異血の子ら

妖魔(ヴァン)城と精霊(ア=セク)

 イズナの姉・ナズナは。
 かすかに意識が戻るのを感じた。羽ばたく者に抱えられ、空を飛んでいる、と思った。十分に確かめる暇もなく、何か目に見えないものが、意識を覆ってきて、闇に落ちた。
 次に感じたのは、鱗の感触だった。長い首の先、長い角を持つ頭部が、彼女を振り向き、再び意識は途切れた。
 次の記憶は、冷たく滑らかな床に、跪いた姿勢で目を開けたこと。誰かの指がナズナの頭を強引に上げさせ、闇の中に光る幾組かの目を見た。
「この娘については、サガに任せる。……やってみよ」
 そう告げるしわがれた声が、理由もわからぬほどに恐ろしく。ナズナの意識は、またも闇に閉ざされた。

 ◆

 朝。高等学校の校庭で、ミナセは、いつもどおり、高等学校の制服を剣道の練習着に着替え。同級生のイズナの姿を見つけ、ほっとして、笑みをこぼした。
 アスワードの剣道は、突き金をつけた木刀で妖魔(ヴァン)の形の"羽型"の翼を突き破る形式と、純粋な試合として突き金のない木刀で人と人が対する形式がある。妖魔(ヴァン)を殺すには、魔狩(ヴァン=ハンテ)霊力(フィグ)霊武器(フィギン)が必要だが、翼だけは鉄でも破ることができる。しかるべき段位をとれば、未成年でも突き金のある木刀を持ち歩くことが許されるし、実際、木刀で妖魔(ヴァン)から逃れたという武勇伝もあった。
 この学校でも、校庭の隅に立てられた支え木から、羽型が荒縄で吊られている。イズナは、羽型を大きく揺らし、それを避けつつ、枠に糸を張った翼めがけて木刀を振るっている。剣道部の、毎朝の練習風景だ。
 昨夜の街頭テレビの中継、いつものように、魔狩(ヴァン=ハンテ)のバイクに少し遅れて、報道と被害者保護を兼ねた装甲車が現場についた。遠目に一人が攫われたのは判り、一人が残されていた。残った一人はイズナに似ていたし、攫われたのはイズナの姉・ナズナにも見えたけれど。別の誰かだったに違いない。もしも攫われたのがナズナなら、いくらイズナが剣道に熱心だといっても、翌朝、練習に出てはこないだろう。
 被害にあった誰かは気の毒だけれど、イズナたちでなくて良かった、と、ミナセは思う。
 イズナの木刀が、羽型の翼を貫き、揺れを止めるのを待って、声をかけた。
「イズナ、おはよ!」
 返事は、なかった。イズナは、もともと、そう愛想のいいほうではない。だが、いつもは、挨拶くらいは返してくれる。それが、今朝は。
 振り向いたイズナの目は何かを不思議がっているようにも見えた。自分にとって世界が変わってしまったのに、他人が変わっていないことをいぶかしむように。
 イズナの目の暗さに、ミナセはごくりと唾を飲んだ。
「イズナ……、あのね、まさか……。昨日、妖魔(ヴァン)に……?」
「……遭った」
 ほとんど表情を動かさず、イズナは答える。
「じゃ……、ナズナさん……?」
「姉さんが、攫われた」
 硬い声の奥に、篭っているのは怒り。攫った妖魔(ヴァン)への。自分の無力さへの。
「こんなことしていても、気も逸れやしない」
 イズナは、すっと木刀をさげて、場を離れてゆく。繋ぐ言葉さえ見つからなくて、ミナセは、泣きたくなった。
 
 街頭テレビで流れていたのが、イズナとナズナであること、ナズナが攫われたこと。気づいていたのは、無論、ミナセだけではなかった。
「ねえ、昨日のって。イズナなの?」
 イズナと仲のよいミナセに、囁き声で訊ねてくる生徒もいて。ミナセが頷いた時のことだった。
「ご愁傷さま。お姉さまの魂が、平安でありますように」
 同級生が口にしたのは、誰かが亡くなったときの、当然の挨拶だった。
