異血の子ら
■アスワードの女子高生■
街の物見櫓からのサイレンが、耳に突き刺さる音で鳴り始めた。
イズナは開いたままの窓を振り仰ぐ。庭の巨木と、隣家の白い壁と黒い瓦。その向こうの空に異常は見えないが、サイレンが鳴ったということは、この街の周囲のどこかで、出たのだ。──妖魔が。
「姉さん、ちょっと、見てきちゃだめ?、テレビ」
「夕飯の支度、私が手伝いましょうか」
姉・ナズナが返事をする前に、皺がれた顔に笑みを浮かべたユキヌが声をかけてくれた。といっても料理をしているのはナズナで、ユキヌは盛り付けに手出しする程度なのだが。
「しょうがないわね、おばあちゃまにお礼言いなさい?」
ナズナが柔らかく笑む。
「うん!、おばあちゃま、感謝!」
イズナは、艶やかな茶色の髪が跳ねあがるほど勢いをつけて立ち上がると、街路へと駆けて出た。妖魔出現を告げるサイレンは、遠く、鳴り止まない。それはつまり、街の中心の物見櫓から、妖魔が見えているということ。まだ、獲物と狙った人間を捕らえて飛び去っていないことを意味する。
街頭テレビの前には、すでに人が集っていた。白壁に黒い瓦の町並みに、ガラスの窓はまだ珍しく、民家の窓は小さなものが多い。万々一、妖魔が市街に入り込んでも、窓から家に侵入できないような拵えだ。
街頭テレビだけが、大きめのガラスの窓の中に鎮座している。街路からすぐ見える民家の軒先に小部屋を設け、テレビを設置してあるのだ。
集まる人々は、今風のシャツやブラウス、スカートやズボンといういでたち。怖い物見たさの子供たちが、きゃいきゃいと声を上げている。
外の空は夕焼けが美しいというのに、画面のなかはモノトーン。灰色に雨がふったような映り具合である。白黒カメラは、光が消えきらぬ空を舞う、まがまがしい黒い翼の輪郭を、捉えたかと思うと見失う。妖魔。闇に住む者。夕刻を過ぎると現れ、人を捕らえて、血をすすり肉を喰らう。
テレビ画面の中の翼の影は高く低く飛び、地上の人影を狙っているらしい。だが、テレビ局のカメラマンがその画像を捉えているということは。魔狩のバイクはすでに現場に到着しているはずだ。
「どこ」
目をこらす画面に、細く長い光跡が煌めいた。
「《蒼の長剣》……」
イズナは小さく呟く。
「こちら、ガルトTV」
カメラマンの声が入り始めた。放送カメラとマイクを積んだ車は、厚い鉄で覆われた車体に鉄条網を被せ、狙われた者を収容する保護車を兼ねるのである。
「《蒼の長剣》が現場に到着、一般人の護衛に当たっています」
「やっぱり、蒼……」
妖魔に対抗する霊武器を持つ魔狩には、それぞれ、テレビ放送の際に使われる呼称があった。本名は、発表されていない。
彼の使う剣は、「長剣」といっても、槍に近い長さがある。それをまるで自分の体の延長のように巧みに扱い、地上の人と空中の妖魔を隔て、突き上げる。今日の妖魔は、武器を持たないようだ。鋭い爪と蹴爪で、魔狩の隙を突こうとするが、魔狩は油断なく対抗している。
結局、《蒼の長剣》は、動く鉄塊のような装甲車が到着するまで、妖魔に襲われた市民を守りきった。妖魔は、狙った獲物が収容された装甲車が走り出すのを見ると、ついと高度を上げ、そのまま飛び去った。
翌日、放課後。教室は、揃いの制服で一杯だ。白いシャツに、薄茶のジャケット。茶色のスカートか、ズボン。学生たちの会話で、喧しい。
「昨日の街頭テレビ、見た?」
クラスメートに話しかけられて、ミナセは、つい、
「見た見た!」
陰もなく答えてしまう。
「《蒼の御方》、カッコいいわよねぇ!」
あんまり、こんな話を声高でするものではないのだ。魔狩を異能して嫌う者もいるのだから。
