異血の子ら

■ニエルの旅 I■

 ニエルは、豊かに茂った緑の草の上で、目を覚ました。意識を失っていたらしい、と、頭を振って起き上がる。緑の濃い、木と藪に囲まれた小さな草地。高い梢が、風に揺れる。
「博士!」
「ミュー。……ついて来ちまったのか」
 ニエルを呼んだ機械の鳥の傍らには、壊れたハンググライダーと、ジャラン。背にはセラミックの矢が深く刺さったまま、唇が蒼い。すでに息がないのは明らかだった。何が楽しいというのか嬉しそうな笑顔を浮かべたまま。
 投げ出された拳を、胸の前で組んでやろうとして、何かを握っているのに気付く。バイオメモリーだ。この世界に着いた時には、生きていたのだ。最後の力を振り絞って、排出したのだろう。
 ジャランと一緒に埋めてやるべきなような気もしたが、どうしても中を見たいと思うのはテクノロイアの業だ。ニエルは、ベルトにつけたまま壊れもせずにいた道具箱から、消毒液を出してメモリーを拭った。自分のサブメモリーを排出し、……ジャランのそれを入れた。
 思ったとおり、D-クラッカーの技術資料。
「感情汚染してやがる」
 技術データーをメモリーに記録するときは、感情を排するのが基本中の基本なのに。この資料を作った誰かは、D-クラッカーを転用して「違う世界へ行く」ことができることに気づいて、異世界への憧れの感情を同時記録していた。かつてD-クラッカーが使用されなくなったのは、この感情に引きずられて、操作者が次々イーザスンを去ってしまったせいかもしれない。
 古い技術データーとは別に、一つだけ、真新しいデーターが書き込まれていた。ジャランの最後の記憶データー。
 ジャランは、顔を上に向けていた。上に茂る木の葉の鮮やかな緑を、イーザスンでは見たことがないほど澄んだ青の空を、見ていた。自分が投げ出された草地の感触、青草の匂い。草と木を渡る風の音。全身の激痛にもかかわらず、静かな歓喜が意識に満ちていた。唇が、呟く。
「巻き込んで、ごめんなさい。D-クラッカーにはまだエネルギーが残っていると思います。どうか、帰ってください。そしてあの人たち、きれいなドォルたちに伝えてください。ごめんなさい。ごめんなさい。……ありがとう」
 ──バカヤロ。レディーの名前くらい、覚えるもんだぜ。
 ニエルは、小さく呟いた。ジャランの傍らに膝をつく。セラミックの矢を抜き、ハンググライダーのハーネスをはずして、仰向けに寝かせた。瞼を閉じて、胸の上で手を組ませる。
 ざわ、と、空が鳴った。
 何の音かも把握しきれず、ニエルは立ち上がった。藪を睨んで身構える。この緑豊かな環境に、大型の野獣がいても不思議はないのだ。
 しかし、藪の葉ずえは動きもせず、突如として目の前に二人の人影が立った。まるで、空中から出現したかのように。一人は老婆、眩しいほど純白のゆったりした長衣が、皺がれた顔と、黄ばんだ白髪を、かえって目立たせている。残る一人は、若者だった。ニエルの趣味としては、同性に使う形容詞ではなかったのだが、若く美しいとしか形容のできない青年だった。
「ひと、か」
 老婆が口を開く。その声は、脳裏にしみこんで意味をなした。声というより、言葉というより。意味そのものが。
「まるで人じゃないみたいな言い方だな」
「我らは人ではない。(ア=セヴ)を見たことはないのか?」
(ア=セヴ)……?」
 奇術のような突然の出現ぶりは、人ではないと言われても仕方ないところなのかもしれない。
「アスワードから来たのではないな? どの世界から来た?」
 たしかに、ニエルは"他の世界"から来たのだが。そのことを当たり前のように語られることに、ぞわり、と、首筋の毛が逆立つ感覚があった。
「イーザスン」
 彼の言葉で"世界"の意だった。
「知らない世界だ。やはり言い伝えどおり、近接(タゲント)で近づく世界の数は無限にあるのか」
「近づく……?」とまで声に出して。ニエルは考えている。近づく世界。他の世界へ飛ぶために必要なエネルギー量が低下している、と、ジャランは言っていなかったか?