「姉さんは、死んでない」
 イズナは、きり、と、相手を見返して言った。そんなことはありえないと、ミナセは思う。妖魔(ヴァン)は、人を殺して喰うために攫うのだから。
 誰かが妖魔(ヴァン)に襲われた、という話は、よくある。誰かの家族が攫らわれ戻らないという話は珍しくもない。空中から落とされて重傷を負った、という話も稀には聞く。だが、攫われた者が生きて戻ったという話は、誰も聞いたことがなかった。
 同級生たちは、目くばせをし、囁きと頷きを交わし、視線はイズナの上で交差する。
 イズナは、胸を張ったまま。一見、いつもと変わらず、授業を受けている。だがその目は暗く、生徒たちの噂に上っていることさえ気づかないか、まったく気にしていないかに見える。……そんなことよりも、大きな塊が、胸の底を塞いでいるように。

 ◆

 ナズナがはっきりと目を覚ましたのは、ふわりと柔らかな布団の上だった。
 あわてて半身を起こし、周囲を見回す。そこは、他都市の領主の屋敷はこんなであろうかと想像するような、贅沢な寝室。ナズナのほかに人の気配はない。
 壁は花と鳥を織り込んだ飾り布で覆われ、大きく開いた天窓を見上げると、澄んだ青空がみえる。布団を覆うのは艶やかな敷き布で、掛け布は春の野のような優しい色の襞布で飾られていた。
 トキホのように床に布団を敷くのではなく、木枝や花の彫刻を施した頭木のついたベッドだった。
 夢とまごいそうな気分で、記憶をたどる。新市街で、妖魔(ヴァン)に攫われた。空を飛んで連れてこられた。「サガに任せる」と告げた、恐ろしい声。そこまでは覚えている。思い出せる。
 自分は食われなかったのか? 意識がない間に、誰かに救われたのだろうか? ここはどこだろう? 衣服が、学校の茶色い制服のままなのが、唯一、自分の記憶と現在をつなぐよすがだった。
 ナズナが暮らすトキホでは、よくできた細工ものを、匠精(メト)が細工したよう、と評する。このとき彼女はまだ自分がまさにその物のなかにいることを知らない。
 ナズナは、こわごわとベッドを降りた。
 グレイピンクの石の床を、靴下だけの足で踏みしめる。
 瀟洒な椅子を添えた小卓の上は、色とりどりの熟れた果物、手つき杯に満たした牛乳。いくつかの花器には食べられる野草の花束、宝石のような小皿に塩と酸橘が置かれているのは、これで味をつけろということらしい。小卓から零れ落ちんばかりの食物は、全体がひとつのオブジェであるかのように美しく配置されていた。
 木々と泉の浮き彫りのある衝立の陰を覗き込んで。ナズナは初めて、冷や水を浴びせられた気持ちになった。
 昔の貴族が使ったと聞く、室内置きの小さなトイレ。それは、部屋から出られないことを意味する。
 ナズナは後じさり、鳥の飾り彫りをした木窓を開いた。
 引き扉は、武骨な鉄格子を隠す用を兼ねていたらしい。動物を閉じ込める檻に似た格子が、外界とナズナを隔てている。格子の外には、壮麗な建物。トキホではない。それどころか人族の手になるものではない。妖魔(ヴァン)に怯えて暮らすアスワードの人族に、これだけの建造物を作る余力はない。
 震える手で格子をつかみ、真下を見下ろした。大地は、窓の下、はるかに遠い。
 身を翻して、次々に木窓を開く。小窓を開くたび、パズルをはめ込むように、周辺の景色が明らかになっていく。きらびやかなドームに覆われた、荘厳な城。立ち並ぶ高い塔。ナズナがいる一室も、周囲に並ぶのと同じ、塔の上にあるらしい。大きな扉の外には、広いバルコニーがあった。
