異血の子ら

■虜囚の塔■

 ミナセが、妖魔(ヴァン)から受けた傷は、深くなかった。痛む、というより、いろいろ聞かれるのがいやで、剣道部の朝の練習を休んだ。傷を負った瞬間のこと、親友のイズナが剣をどこからともなく呼び寄せたこと。
 直接教室へ向かう途中、職員室から、覚えがある人影が出てくるのを見かけた。あれはたしか、イズナの祖母だ。祖母がわざわざ来ているということは、イズナは欠席なのだろうか。
「あ……」
 声をかけようとしたのに、何時の間にか見失う。
「あれ?」
 探そうとしたのだが、あまりのんびりしていると、授業が始まってしまう。心残りながらも、教室に入った。
 案の定、担任の口からイズナの名が出た。
「今日、イズナさんのおばあさまが学校にいらっしゃいました」
 病欠を告げるにしては、担任の口調が重い、とは思ったが、次の言葉にミナセは驚いた。
「イズナさんは、一ヶ月ほど、休学するとのことです。復学のときに試験を受けていただいて、結果によっては卒業が皆さんより一年遅れるかもしれません。……学校にこれ以上は迷惑をかけられない、という、ご判断だそうですので」
 迷惑なんて、ひどい、と、ミナセは唇を噛む。妖魔(ヴァン)に襲われたのは、イズナのせいじゃないのに。
 前日の自分の恐怖を棚にあげて、ミナセは内心、憤った。
 
 放課後。老いた祖母には預けきれなかったイズナの荷物類を届けてくれる者はないか、と担任に募られて、ミナセは一人、手を上げた。同級の仲間たちが、ほっとしているのが判る。誰もが、前日の出来事がイズナのせいだとは思っていない。皆幼いときから、誰々が妖魔(ヴァン)から逃げおおせたそうだ、誰々が戻らない、妖魔(ヴァン)に襲われたのだろうか、と、妖魔(ヴァン)の噂を聞いている。テレビが出来てからは、日々、中継でも見ているのだ。
 イズナが悪いわけではない、しかし、それでも、イズナが怖い。
 ミナセはもともとイズナとは親しいし、同級で、しかも同じ剣道部だ。ミナセが行くのなら、おかしくはない。「自分が」行かなくても、おかしくはない。そう言い訳をする目たちが、荷物を受け取り歩き出したミナセを、ひそかに見つめているようだった。
 