「ねえねえ! イズナって、魔狩志望なんでしょ? やっぱり《蒼の御方》と一緒に戦いたいから?」
クラスメートの無神経な声に怒ったのか、イズナが、ついと教室を出ようとするのに、ミナセは慌てた。
「やめなよ。イズナは、小さいころにご両親を殺されてるだから、妖魔に」
クラスメートを低く制して、イズナの後を追った。追いついて、横顔に話しかける。イズナは同性のミナセから見ても、凛とした目をした美少女である。胸を張って、姿勢よく歩く。
「イズナ! ……今日は剣道部で、二年生の勧誘に行くってよ?」
怒ったのか、と思ったイズナは、案外平気な顔で、
「今日、休む。昼休みの練習のときに、主将には伝えてある」
と、返して来た。
「えっ、勧誘は行かないの? マキサって、カッコいい二年生、知らない? 剣道の授業で、習ってないのが信じられないくらい上手いんだって」
「なんで剣道部に入らなかったの?」
「練習が夕方にかかるとお母さんが心配するんだって。そんな理由だったら、みんなでもう一押し勧誘……」
「やめとけば?」
「なんで? 高校の二年にもなってさぁ、おかあさんが心配するからって」
「いいじゃん。べつに。家族が大事にするのは、いいこと。二年も一年もない……」
「イズナ、どっちの味方……」
言いかけて、ミナセは、はっと黙る。ついさっき、自分で他の子に言ったばかりだ。イズナは、幼いころに、両親を失っているのだ。
「ごめ……」
謝りかけたミナセを、イズナは何事もなかったような笑顔で遮った。
「ごめん、ミナセ。今日は姉さんと待ち合わせてるんだ。明日は、また練習でるからさ」
からりと手を振るイズナを、ミナセは黙って見送った。
「姉さん! ごめん、待った?」
イズナの声に、ナズナは「大丈夫」とかぶりを振って見せる。
「イズナこそ、剣道部いいの?」
ナズナと、妹イズナは、二歳違いの姉妹である。同じ白いシャツに、薄茶のジャケットと茶色のスカートを着て、似た長さの茶色の髪をしているのに、剣道で鍛えたイズナと、運動が苦手なナズナは、人に与える印象がずいぶん違う。イズナが幼いころは、男の子が弱い者いじめをしたのが許せないと、よく取っ組み合いの喧嘩をした。最近は、木刀に手をかけて睨むだけで相手が引き揚げるという噂を、ナズナは耳にしていた。
「いいよ、いいよ、一日くらい」
イズナは、祖母に作ってもらった木刀を手に持ったままである。
トキホの領主エドア=ガルドが、アスワードで初めての学校を開設してから、まだ二十年ほどしか経っていない。トキホのこの高等学校も設立十五年ほど、経済的に本当に苦しい家の子らはまだ学校には来ない。ナズナとイズナは、幼い頃に両親を失い、祖父母と暮らしている。畑の野菜と鳥小屋の卵で食事は賄えても、金銭的には決して豊かではなかった。ともかく学校に通わせてもらっていることを、二人は祖父に感謝していた、……の、だが。
「姉さん、今日頼まれたのは、どこなの?」
「川の橋の向こう」
「旧市街の外かぁ」
ナズナは来春、高等部を卒業する三年生。妹のイズナも、もう高等学校一年だ。なのに、旧市街の外へ出ることは、祖父に厳重に禁止されていた。だから、学校の帰路に旧市街の外へ出るのは、言いつけを破ることになる。鶏の卵を売りに行くのも、祖母の作った細工物を注文先に届けるのも、旧市街の中だけ。それ以外の用事は、老いた祖父か祖母が自分で出向いた。
「でも……、本当に待っているみたいなの」
「こういうときばっかり、頼ってくるんだから」
唇を尖らせるイズナに、ナズナは静かに笑むばかりだ。
「まあ、待っているんじゃあ、しょうがない。行きましょ!」
イズナがことさら明るい声を出す。