 この「(ア=セヴ)」と称する種族は、何を知っているのか? 焦りが、ニエルの顔に出たのか、老婆は微笑した。
「それさえ知らずに世界の間隙を渡って来たのか? 世界はおよそ三百年の周期で脈動する。近接(タゲント)と呼ばれる日には、わずかな力で世界の隙間を渡ることができる。……近接(タゲント)が近いとはいえ、二人、渡りきったのか? ……若いほうは力を使い果たしたか」
 力を使い果たす、という意味が把握しきれないが。背の傷が見えないよう仰向けに横たえたジャランの死因が、違うことだけは理解できた。
「あっちの世界で、矢を射られたんだ」
 老婆がゆらりとかぶりを振る。
「刺されたまま飛んだか。衝撃が加われば、身体の奥をえぐられるようなもの」
「まるで……、世界の隙間とやらを渡ったことがあるみたいだな」
 何か違和感があった。何か、大切なこと、まだこの老婆から引き出して置かねばならない情報がある。
「あるとも……。この世界、ノ=フィアリスは、もともと人も(ア=セヴ)も住まない世界。何千年もの昔から、アスワードの(ア=セヴ)が、自らの地とすべく夢見てきた世界。私もまた、アスワードに生まれ、三百年前の近接(タゲント)でノ=フィアリスへ渡ってきた」
「三百年? 生きてたのか? 三百年間?」
 声に、驚きが滲んだ。ニエルの世界でもコールドスリープは存在するが。おとぎ話の絵本から抜け出したような衣服を着たこの老婆と、その技術はそぐわない気がした。
「言ったろう? 私は人ではない」
「その世界、アス……ワードからは何度も、この世界と行き来があるのか? 三百年に一度ずつ?」
「そうだ」
 ここだ。違和感の源。
「無限に世界があるのに、ひとつの世界を選んで渡ることはできるんだな? 俺が自分の世界を選んで戻るには、どうしたらいい?」
 D-クラッカーのエネルギーは無限ではない。あと二度なら飛べる。が、永久にもとの世界を探して彷徨うわけにいかないのだ。
「我らには霊術具(フィガウ)がある。お前はどうやって渡ってきた。ノ=フィアリスはどうやって選んだ?」
「世界を"飛び出す"には、この道具を使った。この世界にたどりついたのは、偶然だ」
 ニエルは正直に、D-クラッカーを見せる。ジャランとニエルがやったのは「飛ぶ」ことだけだ。方向は定めていない。
「世界には、合い寄る力がある。お前の世界は、お前と合い寄ろうとする。だから、お前が飛べば、お前の世界に戻ることができる、かも、しれない。必ず、とは言えないがな」
 どうやら老婆は、確率論の話をしているらしい。他の世界よりは、元の世界に戻る確率が高い。しかし、一〇〇%ではない、と。
「二回飛べるとして、どうだ。二回のうち、どちらかで帰れるか」
「必ず、とはいえん」
 老婆はしばらく何かを考える風をした。
「取引をせんか。我らは、近接(タゲント)の当日しか飛べない。しかしお前は、今まさに飛んで来たのだろう? であれば。近接(タゲント)まで、一ヶ月近くある。それまでに、アスワードの(ア=セヴ)に届け物をしてくれぬか。そうすれば、確実に、お前の世界に導く霊術具(フィガウ)を授けてやる」
「そんなことができるのか?」
 ニエルが質したのと、
「ハルシア様!」
 それまで黙っていた若者が口を開いたのが同時だった。
「何をおっしゃっているか、判っているのですか?」
「判っておる!」
 老婆の一喝は鋭かった。
「妾は老いた。この取引が妾の命を使い尽くすだろう。だがな。その価値はある。受けるか? どうする」
「何を、届けるんだ?」
「ノ=フィアリスに関する重要な伝言だ。霊術具(フィガウ)に篭めておく。……アスワードで(ア=セヴ)に出会えなければ、近接(タゲント)の日にイチかバチか、自分の力だけで飛んでみるがいい。もしかしたら、帰れる」
 アスワード。こことはさらに違う、別の世界。取引の中身と、別の世界を見てみたいという好奇心と。どちらが強く動いたのか。ニエルは自分でも判らないうちに、頷いていた。