 ナズナは、他の窓よりも塔の内側にある扉も、開いてみた。鉄の格子で封じられていたが。格子ごしに見えるのは外界ではなかった。階下に続く垂直の闇。人間が建てた塔であれば、必ずそこに存在するであろう、階段やハシゴは見当たらない。この暗い空間は、妖魔(ヴァン)が翼をはばたいて飛びあがってくるための、垂直の廊下なのだろう。自分は救われたのではない。妖魔(ヴァン)に攫われて、閉じ込められているのだ。トキホから馬で一刻のところに、妖魔(ヴァン)の城がある、という、古いお伽話をようやく思い出す。
 動揺のあまり眩暈がして、ナズナはその場に座り込んだ。
 だが。
 しばらくすると。
 ナズナの若く健康な体は、空腹を訴えた。
 ナズナはのろのろと立ち上がり、さっき見つけた食べ物の前で逡巡した。
「毒とか……」
 しかし考えて見れば、殺す気があればとっくに命を奪われていようし、自白の薬を恐れるほどの知識の持ち合わせもない。
 ナズナは迷いながらも、最小限の食べ物を胃の腑におさめた。
 
 最初は用心しいしいだったが、数時間たって体に異常がないのが判り、さらにまた空腹を感じると、普通に食べ物の残りに手が伸びるようになった。
 部屋中を探したが、通学の帰りに持っていた鞄と靴はどこにもなかった。攫われた場所か途中で落としたのだろう。
 他にすることもなく、ただただ自分の身に何が起こったのだろうと、いぶかしみ、考えて過ごした。
 妖魔(ヴァン)に襲撃され、連れてこられた。逃げられない場所に捕らえられてはいるが、食われも殺されもせず、贅沢な部屋と、食事を与えられている。妖魔(ヴァン)は、人肉しか口にしないと言い伝えられているが、手に入る範囲で、人間が抵抗なく食べられる食物を用意したのだろうということは、見当がついた。妖魔(ヴァン)たちは、人間の虜囚を生かしたまま置くすべを知っている。
 最初は多すぎると感じた食べ物も、陽が上り巡り下るにつれて次第に減り、とくに補給にくる気配もない。
 食べ物が尽きようか、というころ、鉄の格子の向こう、外界には夕闇が落ちようとしていた。
 
 鉄の格子がはまっていない天窓から、匠精(メト)が飛び込んできた。御伽噺に聞いた匠精(メト)そのもの、小柄で、繊細な人形のように美しい。妖魔(ヴァン)に似せた作りものの黒い翼は、術で羽ばたくらしい。食べ残しの食物も、部屋のトイレもすばやく片付け、ナズナが微妙に動かした調度も全部もとの位置に直していく。
 ナズナは、成熟した匠精(メト)を見るのは初めてだったが、未成熟なアヤカシである小精霊(ミア=セク)なら見たことがあったので、それほど恐れ気はない。
「あの……」
 話しかけてみたが、ばたばたと部屋の片付けに熱中する様子で、答えない。匠精(メト)は、美しい物をこしらえたり、整えたりしているときには、他のことにかまわないと言われている、その伝承のとおりである。
 片づけを終えたらしい、満足げに頷いて、あっという間に、天窓から引き上げた。
 塔の部屋とバルコニーを隔てている鉄格子が、音もなく開く。ばさり、と、音がして、大窓に翼ある男の影が立った。
 ゆっくりと部屋の中に歩みいってくる。それは、彼女を攫った緑翼の妖魔(ヴァン)だった。夕昏の薄闇のなかでも、カギ爪のある翼の翡翠の色、髪の金色は、かすかに分かる。冷ややかな微笑を浮かべた顔だちは、思いもかけぬほど整っていた。
「お前の名は?」
 と問われて、ナズナは硬直した。妖魔(ヴァン)が言葉を発するとは思っていなかった。よく考えれば、妖魔(ヴァン)はアヤカシに属する。同じくアヤカシである精霊(ア=セク)の言葉と人族の言葉は共通なのだから、妖魔(ヴァン)と言葉が通じても怪しいことはないのだが。日々人族を襲う妖魔(ヴァン)が、話しかけて来たという話は聞いたことがなかった。