「今日は、犬だっけ」
「ええ。子犬らしいわ」
ナズナには、病んだ動物や人間を癒す力があった。それは、アヤカシ……人を食らうのが常態である妖魔と、普段は人を襲わない精霊の二種に大別される……に通じる力で。ナズナを疎んじる者もあった。だが、そういう人間でさえ、大切な動物などが病気になるとナズナを頼ってくる。
橋を渡ると、新市街だ。
人間の街は、伝統的に、妖魔が入りにくいと伝承される土地に作られている。このトキホの街では、旧市街に該当する。
アヤカシ──精霊と妖魔──は、電気を嫌うと言われていた。十数年前に張られた放電柵の内側を、新市街と呼ぶ。
放電柵が妖魔を防ぐと聞かされていても、全面的には信じられないのが人の常。新市街は、今のところまだ、市街とは名ばかり。畑のほうが多い。畑と人家が入り混じる間に、まっすぐ引かれた道を歩いてゆく。
旧市街のほうが人気がある。旧市街に住むことができず新市街に住処を求めた者たちは、半地下の家屋を設けていた。石づくりの家屋の上には雨を脇へ流す用途を兼ねて、簡単な木屋根がかけられている。木屋根の内側にも、乾いた木が積まれている。
妖魔は陽光を嫌い、活動するのは夕刻から夜明けまでの夜間である。ただし、夕暮れ過ぎれば人は出歩かなくなるので、実質、人を襲うのは夕刻が多い。自らの皮翼で空を飛ぶので、体が重くなる雨の夜は人間狩りには出てこない。晴れた夜、新市街の家屋へ襲来された時は、最後の手段として、木屋根に火をかけて朝を待つこともできるよう、用意がされている。
ナズナには、旧市街の外が目新しく、足を急がさねば、と思いながらも、つい、周囲を見回してしまう。思ったほど、焦げた木屋根は見られない。放電柵の効果で妖魔が来ないのか、石の家屋に篭った人間を襲うような面倒なことは、あまりしないのかは、よく判らないけれど。
聞いていた家にたどりつけば、
「この子、なんです」
まだ幼い少女が、子犬をナズナに見せる表情は、ひどくせつなげで。断れるわけもない。
「抱かせてね」
ナズナは、子犬を抱きとった。柔毛に覆われた、小さな体が震えている。
「どう?」
イズナが、横から覗き込む。
「だいぶ、弱っている……、ちょっと集中させて」
イズナが頷いて、少し離れた。手が、木刀の柄にかかっているのは、夕刻が迫っているのが気になるのだろう。
ナズナは、妹を気にする自分を叱るようにかぶりを振ると、子犬を片腕で抱き、片方の手で自分のペンダントを握りしめた。籠のような飾りのなかには、水晶のような2つの珠がある。母に貰ったときには、3つの珠が入っていたのに、両親が帰ってこなかった日に1つが消えて、2つだけが残っている。
それを、そっと、子犬の頭に、首すじに、背中に、足の一本一本に当てていく。子犬の体の奥底にある、幼い命を励ますように、繰り返し、繰り返し、撫ぜてゆく。手のひらは熱を帯び、見えない霧のようなものがナズナを流れだし、子犬の毛皮に吸い込まれてゆくのを、感じる。弱々しい息づかいが、その気を吸って、少し力を増したようだ。
遠く、町役場の方向から、夕刻を告げる柔らかな音色のサイレンが鳴って、ナズナはびくりとする。イズナの視線を感じる。まだか、と。
「もう少し……」
呟きで応えて。自分を守るために、流れ出る力の量を無意識に絞っていた壁を、見つけ出し、弱める。ぶわり、と、ナズナから子犬への、流れが増した。ナズナがくらと眩暈を感じた瞬間、子犬は目を開いた。視線にも、力が戻っているようだ。
「良かった」
少女に、子犬を返す。子犬は頭をあげて、少女の頬を舐めた。
「ありがとう!」
笑みを咲かせた少女に、別れを告げるのもそこそこに。