 ──まったく。テクノロイアっていうのは因果な人種だぜ。
 小さく独りごちた。
「名はなんという」
「ニエル」
「ディノク。ニエルを村で休ませてやれ。妾は……、この子供を……、弔ってからゆく」
「はい……」
 青年は従順に頷くと、ニエルを先導するように歩き出した。
 
 ニエルは、藪を軽く掻きわけるようにして歩き出した青年について、潅木の間の細い道に入った。ニエルは、青年の背を目で追っていた。ミューが、ニエルの肩の上できょろきょろしていて。いきなり驚いたように羽ばたかなければ、ニエルはたぶん、振り向かなかった。
 ニエルは、葉末の間に一瞬見えた赤の色をいぶかしんで、藪を腕で払った。その音で老婆・ハルシアが目を上げた、ニエルが見た光景に目を瞠った、視線と視線がかちあった。そこには、引き裂かれたジャランの身体。ねじ切られ、放り出された首。地に膝をついたハルシアの手には、裂き取られたジャランの片腕が、しかと握られている。ハルシアの唇のまわりは血で汚れ、周囲には点々と赤が散っていた。
「見たか、見たのか。妾は人の血肉を喰らいて己の力を増すのだ。あさましいか?」
 答えずに、……答えられずにいるニエルに、ハルシアは狂気を思わせる哄笑を放った。見る間に、顔の皺が消え、黄ばんだ白髪は艶やかな白銀にかわる。老婆だった姿が、若さを取り戻していく。
「この血肉が与えてくれる力なしには、お前との約束が果たせぬと言ったらどうする? しかもな、この子供の身体は世界の記憶を持っておる。これが妾に、お前の世界の匂いを教えてくれ……」
「黙れ……」
 低い声しか出なかった。
「ジャランは……」
 名前を言ってもわからない、と、ニエルは、小さく息を吐く。吐きながら。血の色を見て沸騰した感情を、自ら、ねじ伏せた。
「そいつは、もう、何も感じない。痛みも、恐怖も。お前が必要なら、黙ってそうすればいい。だが、笑うな。そいつは本気で、ここに来たがっていたんだ。……だから、衣服でもなんでもいい、残ったものを、そこの場所に埋めてやってくれないか」
 ハルシアの表情から、笑みが消えた。若返った身体で、自分が裂いた屍骸を、そっとかき抱く。
「あいわかった……。願い……。世界を越える夢……。それごと妾のものにし、それごとお主に託そう」
 ハルシアは言って、目を伏せた。何かに祈るように。
「ニエル殿」
 成り行きを見守っていた、青年・ディノクがニエルに静かに声をかけた。
「最後まで、ご覧になっていたいですか?」
 ハルシアの"食事"を、ということらしい。ニエルは、かぶりを振る。では、と、ディノクは、小さく頷いた。
「どうぞ、村へ。もてなしもできませんが」
 ニエルは、再び、先に立つディノクに従った。
 村、とは、奇妙な場所だった。
 森の中、木々の間にいくつか、木と石を組み合わせた、小さな家が建っていた。一つ一つがオブジェのように美しいが、人間の住居にしては小さすぎる。
「ほとんどの者は、木や石に棲まいます」
 ディノクは、ニエルの不審な視線に気づいたらしい、そう説明をした。
 少し進むと、巨木が作った大きな天蓋が見えた。その内には陽の光一筋さえ差し込まないだろう。天蓋の入り口はあったが、木の枝がはみ出し、久しく使われていないようだった。
 その隣に、もっと開かれた木の連なりがあって、どうみてもある意図をもって並べたらしい、柔らかな輪郭の形の広場を作っていた。その中心には舞台に似た巨石があって、周囲には椅子らしきものもしつらえてある。小規模な集会場といった趣だ。
 ディノクは、ニエルに椅子を勧めた。小さな家の一つから、杯を借りてきて、澄んだ水を汲んできてくれ、
「差し上げられるものが、これしかないのです」
と言った。
「食べ物が足りないのか?」
 周囲は緑豊かな、鬱葱とした森である。