 これまで何度も遊びに来た家なのに、ミナセは途中で道に迷ったらしい。
「このあたりだったと思うんだけど」
 同じ道を行きつ戻りつを幾度かくリ返し、途中で通りすがりの男に道を聞こうとした。男もなんだかきょろきょろと道に迷ってでもいる風にも見えて、頼りなげではあったのだが。声をかけようとしたとたん、顔をそらされた気がして、なおさら声をかけづらくなった間に、通りすぎてしまった。
 しばらく迷った末、たしかにさっき通ったはずのところで、見慣れた家が見つかった。
「まるで、精霊(ア=セク)にいたずらされたみたい」
 小さく呟いて、門をくぐる。
 玄関の扉を叩く前に、庭にいるイズナを見つけた。学校の制服ではなく、剣道の練習着のような動きやすい服を着て、重石をつけた木刀で素振りをしている。
「イズナ!」
「ミナセ!」
 名前を呼び交わしただけで、前日のわだかまりが取れたとでもいうのか、休学のあとに訪ねてもらったのが嬉しいのか、イズナの表情がぱっと明るくなる。
 二人並んで、引き戸を大きく開いたままの客間の、上がり縁に腰を下ろした。
「イズナ! 学校を休むって本当?」
 嘘ではないと思うから、荷物を預かって来たのに。疑問の言葉が口をつく。
 ミナセは、イズナが頷くのを、見た。
「おじいさまとおばあちゃまが……、休めって」
「どうして!」
「教えてもらえない。一ヶ月経ってもまだ一緒に居られたら、きっと話すといわれて……。しばらく、この家を出るな、って。おじいさまも、おばあちゃまも、とても悲しそうで、それ以上聞けない……」
 いつもより低い静かな声で言うイズナに、納得はしていないのだろうと、それでも祖父母のために従うと決めたのだろうと、そう、判る。
 イズナの表情を直視できなくて、ミナセは、目をそらしてしまい、そのことに自分で慌てて、誤魔化すように、上がり縁に置いた荷物を、少しイズナに押しやった。
「先生から荷物預かって来てるんだ、教科書とか」
「ありがとう。でも重かったでしょ、怪我、大丈夫?」
 ミナセが荷物を持っていくと言ったとき、同級生は誰も怪我に気を遣ってくれなかったのに。イズナに言われて、ミナセはちょっとこそばゆい。
「それは平気、だけど。……イズナ、がんばって自習してさ、来春に一緒に卒業しようよ!」
「ちょっと自信ない……。それより、昨日現れた剣を見て。使ったことがない形なんだ」
 イズナが腰からはずして置いた剣は、確りと鞘に収められていた。黒く艶やかな鞘と、朱い竜革を巻いた柄は違う色あいだが、鞘の鐺と、剣の鍔と柄頭には、同じく金とも銀ともつかない金具があしらわれ、一組のものとして作られたことは一目瞭然だった。
「この鞘は? 《蒼の御方》が持っていた……?」
「くれた。……というか、もともと私の父の物らしいんだ」
「えっ?」
「父が、魔狩(ヴァン=ハンテ)だった。父だけでなく。母も。……私、知らなかった」
 イズナの両親が妖魔(ヴァン)に殺されたことは、ミナセも聞いていた。魔狩(ヴァン=ハンテ)だったということは、殉職だったのだろう。魔狩(ヴァン=ハンテ)は、憧れる者がいる一方で、恐れる人間も多く、なにより危険な職である。祖父母は、おそらく、イズナに同じ道を歩ませたくなくて、言わずにいたのに。イズナはそれを聞かなくても、魔狩(ヴァン=ハンテ)を目指していた。
 ミナセにしてみれば自分の親友が魔狩(ヴァン=ハンテ)の子だったということなのだけれど、もともと姉ナズナの異能は知っていた。異能の血すじであることは判っていた。霊武器(フィギン)を呼びよせたことも納得が出来た気がして、ミナセはほうと息を吐く。
「見て、いいの?」
「うん。見て」
 昨日、空の鞘から、忽然と現れた、剣。ミナセは、手にとると、おそるおそる抜こうとする。おっかなびっくりなのがいけないのか、なかなか抜けない。イズナが見かねて、鞘から抜いてくれた。イズナが簡単にできることができなかったのを、自分の不器用のせいだろう、ミナセは苦笑して、自分の傍らに置かれた剣を、じっくりと見てみる。
 透明感を帯びた刃は金属ではない。魔狩(ヴァン=ハンテ)が扱う霊武器(フィギン)の刃は、もともと匠精(メト)が竜の角から削りだしたものだと言い伝えられている。空を奔る竜が精緻に彫られた刀身は、人間ではなく匠精(メト)の作だというのが納得できる。
 柄のすぐ先から、尖った切っ先まで、いかにも切れ味の良さそうな刃となっていた。
