異血の子ら

■プロローグ-2■

 この世界、アスワードにおいて、人は、人間の血肉を喰らう妖魔(ヴァン)の来襲を避けるため、古来妖魔(ヴァン)が入りにくいと言われる地に固まって住むのが普通である。
 だが、電気王と俗称されるエドア=ガルドは、トキホ領主として持つ旧市街の内屋敷の他に、あえて街の外にも屋敷を構えていた。トキホの街は、ほとんどの建造物は空を飛ぶ妖魔(ヴァン)を恐れるように地面に張り付く低い形をしていて、その間から点々と物見櫓が顔を覗かせている。だが、領主の住まう内屋敷だけが物見だけではない、中に部屋を擁するに足る大きさの櫓を設けている。
 この外屋敷は、内屋敷よりさらに特異だった。中庭を挟んだ二つの建物双方が3階分の高さを持っていて、トキホ旧来の建造物とは似つかない。二つの建物は、重々しい飾りを施した回廊で結ばれている。建物と庭の周囲には、一つの屋敷だけを守る石壁を贅沢に巡らせていた。石壁の上には放電火花を散らす鉄条網が張られ、石壁の外側には数多くの風車、根元には風力発電装置が埋め込まれている。風力発電と高圧電流による火花の組み合わせは、アスワードにおける最新技術だ。
 はかばかしく進まない交渉の合間。精霊(ア=セク)ラローゼは、おつきの小精霊(ミア=セク)キラムとともに、魔狩(ヴァン=ハンテ)のカイに屋敷の中を案内されていた。小精霊(ミア=セク)は、自分の意思で姿を変えることができない、いわば精霊(ア=セク)の雛である。鉤爪や触角をもち、背丈は大人の半分ほど。キラムは、ひょこひょこと剽軽な動きでラローゼに従うが、本人はいたってまじめに従者を務めているつもりでいる。
(ア=セヴ)は、電気が苦手と聞いたのですが。ラローゼ殿は大丈夫なのですか?」
 カイの素朴な疑問に、ラローゼは苦笑したいと思ったが、精霊(ア=セク)王オーリンはそれを許さなかった。
「そうですね、電気は不快ではあります。けれど、ある程度以上の力をもつ精霊(ア=セク)であれば、耐えるのは造作もないことです」
 自分の顔が、穏やかに笑顔をつくって見せるのを、ラローゼは感じる。ラローゼの従者で立ち居振る舞いも熟知しているキラムでさえ、ラローゼが操られていることに気づかないようだ。まして、人間は、自分たちの交渉相手が精霊(ア=セク)王の妹、西風のラローゼであると信じこんでいるのだろう。
 しかし実際に言葉を発しているのは、精霊(ア=セク)王オーリン自身であった。オーリンが、妹であるラローゼを呪縛して特使としたのは、
──電気だらけのこの屋敷に出向くのが嫌だったんじゃないかしら。
 ラローゼは内心で決め付ける。つまり、力ある精霊(ア=セク)であろうが、電気の不快は変わらないのである。
「そうですか……。では精霊(ア=セク)王がこの交渉を思いたたれたのは、力弱い精霊(ア=セク)のためなのですね?」
 カイは素直に感心している。本当にそうであれば、キラムに霊力(フィグ)でも分けてやってくれればいいのに、と、ラローゼは内心で溜息をつく。キラムはまだ蹴爪や触覚がある幼体で、電気への抵抗力も弱い。それでもけなげに従者の任を果たしているのが痛々しい。

「たしかに、この交渉が成れば、多くの精霊(ア=セク)に恩恵がもたらされましょう」
 自分への賛辞にいけしゃあしゃあと答えて、オーリンはラローゼの唇から言葉を返す。オーリンが推す《聖域》案は、たしかに、多くの精霊(ア=セク)にとって、快適に過ごす場を確保する手段である。しかし、《聖域》の外の地に憑いた地霊(ムデク)たちにとっては。
 地霊(ムデク)は、火山や地層の力を自らの力とし、世界を愛し、星の震える音を聞くとも言う。地霊(ムデク)が領土を変えることは不可能ではないが、大きな苦痛なのだ。オーリンの案は、領地を変えるか、電気に耐えるかの二者択一となる。
 しかも、ラローゼから見て、オーリンは、地霊(ムデク)だけではなく、人族にも誠実とは思えなかった。提案した結界がオーリンの死後には消滅することを、人族たちに伝えていないのだ。もっとも、現状のところ、次の王はラローゼとなるはずなので、ラローゼが女王となってあらためて結界の負担を背負いこめば、この分の不誠実は帳消しになるのだが。
「カイ。ラローゼ様のご案内?」
 明るい声がして、別の魔狩(ヴァン=ハンテ)が追いついてきたのは、ラローゼたちが、回廊にいるときだった。