「我々は、物を食べません。ここは虫も鳥もいない世界、獣もいない、人もいません。植物は、目に美しい花も、香りたつ果実もつけません。風が花粉や種を運んで増えているようです。どの葉が毒で、どの葉なら人が食べることができるのか、判らないのです」
 言われてみれば、周囲の木にも草にも、花や実は一つも見つけられない。
 ハルシアが、再び村に戻ってきたとき、最初に出会った姿に戻っていた。服は清め、髪も顔も老婆である。ハルシアは、柔らかな袋のようなものを取り出した。材質は植物の繊維らしい、見事な模様を編みこんだ袋の口には、紐が通されている。その紐を緩め、袋を傾けた。
「ここに三つの霊術具(フィガウ)がある。結晶が二つ、丸石の綴りが一つだ」
 袋から滑り出たのは、赤い半透明の石が二つ。大人の拳の半分くらいの大きさで、紡錘形をしている。片方は、古いものか、やや色艶がくすんでいる。それに、丸い赤石を繋いだ首飾りのようなものが一つ。
 ハルシアは、紡錘形の石のうち、真新しく艶やかな方を指した。
「これは血想晶(プラディースタ)、妾が作ったものだ。妾の血族に反応する。これが近接(タゲント)の日までに開いたら、妾とお主の契約は完了だ。血想晶(プラディースタ)には、隠し事はできるが、嘘は吐けぬ。何かの足しになるかもしれん、知っておけ。──妾の血族は、おそらく、(ア=セヴ)の王位にあるはずだ。少なくとも、王に尋ねれば、行方は知っておろう」
「血族ってのは、なんだ? ……俺の世界では、全人口が、数十万年遡れば、一人の女の遠い子孫だという計算もあったぞ?」
「血族の呪をかけた血想晶(プラディースタ)は、直系の先祖子孫であれば開く。子をなせば、夫の前でも開く。甥姪までは開いたと聞くが、従兄弟で開いたという話は聞かんな」
「夫は他人だろうに。……遺伝子の近似性は関係なさそうだな」
 ニエルのコメントはハルシアには良く判らなかったようだ。説明を続けてもいいか、という表情をされて、ニエルは頷く。
「二つ目の血想晶(プラディースタ)は、亡くなった母が作ったものだ。おそらく妾の父にだけ反応するのだが、封が完全ではない可能性がある。妾の身分を証す助けになるかもしれん。持っていけ。そして、お前にとって一等肝心なのはこれだ」
 首飾りのようなものを、手にとって、ざらと下げて見せた。それは赤い艶やかな石を繋いだものに見えたが、よくよく見ると、石は鎖も糸も通っておらず、個々の石はわずかな隙間をもって宙に浮いて、全体には首飾りのように輪郭を保っている。
「次の近接(タゲント)で自分が戻るつもりで拵えてあった。アスワードにある霊術具(フィガウ)の写しだ。アスワードでは、おそらく、(ア=セヴ)の誰かの近くへ到着する。今しがた、イーザスンの道を急ぎ加えた。近接(タゲント)の日までに第一の血想晶(プラディースタ)が開いたら、この霊術具(フィガウ)がイーザスンへ繋がる。ノ=フィアリスにあって、赤い時にはアスワードへ。アスワードにあって、緑の時にはノ=フィアリスへ。金色に変じたら、イーザスンへ。憶えておけ」
 赤い石を入れた袋を渡され、ニエルは内ポケットにしまう。
 霊術具(フィガウ)という代物は、ニエルの体にかけられたが、ゆるいベルトのように別に変哲もなくだらりと下がっているだけだ。
「さて。お前の道具はどうやれば飛べる」
「地上から百メートルくらいは離れたい……、それだけあれば周囲を巻き込まないで済む。二メートルで、これくらいだ、その五十倍」
 両手を広げて幅を計り、それよりちょっとだけ長いと、手で線を引いて示した。
「どこか、いい場所があるか?」
 尋ねたニエルに、ハルシアは、
「ここでよかろう」
と応える。ハルシアは、ふわりと飛んで、集会場の舞台のような、巨石の上に上がった。
「上がれるか?」
 ニエルが、サイボーグ化した足でジャンプして岩に乗ってみせると、満足げに頷いた。ミューもぱたぱたと羽ばたいて、ニエルの肩に乗ってくる。掴んで電源をオフにし、ポケットに入れた。