「突き剣じゃないんだね。全体に刃がついてる」
 ミナセとイズナがこれまで学んできた、先だけに刃のある突き剣は、鋼鉄製で、妖魔(ヴァン)の羽根にしか傷をつけることができない。だが、霊武器(フィギン)は、使い手の腕と霊力(フィグ)によっては、妖魔(ヴァン)の心臓を貫くことも、首を刎ねることもできる。それが出来るのが、魔狩(ヴァン=ハンテ)なのだ。
 ミナセは霊剣の柄を握り、客間の正面にある大樹を、敵に見立てて対峙の構えをとる。
「木に切りかからないで。その木は祖父母が大切にしてるんだ」
「うん」
 頷きながら、なんだかくらくらする。
「なんだか変な感じ……」
霊力(フィグ)を吸いとる、といわれた」
 自分が握っただけでふらつく霊武器(フィギン)を繰って、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちは、妖魔(ヴァン)と戦う。それが霊力(フィグ)の差、ということなのだろう、と、ミナセは妙に納得して、剣を鞘に戻した。抜くときとは異なり、あっさり鞘に入れることができた。
魔狩(ヴァン=ハンテ)に、なるの?」
 ミナセの問いに、イズナは頷いて見せながら、
「でも、すぐは無理」
と言葉で付け加えた。
「そのこと、魔狩(ヴァン=ハンテ)の人に伝えたいんだけど。訪ねてきては、くれないかな、やっぱり」
「忙しいんじゃない……」
かな、と言いかけて。
「あーっ! さっき会った人。どこかで見たような気がしてた! 魔狩(ヴァン=ハンテ)……《蒼の御方》かも!」
「会ったの?」
「うん。仮面をはずしていたから、自信ないけど。ほんの小路一本向こうで会ったよ?」
「もしそうだったら……、《蒼の長剣》がうちを探してるんだったら、とっくに着いてもいいころじゃない?」
「この家、意外に覚えにくいのよ。私もちょっと迷ったもん」
「そう?」
「うん。今日は迷っちゃった。前に来たときはそんなことなかったんだけど」
 ミナセはふと、思いあたる。ナズナは、癒しの力という異能を持っていた。イズナの祖父母にも、何か力があるのではないのか。妖魔(ヴァン)からイズナを隠すために、呪いをしていたのではないか、それにミナセも魔狩(ヴァン=ハンテ)も巻き込まれて、道に迷ったのではないのか。
「ねぇ、前にもそんなことって、あった? たとえばこの家に来る人が迷子になったとか?」
「聞いたこと、ないなぁ」
「あらあら、ミナセちゃん」
 突然、当の祖母の声がして、ミナセはびくりとした。
「訪ねて来てくださったの」
「イズナの荷物を持ってきました」
「それはありがとう。いま、卵菓子をこしらえていたところなの。よかったら、あがってね」
 小さな盆に、卵と砂糖を蒸した甘い菓子。その傍らには、香草の茶がよい匂いを立てている。
「食べてみて、おばあちゃまの作る菓子は美味しいよ」
 イズナの笑顔は、自然に、というより、祖母のために浮かべたものだと判るけれど。
「ありがとうございます」
 ミナセは、一つの家全体を覆う、娘の一人を失った悲しみに気づかないふりをして、甘い菓子に手を伸ばした。
「ミナセちゃん、お使いだてして申し訳ないのだけれどねえ。魔狩(ヴァン=ハンテ)たちの詰め所に、イズナがすぐには魔狩(ヴァン=ハンテ)にはなれないこと、伝えて来てはくださりませんか」
 祖母の言葉に、ミナセは、イズナの顔を見た。イズナが、小さく頷くのを確認して、
「はい、わかりました」
と応えた。
 帰路。ミナセは魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所に立ち寄った。魔狩(ヴァン=ハンテ)に会えないのは規定どおりだったが、領主の家僕たちに伝言を伝えることはできた。イズナの家族にイズナの姉を失った家族の悲しみが深いこと。そのために、イズナはしばらく家にいてほしいと望んでいること。だから、イズナはすぐには魔狩(ヴァン=ハンテ)になれないけれど、将来的になりたいという意志を失ったわけではないこと。家僕の女はそれを聞くと一度奥に入って、鉄の剣を持ってきた。《蒼の長剣》からイズナに、だという。詰め所に記録されていた霊剣の重さと、同じに作ってあると聞かされて、ミナセは納得する。魔狩(ヴァン=ハンテ)たちは、霊力(フィグ)を消費する剣とは別に、練習のための武器を用意するものなのだろう。

