異血の子ら

■プロローグ-3■

 カイとの婚儀の日から、1ケ月もたたぬある朝である。
「キラム」
 シズサ=ラローゼに、キラムは呼ばれた。一つの身体に、シズサとラローゼ、二つの魂があることにも、ずいぶん慣れた。声ひとつで、どちらが話しているかもわかる。今は、ラローゼだ。
「頼みがあるの。オーリンに、私が人族の妻となったと……、王位継承の位を解いていただきたいと、伝えてほしいの」
 婚姻の日ではなく、なぜ今日なのか、と思わないではなかったのだが。主の伝言を勤めるのは、従者の仕事の一つだから、キラムは素直に頷いた。小精霊(ミア=セク)のキラムには、まだ遠翔(テレフ)の術が使えないので、ラローゼの術が受けられるよう、霊術具(フィガウ)の指輪を指にはめてもらう。
「ごめんね、キラム。予言の成就の報告だったなら、伝えにいくお前も鼻高々なのにね」
 その意味を問い返す暇もなく。キラムを、ラローゼの遠翔(テレフ)の術が押し包んだ。次の瞬間には、精霊(ア=セク)の王宮に、キラムは着いていた。
 巨石を組み、金や宝玉の細工を飾った王座の間で。キラムは、王の前に片膝をついた。オーリンは、地霊(ムデク)の結界のある街で姿を消して以後、連絡を絶っていた妹の従者を、不機嫌そうに見た。
「ラローゼ様より、人族の妻となった、と、王位継承の位を解いていただきたい、との、ご伝言をお預かりして参りました」
 緊張感で、口ごもる。ラローゼの従者となって以後、王宮で過ごす時間が長く、王の前に出ることも珍しくなかったとはいえ。王妹から王への正式の使者となったのは初めてである。
「伝言はそれだけか」
 王の声は、押し殺したように低い。
「は、はい。あ、あの、オイラに、その、ええと」
 狼狽のあまり普段の言葉づかいが出てしまい、ますますうろたえる。
遠翔(テレフ)の、間際に。予言の成就の報告だったなら、伝えにいくお前も鼻高々だろうに、と、おっしゃったのですが、その、意味がよく、わからなくて」
「男児、ということか」
「は?」
 オーリンの言葉の意味が、キラムにはわからない。
小精霊(ミア=セク)とはいえ。そんなことも知らずに使いに立ったのか? 人族に恋をしようが、妻となろうが、王位の継承に差し支えはない。それが問題となるのは、ただ一つ。子を身篭ったときだけだ」
 キラムは、信じきれずに、抗弁する。
「だって……、ラローゼ様がカイと出会ってから、まだ、ほんの……」
精霊(ア=セク)は人族や竜とは違う。胎の内に子の命が生まれた瞬間、男女の別も判るし、母親は子を受け入れぬこともできる」
 そこまで言って、オーリンは黙った。キラムは、なぜラローゼが自分に、子を宿したという慶事を教えてくれなかったのか判らないまま、どうしようもなく、オーリンの次の言葉を待っていた。
「二のアヤカシは一となる。
 異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、
 近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。
 アスワードは人間の世界となる」
 精霊(ア=セク)であれば知らないもののない予言を、オーリンは、氷のように冷ややかな声で詠じて見せた。
精霊(ア=セク)を救う予言のため、娘を産むために、人族の妻となったというなら、王として祝福も感謝も与えよう。予言の重さに比べれば、人族との交渉の失敗など、鳥の羽ほどの重さもない。だが、息子を胎に受け入れたというなら。予言のための恋ではない、恋のための恋ということだ。精霊(ア=セク)王の妹ともあろうものが!」
 王座の間に、突風が舞った。それは風霊(ウィデク)が感情を制しきれないときに、溢れるように吹く風。冷徹、と呼ばれるこの王が、そこまで感情を昂ぶらせるのを、キラムは見たことがなかった。
 オーリンが王座から立ち上がる。橙の髪が、風に応えて、炎のようだ。腕を振り、指先で霊力(フィグ)の篭った紋章を描く。それは王の手元から世界へ広がり、王の宣言をすべての精霊(ア=セク)に告げた。
「王妹ラローゼの、王位継承の位を解く。人と生き、人として死ね」
「人として死ねとは、どういうことです!」
 呪いにも似た宣の紋章に、キラムは思わず叫んだ。
「お前は本当に何も知らされていないのか。精霊(ア=セク)が人族の子を胎に宿せば、この性質が母親に写る。精霊(ア=セク)の不老不死の性は失われ、人族のごとく老いて死ぬ。……だからこそ、王位は継承できなくなると申しておるのだ」