 ハルシアは、一歩下がった。ニエルへと腕を伸ばし、掌を向けた。
「ハルシア様……?」
 巨岩の下から、ディノクが何かを問う口調になる。
「この術だけは、できるところまで、わが手で行いたい。わがままを聞いてくれ」
 ハルシアが腕を上げるにつれ、ニエルの体がふわと浮いて、翼も気球もなくゆっくり空中に上っていく。下界を見下ろすと、緑豊かな森と、そこに立つハルシアとディノクが見える。いつのまにか、いくつもの人影が、二人を囲んでいる。なぜかハルシアの姿が薄れて見え、浮遊が不安定になった。ディノクが引き継ぐようにすっと手を上げる。周囲に集った者たちが、次々に手を上げて、浮遊が安定したが、ハルシアの姿は風に吹き散らされるように、消えた。
 この取引が妾の命を使い尽くす。その言葉が今更ニエルの中に浮かびあがったが。消滅が彼女の死なのかどうか、ニエルには判断がつかなかった。
 空中、約百メートル。事前に、そこまで離れれば巻き込む者がいなくなる、と説明した高さに達したのを確認して、ニエルは、Dクラッカーのスイッチを押し込んだ。
 憶えのある強烈な圧迫感がニエルを押し包む。霊術具(フィガウ)と呼ばれたものがふわふわとニエルの周囲で浮き上がっている。骨が軋む苦痛。上着の中にいれたミューの感触が、痛い。
 ニエルは奥歯を噛み締め、自分を叱咤する。
「気を失うな……」
 今回はハンググライダーもない。次の世界にどう現れるのか解らないのだ。
 と思った瞬間。異空間の虚無から、視界が変わった。青い空、落下の感覚。目の前をすぎる木の梢。コンマ数秒の間に、ニエルは、サイボーグ化した脚部にパルスコマンドを送る。脚部は、正しく大地をとらえ、耐衝撃機能を発揮した。感触からいって、数メートル落ちただけのようだ。
「ふう」
 霊術具(フィガウ)を包みに戻して、息をつけば。周囲は木に囲まれた、小さな広場のような場所である。とりわけ大きな木には白い紙飾りがつけられている。元は純白だったのかもしれないが、今は薄汚れ、灰色じみていた。広場の周囲は明らかに誰かの意図で石の囲いが置かれていた。
 そして、目の前には、誰かが蹲っている。ニエルの気配を察したのか、目を上げた。
 子供、という印象が先にたった。背格好は、四歳か五歳の幼児ほどである。が。よく見れば「それ」は人間ではなかった。細く伸びた触角、白い髪。唇から小さくはみ出した、白い牙。両足には、大きな蹴爪が三つずつついている。目のまわりがぐじぐじに濡れて、なにやら泣いていたらしい。
「どうした?」
 思わず声をかける。気が抜けると一緒に、自らのサイボーグ部分が節電モードでオフになったことを、ニエルはほとんど意識していない。
「泣いてたんじゃないのか?」
と口に出してみる。
「大事なもんを無くしたんだ。でも、お前には関係ないっ。お前、なんだっ」
 空中から人間が出現したのだ。「誰だ」、ではなく、「なんだ」呼ばわりされるのは仕方あるまい。
「……俺は、ニエル。お前は?」
「お……おいら、キラムだ」
「お前が、(ア=セヴ)か?」
 キラムは頷いた。
「うん。おいら、精霊(ア=セク)……、まだ小精霊(ミア=セク)だけど、風霊(ウィデク)だ」
 なんだか幼げな様子に、ニエルは子供なら面白がるか、と、上着の内ポケットからミューを掴み出し、スイッチを入れた。
「で、こいつがミュー」
「コンニチハ! コンニチハ! ヨロシク!」
 ミューが挨拶の声を上げるのと、キラムがしゃっと蹴爪の音を立てて飛びすさったのが同時だった。
「すまん……。怖がるとは思わなかったんだ」
「ヒドイ! みゅーハ怖クナイノニ!」
 ミューが、ニエルの周囲を飛びまわりながら、抗議の声をあげる。
「怖いわけじゃないやい!」
 そういいながら、近づいてはこない。しかし逃げもしないし、害を加えても来ない。
「ハルシア、という名を知っているか?」