 ◆

 妖魔(ヴァン)も、衰弱すれば眠りやすくなり、睡眠により多少の回復はするが、健康体でかつ必要があれば、眠らずにもいられる。食を絶てば飢餓感を感じるが、仮に食べなくても命に支障はないと言われている。獣と異なり、男のアヤカシは愛した女しか抱かず、女のアヤカシは愛した男の子しか身篭らない。それゆえに、男が愛なく女を犯し、女は愛なき男の種でも子をなす人族という種族を、獣の一種と看做していた。
 妖魔(ヴァン)の眠りは、予知夢を見るための時間でもあった。ただ、問題は、妖魔(ヴァン)も予知夢以外の夢を見ることもあり、両者の区別がつかない、ということだ。
「ねぇ兄上。夢を見たのです」
 リュアは、ナムガに囁いた。
「ほう?」
 ナムガは、短く声をあげて、先を促した。二人の父は、妖魔(ヴァン)王リュウガ、母は姉妹同士。千年余の治世のごく初期を別として、リュウガは定まった后を持たなかった。リュウガ自身は武力と霊力(フィグ)の王だったが、統治の良案を好み、奏上した者が女であればたいてい抱いて。数日から数ヶ月でそれとなく遠ざけた。統治の案を思いついた者が男であれば、賛同してくれる賢い女を奏上の代理に立てることが、流行していた。妖魔(ヴァン)は、力を重んじる。短期間であろうと、リュウガの寵を得たい女は、たくさんいた。
「二のアヤカシは一となる。
 異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、
 近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。
 アスワードは人間の世界となる」
 リュアは、甘い甘い声で、予言を繰り返す。
 リュアの母は、弁舌さわやかで、派手やかな女だった。彼女が奏上した統治の案は、主に、大人しい姉が考え付いたものだった。リュアが先に生まれ、リュアの母は、自分の姉が心底リュウガを慕っていることをリュウガに告げた。そして、ナムガが生まれた。
「夢のなかで。なぜこれまでの巫女が、望む全てをノ=フィアリスへ導けなかったのか、知りました」
 リュアはこの上もなく陶然とした笑みを、ナムガに向けた。
「予言の解釈が、間違っているのです。巫女は、異血(ディプラド)の娘ではないのです」
「だが、父上も、巫女は異血(ディプラド)の娘だと」
 ナムガは、穏やかに窘めた。
「父上とて、絶対ではありませんわ。間違うことも、あるとは、思いませんか」
 リュアとナムガは、幼い頃から仲が良かった。
 二人には、サガという異腹の兄がいたが、異血(ディプラド)の王子が継嗣となるのは、論外だと感じていたから。二人は、年長のリュアが継嗣になるのだと信じていた。リュアは、ナムガにとって、頼りになる優しい姉だった。だが、リュウガがナムガを継嗣に指名してから、リュアは、年下のナムガを兄上と呼び、ひどく媚びた笑顔を向けるようになった。
異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘。私が、異血(ディプラド)の娘の血を、飲めばいいのです。私は母の唯一の娘で、妖魔(ヴァン)の王の現存する唯一の王女。これ以上ふさわしい、予言の巫女がいるでしょうか?」
 リュアが、両の掌をナムガの肩にかける。ナムガは、かつて慕った姉の笑顔に狂気の色が混じるのを見た。リュアは、恋人にするように、ナムガの肩口を撫ぜさする。
「兄上、力を貸してくださいませ」
 狂気の笑みに染まるリュアの顔から、ナムガは片頬をゆがませて目を逸らし、小さく問い返す。
「夢は、いつ見た」
「サガめが、ラローゼの娘を捉えて戻った夜に」
 それは予知夢ではあるまい、と、ナムガは思う。サガの殊勲に嫉妬した心が見せた妄想だ。
「姉だろうが妹だろうがいいのです、異血(ディプラド)の娘を、わがものにしたい。近接(タゲント)の戦の夜にその血を飲み干し、予言の巫女の役を勤め上げてみせます」
「父上が、捨て置けとおっしゃられたではないか」
「宿命に任せよ、とおっしゃったのです。私たちが、宿命となればいいのです。兄上とわたくしとが」
……俺が継嗣の指名を受けなければ。リュアはおそらく、こんな狂気に堕ちはしなかっただろう。
 その自覚が、ナムガの首を縦に振らせた。己の表情をリュアに見せたくなくて。ナムガはリュアを抱き寄せ、豊かな髪に顔をうずめた。

