にもな」
 無理だ、と、ナホトカは思う。異血(ディプラド)の娘がいることは、精霊(ア=セク)たちの前で口にしてしまった。オーリンの呪でナホトカの姿が消えたところで、予言を望む精霊(ア=セク)たちは、イズナを探そうとするだろう。
「王、お聞きを。先ほど口にしなかったことが。異血(ディプラド)の娘は、姉妹で二人おります。一人は……、妖魔(ヴァン)に奪われました」
「なんだと……?」
 予言は、異血(ディプラド)の娘を「唯一の娘」としている。姉妹では予言に合致しない。
「二人の娘のうち、一人を殺すまで、異血(ディプラド)の娘は、予言に適わぬ……。先ほど、王は、予言をなぞる行為に意味はないとおっしゃった。であれば。運命が自ずから流れるまで、王の側から娘を探さないでいただきたい。それから、トキホにはどうか結界を。トキホが無結界になると、イズナの居所は精霊(ア=セク)の目にはあっという間に見つかりましょう。約してくださるなら、この老い首は差し上げる」
「お前が死ぬ必要はない」
異血(ディプラド)の子を隠し、予言に適わぬことを知りながら、精霊(ア=セク)の王廷を謀ろうとした者として、お斬りになることです。これなら理由は立つ」
 ナホトカはゆっくり答える。これが、誰から見ても最善の手段だという自信はなかった。だが、ナホトカには、謀反を計画する者たちの心情を挫く手段を、他に考えつくことができない。時間は、限られているのだ。
「多くの精霊(ア=セク)を生き延びさせるためになら、己の命ひとつを惜しまないものは、王だけではない」
 オーリンの目が、シェーヌを見る。予言の欠落の行を話したのか、と。
 シェーヌは俯いた。
「次女王を咎めないでいただきたい……。その方は、その方なりに、懸命だ」