「おいら、知らない」
「俺はノ=フィアリスから来た。ノ=フィアリスは判るか?」
 キラムの目が大きくなった。縦裂の瞳の視線が、ニエルに据えられる。
「ノ=フィアリスを知らない精霊(ア=セク)がいるもんか」
「ハルシアという(ア=セヴ)から、ノ=フィアリスに関する重要な伝言を預かって来た……」
「お前は人間だろう! どうしてノ=フィアリスを知ってる?」
「言ったろう? 俺はノ=フィアリスから来たんだ」
「嘘つけ! ノ=フィアリスから来た者はいないっていうぞ?」
「ノ=フィアリスから来たのは本当だ。だが、生まれたのは別の世界だ。イーザスンという」
 言いながら、ハルシアに預かった袋を取り出した。中身を、掌に受ける。赤い半透明の石を、見せてやる。キラムは、好奇心が抑えきれないように数歩近づいて、ふんふんと鼻をうごめかせたが、かぶりを振る。
「おいら宛じゃない。そんだけは、確かだ」
「他の(ア=セヴ)に会う手段はないか? ……お前に頼む筋合いがないのは判ってるんだが。他に当てもなくてな」
 キラムは、数秒、ニエルを見つめていたが。
「おいらは、これから、強ーい大精霊(ア=セク)のとこへ帰るんだ。でも、おいら、ちっちゃいし、お前を連れて飛んで行ったりはできない。それでもよければ、連れて行ってやる」
 なにやら偉そうだが、ニエルの側には他に手段がない。苦笑して、
「頼む」
 と言った。
「そしたら。今夜はここで過ごそう。おいら、こっちで眠っていたんだ」
 キラムは、ちょろちょろっと歩き出して、紙の飾りのある木を、回り込んだ。何があるのだろう、と、ニエルも数歩動く。サイボーグ化された脚部を起動した瞬間、キラムがぴょんぴょんと跳ねて距離を取ったが、ニエルは子供っぽい気まぐれ、と、気に留めなかった。
「この飾りはなんだ?」
 ニエルは、木に巻きつけられた紙飾りを見上げる。
「おいら、知らない。眠ってしまう前もあったかな。よく憶えてない。とにかく、出発は明日の朝だ」
「まだ日没まで、ちょっと時間があるだろう」
「方向がわかんないんだ。暗くなったら、おいら、木に登って、街の明かりを探す。明日、まず、人間の街にいって、ここがどこだか聞いてみる。本当の出発はその後だ」
 子供じみた外見のわりに、思ったより順序立てて計画するようだ。
「今夜食えるものがあるかな?」
 聞いてみると、ふんふん、と、鼻をあげて、空気の匂いをかぐ。子供というより、小動物のようだ。
「あっちに泉があるみたいだ」
 キラムは、微妙に距離を取りながら先に立つ風なので、ニエルは距離を保ったままついてゆく。ミューもぱたぱたと後をついてきた。広場を囲った石をまたぎこえて、藪をがさごそ掻き分けて進むと、小さな泉に出た。そう深くはなく、水はそこそこ澄んでいる。魚の影がいくつかひらめいた。
「食えるかな」
「人間には食えるぞ」
 どうも精霊(ア=セク)には無理らしい口調である。
「俺は人間なんだが」
「お前、自分で取れないか?」
 ニエルは肩をすくめた。道具も何もない。手で捕える自信はちょっとなかった。
「取ってやりたいけど、今は無理だ。おいら、力をすっかり使い果たしてる」
 キラムも困ったように言う。
「この水は飲めるのか?」
「うん」
 それだけでも、ありがたい。そのまま口にする勇気がなかったので、道具箱から適当な容器に汲んで、火にかけ煮沸した。煮沸しても臭わない。用心深く味を見たが、雑味もない良質の水である。これならそのままでも飲めそうだ。
「飲み終わったら、火は消せよ」
「このあたりには、生きた人間を食うような種族はいないだろうな」
 ハルシアは死んだジャランを食べたが、生きているニエルには手を出さなかった。イーザスンは、昔、人間を襲う獣がいたと言われていた。この星にその手の生き物がいるなら、野宿には火を焚いておきたいところだ。
 キラムは重々しく頷いた。