「そろそろ、行かないと」
駆け出すイズナの後を、ナズナは追った。
力を使いすぎたらしい。息がきれる。
「先行って、バス止めてるから」
イズナが全力で駆け出したが。イズナがバス通りに出る直前で、バスが目の前を通りすぎた。
イズナが振り返り、肩をすくめる。
「ずっと歩ける? 姉さん」
「大丈夫、だと思う」
懸命に歩く速度を保って、ナズナは答えた。バスに乗ることは諦めても、あまりのんびりもしていられない。日が暮れる。妖魔たちの飛ぶ夜が来る。バスは鉄製の要塞のように、妖魔の攻撃から人を守ってくれるのだが。歩くなら、急がなければならない。
陽が地平線に傾いて、新市街と呼ばれる地区をぐるりと囲む放電柵が、チリチリと火花を上げ始めた。妖魔は、電気を嫌い、放電柵の中にはめったに入ってはこないとはいえ。それでも皆無というわけでもない。
「怒られるかしら」
ナズナは、祖父が怒るときの厳しい表情を思い浮かべる。
「もう、高等部なのに」
イズナが、唇を尖らせた。
先を行く妹のイズナは、速い速度で歩くときに木刀が揺れるのが気になるのか、それとも何時でも抜ける用心なのか、片手を鞘に添えている。ときどき鋭い視線を周囲に投げる。未成年ということもあって、まだ木刀しか身につけることを許されていないが、剣道部ではかなり強い。同じくらいの段位の者が、襲って来た妖魔の翼を突き破って、退散させたという話も聞いたことがある。幼いころから「姉さんを守ってあげる」が口ぐせだった。
イズナは、高等部を卒業したら、魔狩の試験を受けたいという。魔狩には霊武器とよばれる武器が要る。妖魔に致命傷を与える力をもつ武器である。霊武器の数は多くないし、そのうちのほとんどのものは持ち主がすでに決まっている。だが、魔狩が死んだり引退したりしたときに、その霊武器を発動できる志望者が求められることがある。いま、持ち主の決まっていない霊武器が存在するのかどうかは、一般に発表はされていない。志望者は、魔狩の詰め所を訪れて。そのまま門前払いをくらうこともあれば、試験を許されることもある、という。
この世界において、超常の力は他人にアヤカシを連想させる。血肉を食う妖魔や、人の霊力を吸い取る精霊を。
妖魔から人々を守る魔狩が、出動のときに目の周囲を覆う半仮面をつけて顔を隠し、「通り名」でのみ呼ばれているのも、魔狩の「力」がアヤカシと合い通じるものがあるからだ。魔狩たちは攻撃方向、ナズナは癒し、異なる力だが、人々との関係が微妙だという点では、合い通じるものがあった。
歩きながら、ぼんやりととりとめもない思考をめぐらせていたナズナは、
「姉さん!」
イズナの鋭い声に、はっとしてイズナの視線の先を追った。
「三体来る」
イズナの声は、張り詰めている。イズナが駆け寄ってきて、ナズナを背にかばった。
妖魔の大きさは人と大差がないが、その背には蝙蝠に似た翼がある。妖魔はめったに群れを成さないと聞くのに、なぜ、三体も。
ナズナは学生鞄から花火を出す。このあたりの住民は外出のときは常に花火を持ち歩く。妖魔が飛来するのを見たら花火を上げる。魔狩を呼ぶためだ。震える手で、打ち具の火花を、花火の導火線に移す。しゅるしゅると導火線が燃える時間さえ、まだるこしい。
「武器を持っている……みたい」
イズナに言われて、花火から妖魔へ視線を転じた。飛来する影は、たしかに三体、うち二体は手から剣を下げて見えた。昔話のなかには、妖魔と精霊の戦の話もあるけれど、獲物を襲うときに武器を使うという話は聞いたことがない。剣をもたない一体が、こちらを指差す。剣の二体がうなずく。指示を聞くかのように。
ひゅーい!