 半仮面を帯びたこの女性が、シズサという名で、カイの仕事上の同僚であり許婚であると、最初に会ったときに紹介されている。
「ああ。会議の合間に、気晴らしに……」
 シズサに向けられたカイの笑顔には、気のはる任務の最中に愛する者に会えたほっとした気持ちが溢れていて。彼女の表情からも、ほのかな影が消えうせた。
 シズサが精霊(ア=セク)独特の美しさにほのかな嫉妬を感じながらもそれを表すまいと心づかう、精神の影も光も、ラローゼにはかすかな霊力(フィグ)の香りとして、すべて感じ取れてしまうのだが。人間たちは無論そんなことは知らない。
「交渉は、難航ですか?」
 シズサの問に、ラローゼもオーリンも、ともに頷かざるをえない。エドア=ガルドは、はっきり口にはしないものの、精霊(ア=セク)王の霊術具(フィガウ)などなくても、電気と魔狩(ヴァン=ハンテ)とで、自分も技師も守っていけると考えているらしい。この屋敷を精霊(ア=セク)の結界で守るようになれば、技師たちの安全をより確実にできるのに。かといって、精霊(ア=セク)にわが身を任せれば、寝首をかかれると思い込んでいるような強迫観念の色はなく、ただ、のらりくらりと精霊(ア=セク)の言をかわしているのである。
 そのとき。
 漆黒の闇が、屋敷を包んだ。外界の昼光も、石造りの回廊に昼なお灯されていた電灯も、光は一瞬に失せた。
「どうした!」
 不審の声とともに、各部屋に用意されているランプに火が入れられていく。強力な術の匂い、しかし、闇そのものを目的としたものではない。と意識したとたん、ラローゼは身体が軽いのに気づく。ラローゼの身体と言葉の自由を奪っていたオーリンの呪縛も、屋敷のそこここに存在し不快な圧力のごとく感じられた電気の気配も、揮発するように失せている。
「断たれている」
 外界と、断たれている。日の光も、霊力(フィグ)の術も、外から流れてくる電気も隔絶され、風も封じられてそよとも動かない。
「来襲だ!」
 屋敷のあちこちから、ガラス窓の割れる音、悲鳴が上がる。
「シズサ」
「はい」
 カイが腰にたずさえた霊剣を抜き放つ。シズサは、霊力(フィグ)の匂いの腕輪をはずして、術の構えをとった。闇の中、二つの霊武器(フィギン)はじわりと光を帯びている。二人がかりで、客人であるラローゼの護りに当たる気なのだろう。
「エドア=ガルド殿はっ」
 ラローゼから見れば、妖魔(ヴァン)が第一に狙うとしたら、電気の発明者であり、現在、多くの技師を率いて電気事業の拡大にあたる、屋敷の主その人であるように思われた。魔狩(ヴァン=ハンテ)たちは、動揺の色を見せない。ではもっと強力な魔狩(ヴァン=ハンテ)が彼の人を護っているということか。
 だが、数秒の後。
「はっ!」
 たしかに聞き覚えのあるエドア=ガルドの声が、庭のほうから聞こえた。
「いったん武器を収めてください、お二人と、飛びます」
 風霊(ウィデク)は、ある場所から別の場所へ移る「遠翔(テレフ)」を、霊武器(フィギン)なしに使える唯一の種族である。ラローゼは、この来襲に際して人の側に立つと、言外に宣言する。
「はい」
「お願いします」
 カイは剣を鞘に収め、シズサは腕輪を深くはめて、手を空ける。
 渡り廊下は、三階の高さ。落ちれば命にかかわる。が。カイとシズサは、信頼しきった様子で、手をラローゼに預けた。小精霊(ミア=セク)のキラムも加わってきて、四人は手と手を結んで、輪をつくる。
 びょう、と、小さなつむじ風に似たものが四人を包む。次の瞬間、彼らは庭の地面に立っていた。
「客人を護れと言ったはずだ!」
 エドア=ガルドは開口一番、言い放つ。ラローゼは目をみはった。エドア=ガルドは、きららかに光を帯びた刃で、妖魔(ヴァン)の王女として名高いリュア=エ=レネルと互角に刃を交えていたのだ。
魔狩(ヴァン=ハンテ)……」
 電気の発明者にして、魔狩(ヴァン=ハンテ)精霊(ア=セク)王の守護結界を歓迎しないわけだ、エドア=ガルドが持つ霊武器(フィギン)は、精霊(ア=セク)の力と相殺しあう。
「小者を送り込んでも戻らないわけね」
 リュアの言葉で、ラローゼは悟る。妖魔(ヴァン)もまた電気を嫌う。エドア=ガルドを無きものにするため、リュアが手下の妖魔(ヴァン)を送り込んだことがあったのだろう。