「あの……、オイラ、ラローゼ様のところに戻りたいんですけど」
 キラムは、精霊(ア=セク)王宮の遠翔(テレフ)魔方陣を守る匠精(メト)に言う。匠精(メト)は首を振った。
「無理を言うな。王をあれだけ怒らせて。まだラローゼ様の元へ戻るというのか」
 王宮には、次々に風霊(ウィデク)が訪れる。風霊(ウィデク)遠翔(テレフ)を得手とし、各地の地霊(ムデク)樹霊(ジェク)匠精(メト)から霊力(フィグ)を運んで、王に献じる。余剰の霊力(フィグ)を体に留めるのは、ある種の不快感を伴う。これを他の精霊(ア=セク)に渡すことは、快楽だ。王はすべての精霊(ア=セク)から受け取った霊力(フィグ)を晶に変じて蓄える。これが妖魔(ヴァン)との戦いの際には、王が飛翔の霊術具(フィガウ)や防護の魔方陣を整える力となる。
むろん、それを使いこなすために、王には、霊力(フィグ)を帯びる内なる器の大きさと、それを制しきる制御力が必要とされる。
 オーリンは歴代の王のなかでも強い王とされていた。次代に名指されたラローゼも、兄には及ばぬものの、他王に遜色のない力の持ち主だった。そのラローゼが、継承の座を降りたことは、キラムが思うより、ずっと大きなことだったのである。
遠翔(テレフ)の指輪は持ってるんです。オイラを、飛ばしてくれる方はありませんか」
 キラムが風霊(ウィデク)たちに頼み込んでも、首を横に振られるばかり。一度は、他の風霊(ウィデク)に頼んでいるところに王が通りかかった。
「ラローゼに、帰路の手段は与えられなかったのだろう?」
 キラムは、下を向く。
「ならば、お前も見捨てられた、ということだ。……ラローゼに」
 そうなのかもしれない、と、唇を噛んでしまったキラムは、王が己が妹に見捨てられたと告したことに気づかず、自分の寂寥に気をとられていた。
 ラローゼ自身が、キラムが戻ることを望んでいないのかも。ラローゼほどの力があれば、キラム自身が遠翔(テレフ)の術を使えるように、霊術具(フィガウ)を授けることもできたのだから。
 そう思いはしても、あきらめきれなかった。再び従者として仕えることを拒否されるなら、それでもいい。憶測ではなく、ラローゼ自身の口からそれを聞きたかった。
「風に、乗ろうか」
 キラムは次第に思いつめた。このあたりの上空には、ほとんどつねに西風が吹いている。それに乗れば、世界の半分以上を巡らねばならないが、いつかトキホの近くへ着く。トキホにまっすぐ向かうわけではないから、近くへ行ったら風に乗らず、ときには逆らって飛ばねばならない。それが何を目安にどこからどう飛べばいいのか、知識の足りないキラムには、茫漠としか判らない。
妖魔(ヴァン)だって、1ケ月あれば、世界の半分を飛ぶというけど……」
 迷子になりながらの1ケ月超を想像すると気遅れする。王宮で待てば、もう明日にでも、協力してくれる風霊(ウィデク)が現れるかもしれないのだ。
 踏ん切りがつかないまま、毎日、
「オイラを、飛ばしてくれる方はありませんか」
 頭を下げ続けたキラムの前に、ついに手が差し伸べられた。
遠翔(テレフ)の指輪はあるんだな? それなら、俺でもやれるんじゃないかな」
 いささか自信なげな、男の声。
「センティス殿!」
 キラムは、その顔を知っていた。ラローゼの従兄弟、当然、オーリンの従兄弟でもある。オーリンと気やすく会話できる、数少ない風霊(ウィデク)の一人だ。
「いいんですか!」
「オーリンはカンカンのようだが、まぁ、俺が手を出したからって、首を刎ねられることもあるまい……。そのかわり伝言を頼みたい」
「なんでしょう?」
「わが恋多き従兄弟殿に。──幸福になれ、と」
 恋多き、は、余計ではないか、と、少しむくれるキラムに、センティスは手をのばし、キラムの触角の根元あたりをがしがしとなぜた。
「俺は、王女のころからラローゼを知ってる……、オーリンががんとして妃を娶らないからな。自分が世継ぎを産まなければならないって、変に片肘張って、やたらに恋を繰り返していたんだ、ラローゼは」
 そんなことがあったのだろうか、と、キラムは思う。ラローゼが王女だったのは、三百年も前のことだ。キラムが知っている歳月はその十分の一にも満たない。
 カイの妻となるとき、ラローゼは、シズサの内に入って、一生を賭ける覚悟の恋、というものに打たれたのだと漏らしていた。そんな想いをもったシズサを死なせたくない、という気持ちに重ね、シズサの恋情に感染するかのように、ラローゼはカイとの恋に落ちていった。従者にすぎないキラムは、それをただ見ているしかなかった。

 センティスの術を受けたキラムの身は、トキホに現れた。人に見つかると厄介なので、物影にひそんで夜を待つ。結界の中は、霊力(フィグ)では視ることができない。月の光を頼りに道をたどり、カイとシズサ=ラローゼのいる家へ向かう。庭先の巨木を目印に近づくと。庭に、白い人影があった。
「キラム!」
 ラローゼの声が耳を打つ。シズサ=ラローゼの大きく広げた手の中に、飛び込んだ。
「どうして、戻ったの……」
 そういいながら、柔らかな手がキラムをだきしめ、頬擦りされる。
「オイラ、ラローゼ様の従者だから……」
「それは王に逆らうということなのよ? 電気に囲まれた街に住むのよ? まだこんなに小さいのに……」
「おいらは、ラローゼ様さえいれば、いいです」
 とっさに言葉を返しながら。キラムは、どこかで聞いたような、と思った。それは、「死」から引き戻されたシズサの、愛を誓う言葉。
 シズサ=ラローゼに抱擁をもって迎えられ、地霊(ムデク)ナホトカには防護の霊術具(フィガウ)を与えられて、キラムは再びラローゼの従者となった。