 ◆

 サガは、リュアとナムガのたちの会話を知りはしなかった。ケドイをサガ配下からリュア配下に異動するという通達はナムガから受けていたが、リュアに癒しの技を頼んだこともあってそれほど不自然なこととは受け止めていなかった。
 サガが気にかけていたのは、せっかく手中にしたナズナから「巫女役を引き受ける」という言を引き出せていないことだった。
 サガは苛立ちを隠しきれない歩調でナズナの部屋に歩みいる。
 所在なげに床に座していたナズナの手首を引いて立たせると強引に抱き上げた。
「何を……」
 驚き抗議しかけるナズナを横抱きにしたままバルコニーに出ると飛び立った。
「掴まれ。落ちるぞ」
 眼下に見える地面との距離に、ナズナは不承不承、サガの首筋の後ろに腕をまわして、両手を握りあわせる。サガは素早く呪いをかけて、ナズナが自分の意志ではその手を解けないようにした。
 サガたちよりやや低空を先行する黒い翼がある。妖魔(ヴァン)の一人である。
「見ろ、ナズナ、あれが何かわかるか」
 サガはついと高度を下げる。上からは、羽ばたく妖魔(ヴァン)の翼の陰に隠れていたものが、ナズナにも見て取れる。黒翼の妖魔(ヴァン)は、ぐったりとした血まみれの人間を、両肩に手のカギ爪を深く食い込ませて運んでいる。
 妖魔(ヴァン)はにやりと笑うと獲物を見せびからすようにサガに近づいた。
 その人は骨を折られたのだろう、手も足も異様な方向に曲がり、半ば開いた口から震える舌が覗く。痛みと恐怖に見開かれた目が、一瞬、ナズナを捉え。傷一つなく妖魔(ヴァン)に横抱きにされている女に、半ば狂った憎悪と嫉妬を向ける。
「あれは」
 ナズナの声が震える。
「今宵の獲物だな」
 サガは平然と答えて見せる。
「やめて。やめさせて。王子なのでしょう?」
「何を言い出す? あれは、獲物だ。これから王座の間に運ばれて、脳髄を父王と王子王女に献じ、一部は狩った者に下賜される。そのあと、肉と臓腑がこの城の者たちに分け与えられる」
「やめて!、助けて、助けてあげて!」
 ナズナは、抱き取れはしないか腕を伸ばそうとしたが両手には呪がかけられて離すことができない。恐慌をきたしたナズナはめちゃくちゃに暴れた。両手への呪がなければ、地上に落ちてしまっただろうと思うほどに。
 サガは半ば呆れながら、ナズナを抱える腕に力をこめ、ナズナの部屋がある塔へと旋回する。その間にも、獲物を抱えた妖魔(ヴァン)は遠ざかっていく。
「やめて!」
 叫ぶナズナを、うっかりバルコニーに下ろすと、そのまま塔から飛び降りようとするのではないか、という気さえして、部屋に入ると扉を閉じて戸に呪をかけた。
「助けて……あげて……」
 塔の部屋、床に下ろされたまま、ぐったりとすすり泣くナズナの顔を、サガは正面から覗き込んだ。
「ナズナ。そなたに、あれを止める力があると言ったら、どうする」
「止める?」
 ナズナは、ひくり、と、顔を上げた。
「そなたの母は、精霊(ア=セク)王の妹、ラローゼ。そなたは、人と精霊(ア=セク)の血をひく娘なのだ。予言にある。異血(ディプラド)の乙女が、アヤカシをノ=フィアリスに導くと。妖魔(ヴァン)がそなたの力でこの地を去れば、妖魔(ヴァン)が人族を襲うこともなくなる」
 ナズナは、サガの腕に抱かれたまま、大きく目を見開いて、サガの表情を見つめていた。涙が頬を滑り落ちる。
「本当に? 妖魔(ヴァン)が、トキホからいなくなる……?」
 サガは、笑みを浮かべて、頷いて。
「トキホから、だけではない。アスワードから、だ」
 都市から、ではなく、世界からいなくなるのだ、と告げた。
「約束します」サガに、とも、自分に、ともつかず、ナズナは囁いた。「アスワードを、人が妖魔(ヴァン)に怯えずに済む地にするためなら、私にできる限りのことをします」
 ついに。ナズナから予言に従うという誓いの言葉を引き出したのだ。サガは、薄闇に満ちた部屋の中、笑みを浮かべた。