 ナズナの沈黙の理由をなんだと思ったのか、妖魔(ヴァン)は自ら名乗ってきた。
「私の名はサガ。妖魔(ヴァン)の王リュウガの子だ」
 昨夜「サガに任せる」と聞こえた声。サガとは、この緑翼の。
妖魔(ヴァン)、の……」
 サガが歩み寄り、ナズナはじりと後じさった。
「そう警戒するな。取って食いはしない、少なくとも、協力するならな」
「協力? 妖魔(ヴァン)に?」
 声に力をこめて、反問する。その勢いを見て、妖魔(ヴァン)の笑みに、呆れた色あいが加わった。
「囚われの身で、逆うか。名は何という?」
 ナズナは、どこの誰かも知らずに攫ったのか、と思いかけたが次の言葉は予想と違った。
「父はカイ。そうだな? 母のことは、シズサと呼んでいたのか? それとも、ラローゼと?」
 ごまかして益があるとも思えなかった。
「母は、シズサです」
「お前は?」
「ナズナ、です」
「ナズナ、か」サガは、確かめるように名を呼んだ。「ラローゼから、予言のことは聞いているな?」
「ラローゼ? 知りません」
「ラローゼの名を知らぬと?」
 サガは、ねとりとした口調で問うてくる。
「知りません。母と関係があるんですか」
「お前の母の……、もう一つの名だと思えばよい」
 ナズナは無論、サガが人族であるシズサを斬ったこと、精霊(ア=セク)ラローゼが命を救おうと憑依したこと、そのラローゼも最終的にはサガが誤殺したことなど知るよしもない。ただ、サガに、
「お前は人族の父カイと、精霊(ア=セク)の母ラローゼの間に生まれた、異血(ディプラド)の娘だ」
と告げられて、ナズナは息を呑んだ。
──「大きくなったら、教えてあげるわ」 何かにつけ歌うように言っていた母、ときに見せた哀しげな横顔を思い出す。子供心に美しい人だと思った、人間離れしたほど、美しい人だと。
 ナズナの驚く表情に。
「本当に知らなかったようだな」サガは目を細めてナズナを見、問いを重ねる。「ラローゼが死んでから、いったいどう暮らしていた、人族にでも拾われたか」
「祖父母が育ててくれました」
「名は」
「祖父はナホトカ、祖母はユキヌ」
 ナズナはサガの顔に一瞬浮かんだ呆れ笑いをいぶかしむ。何かいわれるのかと待って、言葉を切ったが、サガは何もいわない。サガにしてみれば、都市トキホの守護地霊(ムデク)ナホトカの名は知っているものの、ナズナに精霊(ア=セク)の側への思い入れは持たせたくないのである。
「ここがどんな地か見せてやる。来い」
 と言うなり、サガはバルコニーへ歩き出た。
「来い」
 躊躇うナズナに、サガは振り向いて再び呼んだ。
 自分をさらった妖魔(ヴァン)に従う理由などなかったが。口調に気おされ、ナズナは、サガについて、バルコニーへ出た。
 イズナの部屋の前に、バルコニーがあることは昼間のうちから見てとれていた。日中、そこには、ずっと、何もなかったのに。今は夕暮れの色のなか、緑の竜がいた。
 長い首と長い角、それは昨夜の夢にも似た記憶のなかにあったもの。カギ爪のある翼を畳み、腹がバルコニーにつくほどに身体を低くしたその姿勢は、どこか従順なものを感じさせはしたものの。竜は竜である。びくりと立ち止まったナズナの腕をサガが引いた。
「乗れ」
 殺す気があれば、とっくに殺しているはずだ。最初に食べ物を口にしたときと同じ理由で、ナズナは決意し、小さく生つばを飲み込むと、靴下だけの足を、竜の腿にかけて、背によじ登る。鱗に覆われた背に、ナズナが座ったところで、サガがすぐ後ろにまたがった。