 「外屋敷」への襲撃を、精霊(ア=セク)のものという疑いを晴らせない領主エドア=ガルドは、以後、オーリンの再交渉の申し入れを拒否し、試験的に設置していた放電柵をさらに増強し、都市の全周に新市街を広げるという計画を実行に移した。それに先立って、トキホの海浜部に潮力発電所を建設。信頼できる人間だけを選んで、整備を託した。そのなかには、アマルカンの名もあった。
 カイとシズサ、二人の魔狩(ヴァン=ハンテ)が行方不明となって、領主の手元に残った魔狩(ヴァン=ハンテ)は、《黒の重斧》を使う女傑ザサラ=ガロウと、《蒼の長剣》のアマルカン、そして、領主自身の3人のみとなっていた。エドア=ガルドには、放電柵の実用化を他都市までも広げたいという望みがあって、その望みが適うまでは己の命を惜しんだ。それゆえに、どれほど魔狩(ヴァン=ハンテ)の任が逼迫しても、出撃することは難しい。霊武器(フィギン)を継ぐ者が欲しかったが、エドア=ガルドには、子が無かった。正確には、若い頃に妻子を共に失って以後、何度か愛人がありながら、子を得ることができなかった。魔狩(ヴァン=ハンテ)となって都市を守りたいという志望者を何度か検分したが、霊武器(フィギン)が反応しない。
 トキホへの妖魔(ヴァン)の襲撃は一夕に数回、うち物見櫓が発見し、魔狩(ヴァン=ハンテ)が出撃するのは日一〜二回。実質、動けるのは、ザサラ=ガロウとアマルカンの二人一組のみ。
 魔狩(ヴァン=ハンテ)たちが疲弊し、カイとシズサが去った穴を埋めかねている頃。
 精霊(ア=セク)たちも、また、王位継承者の欠落に……それなりに……苦慮していた。


 ラローゼが王宮を去り、王の後継の位置が空座になって、周囲はオーリンにしきりと后を勧め始めた。それに混じって、王の従兄弟センティスが、己が娘・シェーヌを后候補として王廷に置いてもらえないかと持ちかけたのは、「ダメでもともと」のつもりだった。センティスは、先々代の王の血をひくが、あまり霊力(フィグ)が強くない。対してシェーヌは先祖返り的に霊力(フィグ)が強く、センティスにはその制御を教えきることができなかった。王宮を訪れても、力の制御さえできない幼い娘を、王座の間に連れて入ることはなかったのだが。精霊(ア=セク)の祭りの折りに王と会ったシェーヌが、オーリンに「恋をした」と言い出したのである。
 精霊(ア=セク)は不老だが、夫婦の生年があまり異なると、子を生しにくいと言い習わされていた。だが、生涯添い遂げることを良しとする価値観を持たず、幾度も結婚するため、そのうち1度や2度、年の差が大きくても、通常は気にしない。
 だがオーリンは、シェーヌを娶ることは拒んだ。后としてではなく、王の後継……いわば王の見習いとしてなら、と条件をつけて、彼女を王宮に受け入れた。
 シェーヌは父と告存晶(レペィキスタ)を交わして王宮に入った。家族や、特別に親しい友人同士が分かれるときに、自分が作った告存晶(レペィキスタ)を渡す。作成した精霊(ア=セク)が死ぬと、石も消滅することで、相手にそれを知らせるのである。