 ◆

 ミナセは、ふと思いついて。トキホの街の周囲、畑の続くあたりに出かけ、畑で働く大人に頼んで、藁を売ってもらった。荷車を借りて藁を積み、イズナの家へ向かう。今回は、迷子にもならずに、すんなり辿り着いた。
 幾抱えもある藁を見て、イズナは怪訝な顔をした。
「ミナセ、何が始まるの?」
「まあ見てて!」
 藁を束ね、縄で竹の芯に縛る。初めて作るのだから、望むほど上手くは出来なかったけれど、どうにか鳥よけの案山子のようなものができあがる。
 ミナセは、自分の鞄から、鉄の剣を出してきた。できたばかりの案山子に乗せて、イズナに押しやる。
「剣を魔狩(ヴァン=ハンテ)に預かったの」
 イズナは、鉄の剣を鞘から抜いて、
「霊剣と同じ重さだ」
 即座に言い当てる。
「案山子、不恰好だけど。これをどこかに立てて、練習ができるようになったらいいと思って」



 けれど、さらに翌日。様子を見に立ち寄ったミナセは、案山子が立てられるのではなく。大切だといわれたあの木から、縄で下げられているのを見た。まるで、剣道部の道場で使う、羽型のように。
 木の枝には簡単に痛まないように、畳んだ筵が巻かれ、さらにその上に縄をまわして、案山子を下げてある。
 イズナは、案山子を揺らしては当たらぬようにかいくぐり、鉄の剣で胴体へ打ち込み、また跳びすさる。ミナセの姿を見て、案山子を止めると、駆け寄って来た。
「この木に、……いいの?」
 心配げに尋ねたミナセに、イズナは笑んだ。
「祖父母がいいと言ってくれたから」
「そうかぁ。良かった……」
 ミナセは、笑みをこぼした。イズナの祖父も祖母も、悲しみに沈むだけではなく。イズナの行動を縛るだけではなく。イズナの夢に賛意を示してくれているのだ。
「ミナセ、ありがとう……」
「剣は、魔狩(ヴァン=ハンテ)からだよ?」
 照れて笑うミナセに、イズナはかぶりを振った。
「ミナセのおかげで、練習できる。ちゃんと練習する。そして」
 言葉がとぎれて。
「そして、ちゃんと、魔狩(ヴァン=ハンテ)になるから」
 本当は。「そして、姉さんを取り戻したい」 そう言いたかったのだろうと、ミナセには判り。それが、安易に口に出せないくらいに難しいことであることを、想った。

 ◆

 夕の刻がめぐり、サガがナズナの部屋を訪れると、ナズナは、天蓋をかけたベッドに臥せっていた。サガがこの時間にナズナが床にいるのを見たのは、初めてだった。室内を見回せば、匠精(メト)が用意した食べ物にもほとんど手をつけていない。匠精(メト)がかたわらで、おろおろと手をもみしだいていた。
 匠精(メト)が、サガの足元にひざまづき爪先に指を触れた。匠精(メト)の言葉はサガの霊術により縛られている。他の妖魔(ヴァン)とも精霊(ア=セク)とも言葉を交わせず意も通じることはできないが、主であるサガにだけは触れれば意志を伝えることができた。
 匠精(メト)はナズナが一日中不調だったことを訴えた。ほとんど食べず、陰欝な表情で物思いにふけり。暗くなるにつれ、ベッドでしくしくと泣きだして泣きつかれたように眠ってしまったのだという。