 準備が整った、と、声さえかけないのに、竜は翼を広げて、飛び立った。
 気まぐれで竜上にナズナを招いた妖魔(ヴァン)は、次は気まぐれで突き落とすのではあるまいか。ナズナは身をすくませたが、ナズナのすぐ後の位置にまたがったサガの腕は、小揺るぎもせずにナズナを支えている。
 こわごわ地上を見下ろせば、数千の人が暮らせそうな建物の群れが見え、それをすっぽりと覆う規模の半透明のドーム。細かく割った蛍石が埋め込まれ、繊細なレースのように幾何学模様を浮かび上がらせていた。その周りを守るかのように立つ、いくつもの高い塔。そのうちの一つから飛び立ってきたのだろうが、どれだったのやら見失っている。塔からは、鋼の蔦にも鎖のかたまりにも見える不思議な飾りが垂れ下がっていた。
 そのさらに周囲は、壕というより荒れた谷となって、森と城とを隔てている。
「これが……妖魔(ヴァン)の」城なのだろうか。
 違和感に出た声が、途中で尻すぼまりになった。
 なぜ、奇妙に感じるのだろう。美しいから? 人を屠り血肉を食らう妖魔(ヴァン)に似つかわしくないほどに、その城は美しかった。しかし、美しいというだけなら、匠精(メト)の作った調度で埋め尽くされた塔の部屋も十分美しかった。もっと違う。もっと、何か、異なっている。
 何だろう、この微かなきらめきの正体? いや違う。きらめきの存在、そのものだ。
妖魔(ヴァン)は……、光を忌むのではなかったの?」
 すぐ後ろにいる妖魔(ヴァン)が、ふっと息を吐いて、笑いの気配がナズナの耳朶をくすぐった。
 ナズナは、知らなかった、それがかつて精霊(ア=セク)の城であったことを。全体像を目にして数秒でそれが妖魔(ヴァン)のものではないことを見抜いたナズナにサガが抱いた感嘆も。
 竜はゆうるりと妖魔(ヴァン)の城の周囲を一巡りする。黒い翼で飛ぶ他の妖魔(ヴァン)とすれ違う。
異血(ディプラド)…」
「しっ、聞こえる」
 小声の会話が耳に届き。だが、その語調には、領主といきあった民ほどの敬意も感じられなかった。
「……異血(ディプラド)、と?」
 ナズナは自分が異血(ディプラド)の者だと聞いたばかりだった。その衝撃は大きかったが、その動揺の余韻のなかでもなお、妖魔(ヴァン)が自分のことを言っているのではない気がした。
「ああ、あれは私のことだ。父は妖魔(ヴァン)の王、母は」サガの手が、ナズナとサガが乗る竜の背をすっと撫ぜた。「竜ロインだ。だから私の名はサガ=エ=ロインという」
 竜が振り向き、小さく頷く。
 その瞳の色は、サガと同じ。竜の翼とサガの翼も同じ、鮮やかな緑だ。
「上へ」
 サガが竜ロインに囁いた。竜は翼を大きく羽ばたいてぐんぐんと高度を上げてゆく。風がナズナの耳元をびゅうびゅうと流れる。
 下界は暗くかったが、微かに見える岩や木の陰の角度で視界が広がっているのは、見てとれた。次第に、地平線から一塊の明りの群れが覗きはじめる。トキホの街の人々の住家の夜の明かり、そして街の周囲を囲む電線の放電のかそけき光。
 妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)は電気を嫌うといわれていて。町境に立てられ、ちりりちりりと火花をあげる電線は、ナズナにとっては最新の防備であり、科学の粋でもあるはずなのだが、妖魔(ヴァン)の城を見たあとではなんと頼りなく、心細く見えることだろう。妖魔(ヴァン)の城の美しさ、壮麗さに比べると、哀れなほどにささやかで、はかなげで、だからこそ愛おしく感じる、人間の街。
 帰りたい、その思いに涙がにじむ。