 シェーヌが初めて王座の間に入った日。天井の高いその伽藍は、少女のために、人払いされて、シェーヌは王と二人きりになった。この時点で、シェーヌは生後十八年ほど。精霊(ア=セク)の生後十八年は、人間のそれとは異なる。自分の周囲に対する知識は十八年分あるが、物事を深く考える根気や、己の感情を律する力は人間の幼児なみ。精霊(ア=セク)としての霊力(フィグ)も成長の途上にあり、通常であれば触角も隠せぬ幼形である。それが大人の精霊(ア=セク)のように少女の姿をとれたということは、シェーヌの霊力(フィグ)が常より大きいことを示す。
 玉座の間は、常に風が吹いている。オーリンの、赤みのかかった金色の髪が揺れていて、太陽のような色だと、シェーヌは思った。銀艶をもつ淡茶の色の自分の髪が、地味に見えてつまらない気がした。
「手を」
 オーリンの声は静かだった。シェーヌは何を求められているのか判らなかった。
「両手を。……掌を上に向けて」
 オーリンの言葉に、シェーヌはびくりとして、両の掌を差し出した。
「シェーヌは何か壊しましたか?」
 オーリンが怪訝な顔をした。
「何か壊すと、罰として、父上が畳んだ鞭でぱちんとしました」
 オーリンは、小さくかぶりをふると、シェーヌの掌に、鞭ではなくて指先をそっと置いた。
「これから話すことは、お前が次女王の座を引き受けようが引き受けまいが、決して他の者に話してはならない。約束するか?」
 声ではなく、言葉と意味だけが、オーリンの指から流れこんで来た。シェーヌはこくんと頷いた。
「父上にも次の女王になれと言われて来たけれど。ほんとは次の女王ではなく、今の王妃になりたい」
 オーリンは、口端にわずかに笑みを刻んだ。
「私は己も他者も信じない、己の責務しか信じない。……恋に恋するなら、もっとマシな相手を選べ」
 頬を膨らませるシェーヌに、オーリンは、
「幼い日の恋など、すぐに忘れる」
とも言った。
 オーリンは淡々と王の責務を説明した。近接(タゲント)の日の直前以外は、王の責務の主たるものは、調停である。精霊(ア=セク)の間に利害の対立があるときには、当の精霊(ア=セク)が王廷へ来て申し立てるのが通常だが、「貴族」と呼ばれる代理を派遣したり、王自らが赴くこともある。良い調停をするには、これまでの記録を知悉していなければならない。風霊(ウィデク)は風とともに旅を重ねるのが普通だが、王は城に留まり古い記録を学ぶ。王の裁定に逆う者があれば、処刑することもあるし、王の命令で軍を召集し、王廷の霊武器(フィギン)を貸与して討ち取らせることもあるが、どちらもは極めて稀である。
 精霊(ア=セク)には、祭りがある。祭りを取り仕切るのも王の役目である。
 近接(タゲント)の時を占いの能を持つものに命じて調べさせ、霊力(フィグ)をもって空に紋章を浮かべて、他の精霊(ア=セク)たちに知らせることも、他の精霊(ア=セク)たちは、王の祭りの責務の延長だと思っている。
「だが。王の責務のうち、おそらく一番大きいのは、予言の贄だ。このことは、王とその後継以外には知らされない」
『二のアヤカシは一となる。
 異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、
 近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。
 アスワードは人間の世界となる。』
 予言の言葉をオーリンは繰り返し、
「この後に欠落の一行があるのは知っているな?」
と尋ねた。
 欠落があることは、シェーヌも知っていたが、欠落の中身はもちろん判らない。
「『アヤカシの王の族、逝くを見よ』、だ。このことは、王とその後継以外は、知ってはならない。王の責務は、同情されることではないからだ。次の近接(タゲント)の贄は私になるだろう」
 オーリンは周囲を視線で示した。精霊(ア=セク)の城は、匠精(メト)に飾られ、磨きあげられている。
 精霊(ア=セク)は美しいものを好むが、自分で持つ以外に、他の精霊(ア=セク)の前で王に献じることで、自分の力を誇示する。だから精霊(ア=セク)の城には、多くの美しい物が集っている。金や銀、宝玉。霊力(フィグ)を持つ霊術具(フィガウ)であれば、透き通るまで磨いた竜鱗で飾られる。
「私には、子がない。このまま私が斃れれば、王が贄であることを知らない愚か者が王の座をほしがって争いを起こすかもしれない。次の近接(タゲント)は三百年後だ。それまでの三百年、女王たることを楽しむか。それとも、次女王の呼称を拒んで今聞いたことを忘れて生きるか、選べ」
「次女王になったら……、ここに……、王様の近くにいていい?」
「次女王は、王の見習いだ。私が斃れるときまで、私に教えられることは全て教える」
「王様。次女王の呼称を、お受けいたします」
 幼いシェーヌにしては、精一杯、改まって言ったのに。オーリンは穏やかに笑った。
「次女王なのだから、王様と敬称をつける必要はない。ラローゼも、単にオーリンと呼んでいた。オーリンでよい」
「はい。……オーリン」
 王を名で呼ぶ晴れがましさと。全てがオーリンの死を前提としているのだ、という悲しみ。
 唇をへの字にしたシェーヌの指先に、オーリンの指先からふわりと何か、温かいものが流れ込んだ。
 目を瞠ったシェーヌに、オーリンが静かに尋ねた。
「親から力を分けられたことは、ないのか?」
「あ……。力をあげたいけど、シェーヌは使いこなせないから、って言われました」
「大人の風霊(ウィデク)同士は、挨拶として力を与えあう。力を受けるだけで、返すことをしなくてよいのは、風霊(ウィデク)の子供と、王だ。王は他の精霊(ア=セク)から力を受けるから、強い。……次女王は、王の養い子なのだから。王から力を受けるのは次女王だけだ」
 シェーヌは、風から得た力さえ、上手に御することができなくて。王から受けた力は溢れて、髪や肌に小さな光がぱちぱちと爆ぜた。
「次女王には、受けた力を使いこなすことを覚えてもらわねばならぬ。すぐに留めることが難しいなら、……今は、匠精(メト)を預ける。王宮の匠精(メト)に、働きにふさわしいだけの力を量って分けよ。自分の力の流れを制御する訓練になるはずだ」
 このときの判断が、王宮の匠精(メト)の間のオーリンの評判を大きく落とすことに繋がった……「わしらの次女王があんなに王を慕っているのに、振り返りもしない王はキライだ」という形で……のだが。それはまた、ずいぶんと後のこと。
 オーリンは、王廷にしばしば訪れる風霊(ウィデク)のうち、霊力(フィグ)が強く、子供を教える辛抱強さもありそうな者を、次女王の霊力(フィグ)の教師役に任じた。言葉を用いる呪文と、声に出さない呪は、霊力(フィグ)を目的のある"力"に変える。この二つは学ぶ必要があるのだ。呪と呪文を使いこなすころには、自ら術が編めるようになる。術は学ぶ物ではなく、強い霊力(フィグ)が生む直感である。
 シェーヌは、何度か霊力(フィグ)の暴走を起こした。王宮の洞窟の一部を崩しかけ、王自身が強い霊力(フィグ)で介入したあたりで、誰も教師役を引き受けなくなった。以後、王自身が余人を交えず、シェーヌを教えるようになった。