 昨夜見せられた人族の贄がよほどこたえたというのだろうか。たかが人族一人ではないか。
 ナズナから予言に従うという誓いの言葉を引き出したいがゆえに、ある程度の衝撃を狙って仕組んだことではあるが。少しずつばかりやりすぎたか、と、サガは思う。反発のほうが強くなっては、巫女として十分な力を振るわせることはできないのではあるまいか。 サガは、ベッドの傍らに立って、眠るナズナを見下ろした。
 ナズナには風霊(ウィデク)ラローゼの神々しいほどの美しさはなかったが、親子であることを納得できる程度には似通った顔をしている、と、サガは気づく。戦場で深手を負ったサガを、敵の王子とも知らずに、滅びかけた竜の一頭と見誤って命を救った精霊(ア=セク)王女。竜とはいえ敵の乗騎という推測はついていたはず、つまり敵方という認識はあったのだ。なのに感情に流されて、憐れんで、愚かな。
「愚かな」
 サガは、低い声で、その呟きを唇から押し出して、己の記憶への連想を封じ込んだ。傷ついた自分の前に舞い降りた風霊(ウィデク)に感じた畏怖も、後に誤って斬殺した掌の感触も。
 ナズナは悪夢にうなされているらしい。眉間に小さく皺寄せ、いやいやとかぶりをふった。
 サガは、ナズナの額の前に手を延べると、深い眠りを強いる霊術を発した。ナズナは、表情を失って、夢のない眠りに落ち込んでいった。

 ◆

 古びた、けれど清潔に磨いた小さな台所。イズナは、炉の熾火に石炭を足して、穀の鍋をかける。
「大丈夫かい?」
 ユキヌの声に、
「おばあちゃま、心配しなくたって、大丈夫だってば」
 イズナは返事をして、ユキヌに、台所に入らなくてもいい、と、かぶりを振った。祖父ナホトカは、ユキヌは身体の弱いからといって食事の支度をさせたがらず、イズナとナズナが幼いころは、自分で不器用げに台所に立っていた。ナズナができるようになると、台所仕事はナズナの担当になった。
「私にだって、できるからさ」
 イズナは野菜を薄く切りながら、無理にも笑みを作る。ナズナが軽々とリズミカルに切っていた包丁に、やたらに力を入ってしまっているのは、自分でも判っている。
……まっぷたつにぶったぎるんなら得意なんだけどね。
 剣道と心のなかで比べて、小さく一人ごちた。
 イズナは、芽生えの双葉の形の籠に、鎖をつけて首から提げて、服の中、胸元に落とし込んである。作ってもらったときには、二つの宝珠が入っていたのを、かすかに覚えている。一つは母の、一つは姉の。母が死んだ日に宝珠が一つ消えて、一つになった。今も一つ。姉ナズナの宝珠が入っている。ナズナは、生きている。イズナは、それを疑わないと決めていた。
 祖父ナホトカも、祖母ユキヌも、それを聞いて信じてくれた。
 本当は、すぐにも魔狩(ヴァン=ハンテ)になりたかった。緑の翼の妖魔(ヴァン)を探して、姉をどうしたと問い質したかった。けれど、どうしてもいまは傍にいてくれと涙まじりに懇願するユキヌを振り切ることができずにいた。
「ほら、できた!」
 手早く盛り付け、食卓に並べる。
 ナズナが作るより、少し切り方が雑で、焦げていたりするけれど。
「頑張ったんだから、ちょっとは食べて!」
「そんなには要らん」
「私もね、もっとイズナがおとり」
 昔から、ナホトカとユキヌは食が細い。あれもお食べ、これもお食べと、ナズナとイズナに食べさせようとする。
 ナズナが欠け、イズナが休学し、それでもささやかに日常は続いてゆく。その、はずだった。