「いる。だから火は消せ。火を目当てに襲ってくる」
「火を消せば来ないのか?」
「いや。くる。だから、おいらが結界を張る」
 キラムは両腕にはめた四つの腕輪を見せた。
「これは、強くて偉い精霊(ア=セク)の長老さまにいただいたんだ。お前とおいらくらいなら、十分隠しておける。でもその前においらは街の明かりを探してくるから。降りてくるまで、火は消しておいてくれ」
 日が落ちようとしていた。
「街の灯を見つけるにはちょっと明るいけど。あんまり暗くなると、奴らが襲ってくる。その前に、戻ってくるからな」
 キラムは、ふわり、と宙に浮いた。ふらふらと上昇し、数秒で、ふにゃっと落ちた。怪我はなさそうだが、がっくりと肩を落とす。気を取り直して周囲を見回す。木肌がざらざらとした高い木を見つけて駆けよった。キラムは木の幹にとりつくと、木肌に足爪をかけて、器用に登っていく。
 暮れかけた空をバックに、木の枝にたどりついては、手をかけ、体を持ち上げ、足をかけなおして立ち上がる。軽く一息ついては、また次の枝を目指して登る。しばらく見るうちに、重なる枝に隠れて、下からは見えづらくなった。
 ニエルは瞬き一つで、ミューとの回線を繋いだ。
「木の上まで出て、景色を確認してこい。キラムに近づきすぎるなよ。お前が苦手みたいだ、下手に脅かして木から落ちでもすると寝覚めが悪い」
「みゅーガ苦手ナンテ! 失礼ナちびダ!」
 ニエルは苦笑して瞼を閉じる。彼自身の視界のかわりに、ミューの視界が送信されてくる。機械仕掛けの翼をはためかせて木の枝を避けながら、上昇する。木の高さより上に出ると、視野が三六〇度に広がった。彼らがいまいる場所は小高い丘の中腹だった。いくつもある丘の間を川が流れ、その川に沿って細い道があるのが、とぎれとぎれに見えた。その向こうに光るのは海だろうか。海と陸の境目、道の続く先に、夕刻の薄明かりのなかで、すでに灯を入れ始めた人工の建物が、ひとかたまり、見えた。灯は、炎と異なり、瞬かない。少し驚いたことに、この世界には、ノ=フィアリスと違って電気があるようだった。ミューや彼自身の人工パーツの充電を考えると、これは心強い発見だった。ミューは木の上をぱたぱたと飛び回り、視角のズレから距離を計算してよこす。
「歩いて、丸一日ってとこか」
 ざっと木の葉が降る音に、目を開ける。ざっ、ざっざっと音がして、一瞬、キラムが落ちたのかと思ったが。よく見ると、下の枝へ下の枝へ飛び降りてくる。(ア=セヴ)というものは軽いらしい、すとん、というより、ふわっ、ふわっと、飛び移って降りる。登りは時間がかかったが、下りはあっという間だった。
「街はあっちだ」
 キラムは、ニエルの前に立つと、指で方向を示した。ミューの見た街と、おおまか、合っている。
「間に起伏がある。ちょっと回り道して川ぞいを行こう。たぶん、そのほうが楽だ」
 キラムはどうもミューが飛んでいたのには気づいていない様子だ。態度は相変わらず偉そうなのだが、言っている中身はそこそこ妥当だ、と、ニエルは判断した。
「わかった」
 とだけ、ニエルは答えた。
 
 真夜中。木の洞の中、キラムが集めてくれた落ち葉の上で眠っていたニエルは、息苦しさに眠りを妨げられ、うっすらと目を開けた。ミューは洞の外で見張りを命じてある。洞のなかにいるのは、ニエルとキラムだけだった。
 その、キラムの目が。思いがけないほど近くにあって。ニエルの顔を真近に覗き込んでいる、琥珀色の光を放っている。
「キ……ラム?」
 何をしているんだ? と聞こうとした声が、思ったほど出ない。
「目が、覚めたのか?」
 目が覚めたのに気づいて、覗き込んだ、というより、ずっと見ていたように思うのだが。確信はなかった。
「あぁ」
 小さく答える。
「眠れよ……」
 もっともな助言だ。
「そうだな」
 自分の声のかすれを意識しながら、目を閉じた。不自然なほどに重い眠りに、引きずり込まれて行った。