 トキホにおいては、連日連戦の魔狩(ヴァン=ハンテ)の疲弊も無論問題ではあったが、それに次いで、馬の問題があった。緊急の出撃に全力で駆け、妖魔(ヴァン)に怯えずに戦闘に耐え、被害者と魔狩(ヴァン=ハンテ)を結界にまで連れ帰ることができる馬は、多くはなかった。必然的に、貴重な馬と魔狩(ヴァン=ハンテ)の間にはある種の親愛の情があった。そんな状況のなか、妖魔(ヴァン)が馬を襲い、それを助けようと立ち向かったザサラ=ガロウが、反撃にあって、斃れた。
 彼女の霊武器(フィギン)《黒の重斧》は、愛息ネルソン=ガロウが継いだが、そのとき彼はまだ十四歳の少年に過ぎなかった。アマルカンは、母を失ったばかりの少年と、二人一組で戦うことになった。
 油で走る鋼の人工馬と、被害者を保護する鉄の車の構想は、これまでもエドア=ガルドのなかにあったのだが、これを機に、その実現に注力を始めた。
 その頃、アマルカンは、奇妙な話を耳にした。妖魔(ヴァン)が、仲間割れをしている、というのである。それは、救出した被害者からもたらされた。自分を襲った妖魔(ヴァン)に、別の妖魔(ヴァン)が襲いかかり、内輪もめをしている間に、魔狩(ヴァン=ハンテ)が来たので、助かった、というのだ。アマルカンとネルソン=ガロウが駆けつけたときには、妖魔(ヴァン)はいないか、遠く離れた空にかすかに見えるきりで。魔狩(ヴァン=ハンテ)が「内輪もめ」の現場を見る機会はなかなか訪れなかった。
 エドア=ガルドの率いる技術者たちが、鉄馬の開発に成功し。魔狩(ヴァン=ハンテ)二人一組ではなく、鉄馬で現場に向かう魔狩(ヴァン=ハンテ)と、被害者を収容する装甲車と組み合わせになって、魔狩(ヴァン=ハンテ)二人は、実質、一人二組として動けるようになった。
 だから。アマルカンがようやく、妖魔(ヴァン)と戦う者の姿を見る機会を得たとき、彼は一人だったのである。

 現場についたアマルカンは、被害者が一人、気を失って倒れているのを見つけた。怪我はないようだ。
 周囲を見回したアマルカンの目が、空中で戦う二つの影を捕らえた。一つはたしかに、翼はためかせる、妖魔(ヴァン)。だがもう一つの影は。翼は、動かない。背についているわけでもない。人の背丈ほどの鳥型の作り物の上に人が立っているような。
精霊(ア=セク)か? それとも、人、か?」
 空中で、影と影がぶつかる。硬直した翼が大きく傾いた。空に投げ出されたのは、たしかに、人。そこに、風が吹いた。つむじ風に似た突風。空中の人影は、恐れげもなく、剣を片手にもったまま両手を広げ、風に身を任せた。風は意思あるもののように、人影をふわりと降下させる。妖魔(ヴァン)は、降下する敵と、見上げる魔狩(ヴァン=ハンテ)を交互に見ると、くるりと背を向けた。大きく羽ばたきながら、遠ざかって行く。
 アマルカンは、降下する影に駆け寄った。近づくと、夕の明かりの中でも、顔だちが見えた。妖魔(ヴァン)と戦っていたのは、カイ。舞う風の中からカイを地上に助け降ろすのは、シズサ。そして、人の背丈ほどの作りものの翼を、大事そうに回収した小精霊(ミア=セク)が駆けてきた。
「ひさしぶりだな」
 カイは、笑った。
「ひさしぶりってお前。六年も行方をくらまして。どこで何をしていた……」
「何って、子育て、かな」
 「どこ」で「なに」の、後者にだけカイは答えてみせた。
「シズサ殿の子、だよな?」
「かわいいぞ」
 精霊(ア=セク)に憑かれた女が生んだ子か。言外の意味に気づいた風を見せず、カイは飄々と答え。
 初々しい恋人同士のように妻と手を繋いだ。小精霊(ミア=セク)がそこに加わり、次の瞬間、彼らの姿は消え失せていた。
 遠翔(テレフ)精霊(ア=セク)の力だ。シズサにはそんな能力はなかった。
 エド=ガルド擁する技師たちがいくら頑張って開発したところで、物理的手段であるバイクが、遠翔(テレフ)にかなうわけがない。アマルカンは苦笑した。後続の、車の音が近づいていた。