「われらがあの程度の電気の火花を恐れると、本気で思うか?」
 サガの声にナズナは思わず振り向いた。まじかに見る瞳は、月の光のなか、煌々と金の色に光っている。問い返さずとも答えは知れた。否、なのだと。
「あれは確かに不快な代物だ。だが、越えられぬ輪ではない。妖魔族(ヴァン=フィア)が今宵人族を滅ぼさずにいるのは明日の夜すする血を残しておくため。人族が鳥の卵を全部は食わずにいるのと同じ理屈」
 冷ややかなサガの声は、ナズナの背筋を冷たくする。
 ナズナの耳元、妖魔(ヴァン)異血(ディプラド)の王子は囁く。
異血(ディプラド)とは知らず知られずいても、異能の者とは判っていたのだろう? 謗られ蔑まれて生きてきたのではないのか? 私に協力すればこの上ない英雄として帰してやる、もちろん命あるままな」
 ナズナは嫌悪感に身震いした。
妖魔(ヴァン)に協力なんてしません」
「しかし」
「いやです」
「囚われた身で逆らうか?」
妖魔(ヴァン)の思うままになるくらいなら」
 ナズナは空を飛ぶ竜の上で身体を支えるサガから身をもぎはなそうとする、またがった竜の鱗は滑り身体は傾き、もうこのまま落ちて大地に叩き付けられて終わってもいい、と、少女らしい潔癖さで、ナズナは本気だった。
「止めろ!」
 サガの一喝で、ナズナの体は硬直した。霊力(フィグ)で縛られたのだ、と気づくと同時にサガがナズナの身体の位置をぐいと正す。
「無茶を、する」
 竜ロインは、背上の二人に負荷のかからぬなだらかさで、旋回し、塔のバルコニーに戻った。サガはナズナを抱き上げて室内に運びバルコニーへの扉をぴたりと閉めてからようやく床に立つことを許した。術による硬直が解ける一瞬の隙に、サガの手が、ナズナの首に伸びる。ナズナが身を引く前に、首にまわした細い鎖を指先で掬いとった。服の中に入れて、見えないはずのペンダントヘッドを、サガはそれがそこにあると解っていたような手つきで、指先で摘む。
 三ツ葉の形に精巧に編み上げられたペンダントには、透き通った珠は2つ入っている。最初は3つあったのだけれど。
「これは? 何と聞かされている?」
「お守りです、離してください、大切なものなんです」
 震える指で、サガの指からペンダントを取り戻した。硬直の術の屈辱感と、急に話題が変わった戸惑いで、ナズナは、内心うろたえながら、それを悟られたくなくて、声の震えを抑えこむ。
「一つは、ラローゼの術石だな。お前の癒しの術の源だ」
 ナズナは、母が精霊(ア=セク)だということは知らなかったけれど、自分が、この珠を貰って癒しの術が使えるようになったことは、知っていた。今でも術を使うときは、この珠を握り締めると、気持ちが落ち着くのだった。
 サガに言い当てられて一瞬ショックだったが。妖魔(ヴァン)にが霊術具(フィガウ)が解るのは当たり前なのかもしれない、と思いなおしたとき。
「だが、もう一つは?」
 サガが問いを重ねてきた。
「妹のお守りです」幼いころ。母がナズナの手に手を添えて、まじないをかけてくれた。手を開くと、小指の先ほどの珠があった。ナズナの掌に現れた珠は、今は妹イズナがもっている。同じようにしてイズナの小さな拳から出てきた珠を、ナズナが身につけている。「これさえあれば、互いの無事が確かめられる、と。母の分の珠は、母が亡くなった日に消えてしまいましたけれど」
「妹?」
「はい」
「同じ父母のか」
 あんまりな問いに、ナズナはキッっとなって言い返す。
「父も母も、浮気するような人ではありませんでした」



「二のアヤカシは一となる。
 異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、