 ◆

「少しは、体調が回復したようだな」
 サガの一言に、ナズナは、わずかに目をそらす。
「昨日もいらしたんですか?」
「ああ。様子を見に来たが。そなたは眠っていた」
 サガが部屋を見渡せば、ナズナは今日は食事はできたようだ。昨夜、深い眠りを贈ったことは、サガは言わない。ナズナも、思い当たってはいないようだ。1日で回復を見せているのは、眠りとナズナの若さの賜物なのだろうと、サガは思う。
「あれから、ずっと考えていたんです」
「巫女の勤めのことか」
 考えることさえしたくなかった、という答えを予期したから、サガの口調に僅かに嘲笑が混じった。けれど、あっけない素直さで、ナズナは頷く。
「はい、それも、でも……」
 ナズナの物問いたげな色をみて思わず
「なんだ」
とサガは問い返してしまう。
「あのとき、しばらく部屋にいらしたでしょう」
 贄をみせたあとナズナを塔の部屋に連れ帰り巫女となる約束を引き出した。そのことを言っているらしい、
「食べにいかなかった、でしょう」
 それだけ言うにも喉に酸っぱいものがこみあげるような表情をする
「私の血は半ば妖魔(ヴァン)で半ば竜、人は常食しない、たいてい鹿か兎だな。人も、喰らったことがない、とは、言わないが」
 食べたのはカイ。ナズナの父親だ。とサガは思う。
「そう、なのですか」
 ナズナは心底驚いたように返す。
妖魔(ヴァン)は食べなくても生きられるということなのかと、考えていたんです」
 人を捕らえて来たのを見せながら、サガがそれを食う場に向かわなかったことを思い返して不思議に思ったのだろう。
「そう言い伝えられているな」
 サガはあっさりと認める。つぎはたぶん、問いただしてくるだろう、くわなくても生きられるならなぜ人を殺すのかと。
「それでも、腹はへるし、妖魔(ヴァン)とて空腹は苦痛だ」
 問われる前に言葉にすると
「あぁ、そういう」
 ことですか。という語尾を呑みこんで、ナズナはうつむいた。
「この世界、アスワードにある限り。妖魔(ヴァン)にとっては、馳走を目の前にしたと同じこと」
 サガは言い放つ。無論、そこまで単純な話では、ない。リュウガ王が王座に登るまで、妖魔(ヴァン)には王らしき王がなかった。都市を守る地霊(ムデク)が斃れた時などは、妖魔(ヴァン)にとっては香り高い美酒である人族の憎悪と恐怖を浴びるために、食べきれぬほどの人を殺し、都市を滅ぼしてしまうこともあった。餌場を自ら滅ぼした妖魔(ヴァン)は、他都市近辺に移住し、そこを餌場とする他の妖魔(ヴァン)と諍いが起こる。
 およそ千年前、無駄殺しを、厳罰をもって禁止したのは、現妖魔(ヴァン)王リュウガである。
妖魔(ヴァン)は、人族が増えた分だけ、狩る。その統制を敷いたのは、賢王リュウガ。わが、父だ」
 サガは言う。その口調から、ナズナは誇りを嗅ぎ取った。
「あなたは、王子だから。あんなことをしてまで、私を、予言の巫女にしたのですね」
「そうだが?」
 当然のほうにサガは言いかけ。ふと、矛先をかえた。
「お前は、人の女王ではない、領主の娘ですらない。なぜ、人を救おうとする?」
「そんな……、当たり前のことではありませんか?」
 予言の巫女にするのであれば。ここで疑問を呈しないほうがいいのかもしれないのに。問いは、サガの唇を滑り出た。
「お前は、異能の子。人の街で、恵まれてきたか?」
 ナズナは、すこし考えた。
妖魔(ヴァン)がもしもいなくなれば。異能が否まれることも、減るのではないでしょうか?」
「そうかな? 獣でさえ、毛色の違う仲間を噛むことがある」
「それでも……、私は、人の街で育ちました。隣の家の子供が妖魔(ヴァン)にとられたと聞けば、やっぱり、怖くて、悲しいです。幼い獣が異種の成獣を親と思い込み、群れになじむこともあると聞きます。私は、人のなかで、人として育ちました。人が死ねば、悲しい。それが可笑しなことでしょうか?」
「可笑しいとは、言わぬ」
 サガは笑んだ。
 ナズナは、サガがナズナの前に座り、爪先に触れるのを、不思議そうに見えた。それは本来は王に対する作法。サガは、人の王の前に出た客人になったかのように、王ならぬ身で王のように犠牲を払うナズナの爪先にそっと触れたのだった。