 飛翔の霊術具(フィガウ)を繰る魔狩(ヴァン=ハンテ)の噂は、妖魔(ヴァン)の城の異血(ディプラド)の王子、サガのもとにも届いていた。
 サガは、ロインの前に立った。
 ロインは、人の形をとったサガの、何倍もの大きさをもつ鮮緑の竜。霊獣・翡翠竜の、最後の純血。そして、彼の母でもある。
 サガは、母の宝玉のように艶やかな鱗の一つに手をつくと、その手に念を集中した。こうしてロインの気を受ければ、霊力(フィグ)の消耗が少ない。
 ロインは、長い首をめぐらして、自分の背に手をつく息子を見る。何をするつもりか、と、問うように。
 サガの姿がにじんだ。次の瞬間、そこには人の姿はなく、新緑の色をした若い竜がロインに寄り添っていた。
「どうなさいました、サガ」
 人の姿のときには、サガと、ロインの間に、言葉は通じない。けれど、サガは竜となったときは、竜の言葉……音というより念波のようなもの……を受け、また、返すことができるのだった。
「また、戦ですか?」
 ロインは気づかわしげにサガに尋ねる。初陣となる戦では、サガは竜の姿をとって軍功を上げようとして瀕死の傷を負い、精霊(ア=セク)の一人から思いがけない癒しの術を与えられてようやく生き延びた。電気王エドア=ガルドの屋敷を急襲したときは、竜の姿で王女リュアを騎せて戻って来た。サガが竜の姿を取るときは大抵、戦だ。
「いえ。母上のお知恵が借りたいのです」
 ロインは、妖魔(ヴァン)の王の一族となった息子に敬語。サガは、賢者でもある竜の母に敬語。そういう母子である。
「ラローゼめ、一時の感情で、人に憑き、こともあろうにカイとかいう魔狩(ヴァン=ハンテ)との間に子まで生したと聞きます。女に憑いて子を得れば、もう精霊(ア=セク)に戻れないというのは本当ですか」
 サガは、他の妖魔(ヴァン)から聞いた話を、母の前で繰り返した。
「そう聞きます。人よりは長く生きるかもしれませんが、精霊(ア=セク)の寿命は望むべくもないでしょう。ラローゼとて、それは覚悟の上なのではありませんか?」
「ラローゼには借りがあります。人の姿の中から、引き出したいのですが、方法はないものでしょうか?」
 ロインは、真意を問うように、竜となっているサガの顔を覗きこんだ。
「相手は、カイ、とおっしゃいましたか……」
 サガは、ロインの語尾に溜息を聞き取った。
「ご存知、なのですか?」
「会ったことはありません。けれど赤竜の剣を継いだという噂を聞いたことがあります」
 ロインはそれきり黙った。その沈黙に、なにか意図的なものを感じて、サガは、
「母上?」
 後を、促した。
妖魔(ヴァン)は昔、精霊(ア=セク)だったという話をご存知でしょう?」
「はい……」
「最初の妖魔(ヴァン)は、そう強い精霊(ア=セク)ではなかったと伝えられています」
 ためらいがちに、ロインはいう。
「最初の妖魔(ヴァン)は、人族の精気をとるだけではなく、人族の血肉を喰らうことで、より強い力を得ることに気づいた。それが今の力ある妖魔(ヴァン)の始まりです。そして赤竜の剣は、喰らった血肉から得た精気、つまり人族から得たものと、精霊(ア=セク)たる部分を分け放つ刃。その力によって、妖魔(ヴァン)のみを殺し、精霊(ア=セク)を殺さない、特殊な霊武器(フィギン)だといいます。……それを使ってラローゼが憑いた女を斬り殺せば、ラローゼと女の絆を断つことができましょう。けれど、ラローゼがそれを喜ぶでしょうか?」
「すぐには理由が判らないでしょう。なに、百年も経てば、それが最良の手段であったことに気づくはずです」
 ことさらにきっぱりと断言するサガに、ロインは明らかにため息をついた。
「……もう一つ。人族は出口のない壷のようなものだと言い慣わします。霊力(フィグ)をうちに湛えながら、術として表出させないのです。その人族から霊力(フィグ)が流れ出す口となり、力とするのが霊武器(フィギン)。人族のために鍛えられた霊武器(フィギン)を、妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)が振るえば、霊力(フィグ)は奔流のごとく失われると言い伝えられています。……無事ではいられますまい」
 ロインは何度かためらいながら、ようようそこまで語り終えた。サガの望みを叶えたい、けれどサガの身を危険にさらしたくはない、それがわかるから、
「母上」
 サガは晴れ晴れと言い放つ。
「私は妖魔(ヴァン)であって、妖魔(ヴァン)のみではない存在。やってみましょう」
「それでも無傷ではいられますまい」
「かまいません。あの借りを返すには、釣りあう痛みで済むでしょう」
 喜色を顔に浮かべたまま、人の姿に戻るサガを、ロインはただじっと見守った。

 