 近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。
 アスワードは人間の世界となる」
 予言にいう二のアヤカシのうち一が妖魔(ヴァン)、もう一つが精霊(ア=セク)である。
 精霊(ア=セク)の次女王シェーヌが王宮へ来てすぐのころ。父センティスは、王宮に来てはくれるものの、その頻度はけっして高くなかった。霊力(フィグ)の弱い父が、王宮で次女王の父と遇されることが、微妙に重荷だったのだが、幼いシェーヌはそこまでは気づかない。たまに父が来てくれれば、おおはしゃぎで、オーリンが何をした、オーリンが何を教えてくれた、と、えんえんと報告をした。それがまた、センティスに、父親がいなくても大丈夫だとは思わせていることに、気づかなかった。
「オーリン。なぜ予言を信じる?」
 妖魔(ヴァン)をも殺すという霊武器(フィギン)の扱いを学びながら、シェーヌが持ち出したのは、ひどく根本的な疑問だった。
「予言は、実現するかもしれないし、実現しないかもしれない。どちらの道であっても精霊(ア=セク)が生き延びることができるように考えるのが、王たる者の役目だ」
 予言された己の死を前提に次女王を教えながら、オーリンは、予言を信じると言い切らなかった。
「予言を信じる者は多い。予言を信じる妖魔(ヴァン)は、精霊(ア=セク)の王を殺しにくる。近接(タゲント)のたびに、精霊(ア=セク)妖魔(ヴァン)の間は、戦になる」
「わかった! 私が強くなって、妖魔(ヴァン)の王を殺せばいい」
 手の中の霊武器(フィギン)をそっと撫でるシェーヌに、オーリンは苦笑した。
妖魔(ヴァン)を、あなどってはいけない。なかでも、妖魔(ヴァン)の王リュウガは、強い。今でこそ実権は子に譲ったというが、千年余りを生きた妖魔(ヴァン)で、史上の妖魔(ヴァン)王のなかで最強という噂が高い。しかも竜角の武器が効きにくい竜にまたがって戦場に現れる。九百年前の近接(タゲント)の戦で、精霊(ア=セク)の城を奪ったのは、リュウガだ。戦の折に鞭を使って風霊(ウィデク)遠翔(テレフ)を封じたのが勝因の一つだという」
 シェーヌは、むっとする。
「鞭に巻かれるのを待っているほど間抜けじゃない。遠翔(テレフ)でだって逃げ……」
遠翔(テレフ)霊力(フィグ)を消耗する。戦の中、何十度も使えるものではない。嘘だと思うなら、センティスに稽古をつけてもらえ」
「父上?」
 思いがけないところで父の名を出されてきょとんとするシェーヌに、オーリンは苦笑して言葉を継ぐ。
精霊(ア=セク)のなかで、妖魔(ヴァン)なみに鞭を使いこなせるのは、センティスくらいだ」

 ひさしぶりに父が精霊(ア=セク)宮に来訪した折に。シェーヌは、忠実に、同じ台詞を繰り返して見せた。
「鞭に巻かれるのを待っているほど間抜けじゃない、といったら、オーリンに父上に剣の稽古をつけてもらえといわれた」
 と。センティスは顔色をかえ、大またに王宮の武器庫へ向かった。武器庫を管理する匠精(メト)への挨拶もそこそこに、鉄の剣を二本取り出した。剣術の練習用の剣である。王宮前の、露天の広場。シェーヌに剣を一本渡して、センティス自身鉄剣と霊武器(フィギン)の鞭でシェーヌに対する。
 シェーヌは、あわてて、学んだばかりの剣の構えをとった。センティスは冷笑する。
「なんだその構えは。お前は妖魔(ヴァン)か」
「え……?」
「鞭にたいする備えが」センティスの鉄の剣がシェーヌに向かう「ない!」