「ラローゼ……」
 声が降り、ラローゼはもう一人の妖魔(ヴァン)の存在を知る。隔絶の術は、空間を切るナイフではなく、むしろ黒い霧である。そのなかにいると、ごく近くにくるまで互いを認識することは難しい。霊武器(フィギン)やラローゼの身体が淡い光を放っていてさえ。
「サガっ、こっちは私が仕留めてあげるから、手はずどおりに!」
 居丈高にリュアが命じる。魔狩(ヴァン=ハンテ)は戦うには歯ごたえのある相手だが、妖魔族(ヴァン=フィア)の餌として一級で、その血肉を喰らうことは力を増すことに直結するといわれていた。もっとも、リュアの場合、魔狩(ヴァン=ハンテ)と直接戦うのが楽しくてしょうがないようにも見えるのだが……。
 リュアの声に答えて、ラローゼの目前に飛び降りてきた者を見て、ラローゼは息を呑む。ラローゼには判った。目の前にいるのが、純血の妖魔(ヴァン)ではないことを。竜の匂い、ではこれが、噂に聞いた異血(ディプラド)の王子。ラローゼがかつて救った竜が、人の姿をとった者。屋敷の一番高い屋根に立ち、《遮断》の術を担当していたのだろう。その程度を落下に任せたところで、妖魔(ヴァン)と竜の血をひいた体は、びくともしないようだ。
「お前は……」
 魔狩(ヴァン=ハンテ)霊武器(フィギン)の光が、サガの整った容貌を照らし出す。ラローゼの震える声に、サガはにやりと笑った。
「閉じよ!」
 サガの霊武器(フィギン)が小さく輪を描く。ラローゼの身に、何かがまとわりついた。目に見えぬ縄、あるいは鎖、オーリンの呪縛とは異なりながら、ラローゼの自由を奪う。
「切れよ!」
 少女のような凛とした声が響き、人影がラローゼとサガの間に割り込む。シズサだった。握った腕輪を刃のように打ち振って、ラローゼを縛る見えない鎖を切る。
「邪魔だ!」
 サガは、じれたように、霊武器(フィギン)を振るった。シズサはとっさに腕輪で術を編もうとしたが、刃の勢いはあっけなく腕輪を砕いた。サガの太刀が、シズサに向かう。
「シズサ!」
 カイが霊剣を構えて飛び掛り、シズサの身をかばおうとしたが間に合わず。サガの刃は、シズサの肩口から胸へ──。
「シズサ殿!」
 ズサリ、と湿った音がして、闇の中に血しぶきが舞った。ラローゼは倒れたシズサを抱き起こす。カイは、サガを相手に切り結ぶ。
「シズサ殿……」
 肉体を離れようとするシズサの魂の存在を、ラローゼは感じ取ることができた。
 たしかにラローゼは彼らの客だった。だが、ラローゼのもたらす物が彼らにとって不可欠というわけではなかった。ラローゼにしてみれば、シズサが命がけでかばわねばならない理由などなかったのだ。
「私が……、あれを救っていなければ……」
 ラローゼがかつて竜を救っていなければ。あるいはエドア=ガルドを気にして庭に下りずにいれば。
 ラローゼは、責任を、己に課した。瞼を閉じて霊力(フィグ)を凝らす。風霊(ウィデク)の身を散じて風となした。その風を、シズサの身体に染み通らせると、糸をたぐるように離れゆく魂を、シズサの内へ引き戻す。
 カイと刃を交わしながら、その有様を目に留めたサガが目を見張る。
「リュア様が負傷なさった! 引くぞ!」
 闇のどこかから声がした。サガが闇の奥へ飛びすさる。人の目にはまだ見えないが、ラローゼの霊力(フィグ)は、サガが竜形に変容し、負傷した妖魔(ヴァン)の王女を乗せて飛び去るのを捉えていた。

 昼日中の来襲に応戦した魔狩(ヴァン=ハンテ)は、エドア=ガルド、カイ、シズサの三名。ザサラ=ガロウとアマルカンは、その場におらず、いつもどおり夕刻に参集し。カイ、シズサ、そしてラローゼが行方不明と聞かされて、各々に動揺した。エドア=ガルドの屋敷の中には、ラローゼがアヤカシを手引きしたのではないかと疑う者もあった。彼らは、霊力(フィグ)封じの準備をしながら、ラローゼを探していた。
 そんな日であっても、人族狩りの妖魔(ヴァン)それまでの日々と同じく出現し、魔狩(ヴァン=ハンテ)の任もあった。詰め所からの家へ戻る帰路、アマルカンは、
「アマルカン」
 名を呼ばれて振り向いた。夕の街は人通りが少ない。視界にいたのは、独りだけ。
「カイ!、無事だったのか!」
「俺はな。シズサが……」
「怪我を、したのか?」