 妖魔(ヴァン)を恐れる人間たちは、街の周囲に田畑を拓いている。最近は、人間たちはバスと呼ばれる油で走る車両を使い、農地に人を配置する。夕刻、日が落ちる前にまたその車で人を集めてまわる。厚い鉄の箱に小さな窓をつけたようなその車両は、いわば走る鉄の盾。妖魔(ヴァン)を防ぐと信じられていた。
 だが。
 午後をまわって暗雲が湧いた日。迎えのバスは、街を早めに出立したが、それでも降りる闇の速さに追いつかれてしまった。暗くなった空、蝙蝠の形の翼が、いくつもいくつも、バスの上に舞い降りる。
「緊急、緊急、こちら……」
 無線の音に重なってバスのガラス窓が(ア=セヴ)しく鳴動した。
 バスは上にしがみついた妖魔(ヴァン)を振り落とそうと蛇行するが、落ちる気配も飛び去る影もなく、ただ鳴動していた窓ガラスが砕け散る。バスの中へと飛び込んだ黒い影に乗客たちは頭をかかえ悲鳴を上げた。一度入り込まれてしまえば、バスは鉄の盾ではなく、逃げるもままならぬ鉄の密室である。妖魔(ヴァン)が他人を犠牲に選んでくれますように。醜くはあるが本音の願いをこめて体を小さく縮める。
 その上空に。バスの中に入りこもうとしない、もう一つの影があった。妖魔(ヴァン)たちがそろって漆黒の翼を持つなかで、一人、鮮緑の翼を持つ者、サガ=エ=ロインである。
 バスの行く手、小さく砂埃が、つむじ風の輪郭を見せて舞いあがった。それが前兆といえば前兆だった。次の瞬間には、そこに男と女、それに小精霊(ミア=セク)が一匹。
「ラローゼ……」
 サガは、下界を見下ろしながら、利き腕の指で印を結び、もう片方の腕をすっとなぜる。片腕のみが、竜のそれに姿を変えた。利き腕は、人の形のまま、太刀を抜く。
 精霊(ア=セク)であり人の女である彼女、シズサ=ラローゼは、霊術具(フィガウ)も持たずに、呪術の構えをとる。
 バスが急停止したのは、中からの操作かラローゼの術か。男……カイが腰の刀の鞘を払い、バスへと踊りこみ、シズサ=ラローゼは妖魔(ヴァン)の目をくらませようと光魔法を発する。その連携戦が、カイとシズサ、互いの信頼の上に成り立っていることは、サガのいる上空からでも見てとれた。
 カイがバスのなかに妖魔(ヴァン)がいないことをいぶかしんでバスから出てくる。バスを襲った妖魔(ヴァン)の群れはサガの霊術が生んだ幻。カイがバスから降りる瞬間こそがサガが狙った好機だった。
「カイ! 覚悟!」
 サガは急降下して、カイに太刀を浴びせる。カイは反射的に頭上に刃を上げて防いだ。サガは、カイの刃を竜の爪で引き下ろし、胸元を太刀で払う。ざくと肉を断つ手ごたえ。カイの力が弱まる。サガは、返した太刀を大きく振るった、あやまたず、カイの首すじへと。
「カイ!」
 シズサ=ラローゼが悲鳴を上げたのと、太刀がカイの頚動脈を裂き、血飛沫が上がったのが同時だった。
「ラローゼ……」
 サガは呻き、斃れ伏した男の手から、霊剣をとる。妖魔(ヴァン)を殺し、精霊(ア=セク)を憑いた人から切り取るという剣。母竜ロインに、サガが使えば無事では済むまいと警告された剣を。
「くっ」
 柄を握り、構えるだけで、サガの生命を支える霊力(フィグ)が、体内で急流となって、霊剣に流れる。霊力(フィグ)を吸った霊剣は、あざ笑うようにバチバチと光色の火花を散らす。手が痺れる。目が霞む。片腕の竜の変容が解けた。
「ラローゼ!」
 シズサ=ラローゼの影を追って、サガは翼を畳み、数歩歩いた。
 そのときだ。横あいから小さな影が視界をよぎったかと思うと、しびれた手から霊剣が消えた。
「なにをっ!」
 目で追えば、いつもラローゼの近くにまとわりついている小精霊(ミア=セク)。横合いから、半ば体当たりで、霊剣を奪ったのだ。
「待てッ!」
 自分の剣を抜きなおす。小精霊(ミア=セク)の、肩を掴み、小さな背へ剣を尽き立てようと、手を伸ばす。
「キラム! 逃げて!……遠くへ!」
 女の声、そして瞬間、彼の視界をふさいだのは、キラムを庇った女の影だった。そのとき、伸ばしたサガの手が、シズサの髪に絡まなければ、彼女は遠翔(テレフ)の術で逃れたのかもしれないが。
 シズサとラローゼの絆を解くための霊剣ではなく、精霊(ア=セク)と戦うために鍛えられた妖魔(ヴァン)の剣が、シズサ=ラローゼの背に深く突き刺さった。
「カ、イ……」
 女の唇が動いた。血飛沫を吹いて、身体が倒れる。七年前にすでに死に精霊(ア=セク)ラローゼの憑依によって生かされていた肉体は、サガが呆然と見守るうちに、みるみるミイラに似たものへ変貌していった。
「ラロー……ゼ……」
 ただ名を呼んだだけで、霊剣に霊力(フィグ)を奪われて弱った肉体は咳こみ、サガはわずかに血を吐いた。
 バスの窓からは怖れきった人の目がいくつも覗いている。おそらく魔狩(ヴァン=ハンテ)の援軍もくるだろう。
 サガは、倒れたカイの骸にいざりよると、その肉を裂いた。血を滴らせて、口へ運ぶ。噛み締め飲み込めば、力が蘇るのを感じる。霊力(フィグ)に優れる魔狩(ヴァン=ハンテ)の血肉は、常人のそれより霊力(フィグ)を高めるという噂を思い出す。
妖魔(ヴァン)なのだ……」
 なぜかそんな語が、サガの脳裏をよぎる。
「私は、翡翠竜の子。しかし、やはり、まぎれもなく妖魔(ヴァン)なのだ……」
 サガが飛翔するにたる体力を取り戻したとき、すでに目の見える範囲に小精霊(ミア=セク)の姿はなく。駆けつける魔狩(ヴァン=ハンテ)の、バイクの音が近づいていた。
「今日は、これまでか……」
 サガは呟いて、鮮緑の翼を羽ばたいた。
 サガ=エ=ロイン。翡翠竜の血を継ぐ者にして、妖魔(ヴァン)の子──。