 剣は、鋭い勢いで、シェーヌに向かう。シェーヌは辛くも刃を受けた。飛びのいて距離を取ろうと、センティスから注意がわずかにそれた瞬間、センティスの鞭が生き物のように伸びて、シェーヌの上身に巻きつき、両腕と胴体もろともに縛り上げてしまう。ぐいと鞭を引かれ、至近の距離から鉄の剣をのど元にあてられる。
「一人相手にそのざまか。先王は、一人の妖魔(ヴァン)に負けたのではない、三人がかりの鞭に絡めとられ、三本の剣で貫かれたのだ。妖魔(ヴァン)どもはすぐには止めを刺さず、瀕死の王を戦場に晒した」
 センティスが激怒している理由を、シェーヌはようやく悟る。オーリンの父王は、三百年前の近接(タゲント)の戦いで、妖魔(ヴァン)に殺されたのだ。「鞭が巻きつくまで待ってるほどまぬけじゃない」 オーリンになんということを言ってしまったのだろう。シェーヌはぼろぼろ泣いた。
 センティスには分からなかったが、霊力(フィグ)の強いシェーヌの感情の乱れは、見えない場所からでも察せるものだったのか。ひゅん、と、遠翔(テレフ)の風が巻いて、オーリンが現れた。
 不審げな表情が言葉を発するより前に、センティスはオーリンの前に片膝を折った。
「シェーヌが無礼を申し上げたそうで。面目ない」
 オーリンは、鞭で縛られて泣いているシェーヌと、膝をついたセンティスを交互に見た。
「いったい、何事だ?」
「シェーヌが……、鞭が巻きつくまで待ってるほど、うんぬんと」
 その後の語を発することさえはばかられて、センティスは深々と頭を下げる。
 オーリンはようやく、何の話の繋がりでこうなったか、想像がついたようだった。
「別に父の話をしていたわけではない」と、とりなす口調になる。「ただ単に、シェーヌは妖魔(ヴァン)との戦いを生き延びよ、という話をしていたのだ。この子には、王位を継いでもらわねばならんのだからな」
 そして、センティスは、王が我が娘の前で腰をかがめるのを、見た。優しい手つきで鞭を解いて、指先で涙をぬぐう。風霊(ウィデク)の涙は、そもそも水ではない。もっと揮発質の、みるまに乾いていくものだ。その短い冷たささえ、味わわせたくないというように、見えた。
 シェーヌは涙をぽろぽろ零しながらオーリンに抱きつく。オーリンが慰める手つきでその髪をなぜた。
 わけもなく胸が苦しくなって、そっと踵を返そうとしたセンティスを、
「センティス。頼みがある」
 オーリンが呼び止めた。
「王宮に立ち寄った折には、シェーヌに剣の稽古をつけてやってくれ。そなたの腕なら誰より確かだ。それから。来る近接(タゲント)の日には、この子の傍から離れず守ってほしい」
「はい」
 短く答えて、その場を歩み去ったセンティスの背を見送って。声が聞こえなくなったのを確かめると、シェーヌはオーリンの顔を仰ぎ見た。
「予言が、『アヤカシの王の族、逝くを見よ』というなら。殺されるのは次女王だって、いいじゃないか!」
 シェーヌの、半泣きの声が掠れる。
「シェーヌ!」
 オーリンの声の厳しさに、シェーヌはびくりと身を硬くした。オーリンは、シェーヌの細い両の肩口を両の掌で包み込む。
「お前は、私の子でも妹でもない、現在の王の一族とは言えない。次女王の呼称は予言において何の力もない。……私はお前を次の女王として育てた。私より前に命を捨てるような真似はせぬと誓え。そうでなければ、私が与えた位には値しない」
 頷くように俯いたシェーヌの頭上に、オーリンの声が降る。
「言葉にして誓え。できぬなら、お前を、次女王の位から降ろす。父とともに出立しろ」
「誓い……ます」
 じっと俯いたシェーヌは、王が優しい目になったことには、気づいていなかった。