花火がようやく、空へと火線を引いた。これで魔狩も、こちらへ向かってくる、バイクと呼ばれる鉄の馬に乗って。助けてくれる、間に合えば。
イズナとナズナが援軍を呼んだことが理解できているのかどうか。妖魔たちは、少しもひるまずに、近づいてくる。
「あの指示出してる一体。黒く、ない……?」
妖魔といえば黒翼と聞いているのだが。逆光のシルエットから、距離が近づいて細かく見えるようになってくると、指示を出していた妖魔は、まるで精霊のように美麗な服をまとい、翼は鮮やかな緑。
「伏せてて!」
イズナの鋭い声に、ナズナは顔を地面に擦り付けるように体を丸くする。妖魔を見ているのは、怖い。けれど、顔を伏せ、姿勢を低くして、何が起こっているのか判らないのは、もっと怖いと知った。横に立っているイズナの、緊張に強張った足だけが見えている。
翼が空気を切る音が迫る。
「来るなっ!」
イズナの鋭い声とともに、砂利を踏みしめる音、荒い息づかい。ナズナは、不安で、不安で、顔を上げてしまいそうだが、木刀を振るうイズナの邪魔にしかならないだろう。
妹の手の中にある木刀に想いをこめる。妖魔の羽を狙い、突き破るための「突き剣」。刃は先にあり、刀身は頑丈に厚い。妖魔の皮膚は硬く、矢も剣も受け付けない。唯一、薄い羽だけが、人間の作る「普通の」武器で破ることができる。
呼吸もはばかられる数秒、それとも数分。
ぐいっと、首筋を掴むように引き起こされた。目の前に、見知らぬ顔。にやり、と笑う背後に、緑の翼が羽ばたく。
次の瞬間。みぞおちを強く打たれて、ナズナは意識を失っていた。
◆
妖魔を狩る魔狩は、守った相手には感謝されつつも、アヤカシと相通じるその異能ゆえに、普通の人々に普通に受け入れられるとは限らない。しかも、魔狩として活躍できる期間は、決して長くなかった。命を落とすこともある、腕や足を失うこともある。だから、昼の生業は別に持つ者が多い。
昼の仕事を終えた魔狩たちは、夕刻になると、領主エドア=ガルドの内屋敷に隣接した、魔狩の詰め所に集ってくる。
「北西に花火です。新市街内!」
「三体です!」
《蒼の長剣》ことアマルカンは、詰め所にいた《琥珀の双刀》コトハと頷きあうと、素早く仮面をつけて、席を立った。このトキホの街に常駐する魔狩は三人だが、今日詰め所にいるのは二名、敵が三でも、これで対処するしかない。
バイクに飛び乗る。無線が物見櫓からの情報を知らせる。
「二体、武器。一体が指示を出している模様」
「了解」
そもそも放電柵の内側から、妖魔の危機を知らせる花火が上がること自体、例外中の例外である。それが三体、しかも武器。
妖魔は、人を狩り、血肉を食らうが、それなしでは生きていけないわけではない、と言われている。人間が食事をとらねば餓死するのとは違うのだ、と。彼らは「味」の楽しみと、人を狩ること自体の楽しみのために、人を狩る。人の身体を裂き取る感触そのものが彼らの楽しみだから、魔狩が現場に現れる前に剣を抜くことはめったにないし、魔狩が現れれば戦うよりも逃げることのほうが多い。魔狩の剣に挑戦してくるのは、剣の腕に自信ありげな一部の妖魔だけ。しかも、形勢不利と見れば、飛翔して逃げる。人を襲う前に剣を抜いている、というのは、珍しい事態だった。
しかも、妖魔は、通常、単独で狩りをする。それが三体で、一体が指示を出すような統率のとれた行動とは。
畑と半地下の家屋が混ざる「新市街」。砂利を敷いてならした道、不審を脳中に整理しながら、バイクを飛ばす。コトハも、遅れず付いてくる。
見えてきたのは、学生の制服の少女二人。一人は革鞄を盾がわりに振り回しながら、木刀で果敢に妖魔の羽を狙い、なんとかもう一人をかばっている。もう一人は、じっと伏せて動かない。