 妖魔(ヴァン)が嫌うはずのバスが、襲われた現場。駆けつけたアマルカンは、喰い荒らされた無残な骸を見た。赤竜の霊剣の鞘を腰に佩いている。鞘だけ。その遺体の手に、刀身はなかった。
「カ、イ、なのか?」
 アマルカンは犠牲者の傍ら、血で濡れた地面に膝をつくと、妖魔(ヴァン)に裂き食われた遺体をそっと抱き起こし、確かに、旧友の容貌を認めた。
 遠翔(テレフ)の術を駆使し、早く現場につくということは、それだけ妖魔(ヴァン)の犠牲者を減らすことに直結する。その一方で、他の魔狩(ヴァン=ハンテ)の援護なしで戦うということでもあった。
 なぜ、言葉を交わすことができたあの機会に、魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所へ戻れと言わなかったのか。
 アマルカンは、半眼に開いた瞼を掌でそっと閉じさせ、遺体を地面に横たえた。
 剣を探さなければならなかった。霊武器(フィギン)が破壊されるとき、鞘も消滅する。鞘がいま、拾いあげた彼の手にしっかりと握り締めることができる実体を残しているのだから、抜き身の剣もどこかにあるはず。カイを失ったことがどれほど悲しくても、妖魔(ヴァン)を撃つ貴重な武器を回収しないわけにはいかなかった。
 だが、龍紋を打ち出した名だたる刀は、どうしても見つけることができなかった。代りに見つけたのは、ミイラのように干からびかけた、遺体。しかし、女ものの服装はまだ新しく、ミイラになるほど放置された死骸には不似合いだった。
 骨ばった細い手が目に入る。そして、その指に光る、貴石を刻んだような指輪に見覚えがあった。カイの手に刀がないのを確認したときに。
 アマルカンは崩れそうな骨からそっと指輪を抜きとった。ほの暗い空の光に反射させて、細く彫られた文字を読む。
「シズサ=ラローゼ、二にして一、ともに我が愛する者なり。カイより」
 アマルカンは、大股でカイの元へ戻ると、その指からも指輪を抜いた。
「カイ、われら二人が共に愛し、共に傍らにあると誓う者。シズサ、ラローゼより」
 人々を乗せたバスは、町へと戻る護衛としてアマルカンが伴えるものと期待している。おびえた一般市民に、魔狩(ヴァン=ハンテ)の遺体を同乗させてくれと言えるものではなく、バイクにはもとより乗せる余裕はなかった。こんなとき、妖魔(ヴァン)の犠牲者は、翌日なりの日の高い頃にその担当の者が集めにくるのが、この地の決めごとだ。霊力(フィグ)が高いとされる魔狩(ヴァン=ハンテ)の骸は、妖魔(ヴァン)に漁られるのかもしれないし、そうでなくても狼が寄ってくるだろう。



 ふと気づくとオーリンの姿がなくて、シェーヌは不安になった。
「オーリン?」
 オーリンが、シェーヌに黙ってどこかへ行ってしまったことはなかった。王として依頼された調停ならシェーヌを連れて行ってくれたし、それ以外は王宮のどこかにいた。
 シェーヌは、そっと霊力(フィグ)の「網」を広げてオーリンを探す。王宮のどこにも、気配がない。
「オーリン……」
 ちょうど、遠翔(テレフ)した相手の行き先を探す術を、習ったばかりだった。
「もしかしたら! 探すのを待っているのかもしれない」
 そんな遊びのようなことをオーリンがした例は、一度もなかったのだけれど。
「なんにだって、いっぺんめは、あるもの」
 シェーヌは、霊力(フィグ)をこらし、術の糸を伸ばす。オーリンの遠翔(テレフ)の痕跡は、かなり遠く、かすかだけれど、とりたてて隠した形跡もない。
「ほらね。やっぱり追って行っていいんだ」
 一人決めして、シェーヌは飛んだ。
 
 ぽんと胸を突かれるような圧迫感があって、景色が夜に変わり。──シェーヌは後悔した。
 オーリンは確かにいた。だが、シェーヌを待っていた風は微塵もなかった。オーリンは精霊(ア=セク)王であることを隠すかのように、深くマントを着込み、月の光に照らされていた。冷たく、硬い表情。その横顔にあるのは、押し殺された怒りにも、哀しみにも見えた。何よりも異様なのは、オーリンの手の中の人族の骨。髑髏、だった。オーリンは、しばしそれに視線を落とした。夜の風がさやさやと風霊(ウィデク)の王に戯れかかり、月光に深みを増した橙金色の髪が艶めいて揺れていた。シェーヌが来たのに気づかぬはずもないのに、振り向きもしない。
 その足元には、女の衣服が散らばっていた。まだ新しく、白骨と化した死体の持ち物だとしたら異様だった。
 少し離れたところでは、狼が別の死骸にたかっていた。血の匂い。それにまじる微かな霊力(フィグ)の匂い。死骸は人族、それもかなり強力な魔狩(ヴァン=ハンテ)かなにかだろう。狼たちは、女の服の近くの骨には一顧だにせず、その新鮮な肉を奪い合うように、貪っていた。
 オーリンが、微かに顔の向きをかえて、シェーヌを視界にとらえた。
「狼たちは、精霊(ア=セク)には何もしない。血肉にならんからな」
 オーリンの声は、シェーヌに話しかけるようにも、独り言のようにも、聞こえた。
「これ、は?」
 オーリンの手にした髑髏に視線を吸い寄せられて、シェーヌは尋ねる。声が、震えた。
「ラローゼだ。いや、ラローゼが憑いた人族の女だな。」
 風霊(ウィデク)が死んでも、死体は残らない。幼いシェーヌにも、それは解っていた。
 つ、と、視線を下げて。シェーヌは、オーリンの腰帯に結ばれた告存晶(レペィキスタ)の篭が一つ、空になっているの気がついた。ラローゼの告存晶(レペィキスタ)が消えて、オーリンは妹の死を悟ったのだろう。オーリンは、シェーヌの視線に気づいたのか否か、手にした髑髏を関心をなくしたように女の服の上に無造作に置いた。大股にシェーヌに歩み寄り、シェーヌをマントの中にくるみこんだ。包み込むように、視界からこの場の光景を隠すように。そしてそのまま、王宮へ遠翔(テレフ)した。




 サガは、彼なりの判断基準において「救おう」としたラローゼを誤殺した記憶を、心の底に秘して、王子の立場に戻る。
 アマルカンは、本来であれば詰め所に納めるべきカイの霊武器(フィギン)の鞘を、刀身が見つかるまでと約して、出動の際には身につけ続ける。
 シェーヌは、王妹よりも良い王位継承者になりたいという望みを胸に畳んで、霊力(フィグ)の研鑽に励むことになる。