が。二人の妖魔が、陽動に出たのが、遠目からはよくわかった。木刀の少女と、伏せた少女の間に、一歩分の隙ができた。その瞬間、上空で待機していた武器を持たぬ妖魔が、急降下する。
あっと声をあげる暇もなかった。妖魔は、気を失ったらしき少女を抱えて飛び去る。もう二体も、残った獲物にはなんの未練も見せずに、後に続いた。
アマルカンは息を呑む。妖魔は通常、獲物があばれぬほどの深手を負わせてから運ぶ。いつ目を醒ますかわからない気絶の状態でさらうのは見たことがなかった。
熟練の魔狩の傍らで。
残された少女は、手の届かぬ高みを遠ざかる妖魔を、呆然と見送っていた。
動こうとしない少女を、アマルカンは宥めて帰宅を促した。ようやく歩き出した少女に、コトハと二人で付き添う。夕闇が濃くなりつつあった。押し黙りがちな少女から、なんとか、彼女の名がイズナであること、攫われたのが姉でナズナということを聞き出した。
問いにしか答えなかったイズナが「ただいま」と初めて自分から声を放ったのは、古びた風情のある家。淡灰の漆喰の壁を、人の腰より少し下まで石板で覆い、屋根には黒陶の瓦を乗せた、トキホの伝統的な建て方である。満月の下、家よりも庭の大樹が目についた。しっかりした下枝が四方に伸び、上の枝は天を指して、枝先には葉が豊かに茂っている。その木の大きさで、家は小さく見えた。
アマルカンとコトハが通された客間は、開け放たれた大きな引き戸の正面に、庭の大樹を見せている。家の雰囲気からいって、元は庭が続いていたのだろうと思われる奥まった場所に、野菜をつくる畑があり。畑の脇には鶏小屋でもあるのだろう、こっこと喉を鳴らす声が聞こえる。
半仮面の魔狩達を客間に通したのは、穏やかな風貌の老爺であった。おそらくは少女の祖父であろう。祖母らしき女性が、茶托を敷いた湯のみを置いた。オイルランプが、じりじりとかすかな音を上げている。
「魔狩の御方が、拙宅に何の御用でしょうかな」
老爺の口調に劇高はなかったが、心中の警戒を隠そうとはしていなかった。
イズナが答えようというように、息をひゅッと吸ったが、言葉が見つからないらしく、唇が震えただけだった。アマルカンは、自分が老爺に重い事実を告げることにした。
「ナズナさんが攫われました……、妖魔に」
祖母のほうが息を呑んだ。祖父のほうは、自分を落ち着かせようと強いるように、一つ長く息を吐いた。
「イズナも、その場にいたのですか……?」
「う……」
イズナの肯定の声は、途中で切れて、涙が溢れた。祖母がことりと立ち上がると、イズナの隣にいって、その胸元にイズナを抱き寄せた。声を上げずに泣く少女の背を、祖母の手がゆっくりと撫ぜ続ける。
「老人とお孫さんの4人暮らしかしら。古いけれど良い家なのに、今の暮らし向きはずいぶん質素な感じ」
帰路。コトハがアマルカンに言いだした。
「どうした。犠牲者の暮らし向きのことをうんぬんするなんて、らしくないぞ」
アマルカンに諌められて、コトハは小さく肩をすくめる。
「なんかいつもと違う感じがあって、なんなのかなぁと思って。たとえば、一度も、銀符の捜索の話が出なかったでしょ」
アヤカシは銀を嫌う。トキホでは銀の装身具に香りのついた木片などを入れて鎖を通し、首にかける慣わしがあった。妖魔は銀を嫌い、犠牲者を運び去るときに、銀符についた鎖を切って捨てる。家族が行方不明になったら、同じ香りのものを持って、役所に届け出る。役所は、銀符犬と呼ばれる訓練された犬を放って、銀符を探してくれる。街の周囲あたりで銀符が見つかれば、それは妖魔に攫われた、という傍証になった。
「銀符がない、というのか? 目の前で攫われたのに、いまさら銀符でもなかろう」
「香台の匂いもしなかった。あとね、電気がないの。全部ランプなの」
「老人だと電気嫌い……というか、使い方がわからん、という家も少なくないぜ」
「そうなのかしら」
コトハは考えすぎだろうかと自問するように、首をかしげた。