「……本来なら、命がない傷を負った。それを、ラローゼ殿が、霊力(フィグ)をもってこの世に留めている」
 哀しげに微笑むカイに、アマルカンの声が尖る。
「では、ラローゼも一緒にいるのか?」
「ラローゼ殿が、シズサに、憑依している。傷を治癒しようと、ずいぶん努力してくださったようだが、妖魔(ヴァン)霊武器(フィギン)が心臓にまで及んでいて、どうしても傷が塞がらないらしい。ラローゼ殿が離れれば、シズサは死ぬ。ラローゼ殿は、……このまま、シズサと居てもいいと言ってくださっている」
「何を言っている。ラローゼは、襲撃を呼び込んだ張本人だろう!」
「なんだ、それは? 屋敷ではそんな話になっているのか」
「ああ。霊力(フィグ)封じの異能も屋敷に入った。ラローゼが黒幕でなければ、トキホが精霊(ア=セク)に襲われる道理がない!」
精霊(ア=セク)じゃない、妖魔(ヴァン)だ、襲ってきたのは」
「人と見まごう美しい者たちだったと聞いたぞ?」
妖魔(ヴァン)の貴族は、ああいう風に姿を変えられる、と、ラローゼ殿が」
「また、ラローゼか。ラローゼが呼んだなら、本当のことを言うはずがないだろう。カイ!、目をさませ」
「では、なぜ、シズサを救った?」
「それは、……俺にもわからないが」
 カイが、震えるような深い溜息をついた。
「俺は……俺が一番大切な者を大切にする」
「どういうことだ」
「シズサと暮らすさ。ラローゼ殿とひとつになったシズサと」
「バカなことを言うな、そんな……」
 両肩を掴んだアマルカンを振りほどくと、カイは背を向けた。
「俺を、つけるな。お前でも、……殺す」
 重い足取りで去るカイの背を、アマルカンは、動くことができずに見守った。
 一番大切な者を大切に。それは、アマルカンがマイヤとの結婚を反対されてカイに相談したときに、カイがアマルカンに言ってくれた言葉だった。
 カイが苦境にあるとき、同じ台詞を返してやれなかった己を自覚しながら。アヤカシに憑かれた女を妻とする友を、アマルカンは、肯定することができなかった。


 ラローゼの従者であるキラムにとって、ラローゼは崇拝の対象だった。ラローゼは強い霊力(フィグ)と優しさを合わせもち、たおやかに美しく、それでいて王と議論するのも厭わない凛とした面を合わせもっていた。キラムが幼形の小精霊(ミア=セク)から、一人前の精霊(ア=セク)になる修行をせずにいるのも、従者で居つづけたいためだった。手の届かない相手であることは十分弁えていたので、恋多きラローゼの相手が変わっても、これまでは拘泥せずにいたのだが。
 今度ばかりは、正直なところ、辛かった。誇り高き精霊(ア=セク)の王妹が、人族との愛を誓うとは。
 トキホの街の、祖霊廟。普段ならまだ人影のない夜明けの時刻、ラローゼが憑いた人族の女シズサの傍らには、魔狩(ヴァン=ハンテ)の男、カイ。人族が祖霊に結婚を報告する「結婚の儀」であれば、多くの人が見守るものらしいのだが、今日招かれたのは壮年の男の姿を取った地霊(ムデク)ナホトカと若く美しい女のなりの樹霊(ジェク)ユキヌ、それにキラムの3名のみである。
 花婿は金の縁取りをした藍のジャケットとズボン。それは本来魔狩(ヴァン=ハンテ)の装束だったが、仮面はしてない。花嫁は草色のスカートに白いブラウス、ブラウスは花の刺繍をほどこした愛らしいものだが、花嫁衣裳としては少しばかり質素だった。ラローゼの持ち物である、金の冠に大きな緑の宝玉をはめこんだヘッドドレスが、いささか不似合いだ。
「さびしい式になってしまったわね」
 女が発した声は、精霊(ア=セク)王の妹にして特使、ラローゼのもの。
「私は、カイさえいれば、いいです」
 女は続けて別の声を発した。それは、魔狩(ヴァン=ハンテ)シズサのもの。
「俺は……、二人を共に愛します。俺の、一生をかけて」
 男の言葉に微笑んで、女は、ラローゼともシズサともつかぬ声でいう。
「私たちは共に、貴方を愛します、カイ」
「おめでとうございまず! ラローゼ様、に、カイ!」
 不自然なほどの元気さで、キラムは跳ねて見せた。不満は、あるものの。シズサの致命傷から今日のこの日までともにいて、シズサへの介護、ラローゼへ心配りを通し、カイというのがつくづくと善良な人間であることも、理解していた。
 領主は、霊力(フィグ)封じの異能を待機させて、カイ、シズサ、ラローゼの行方を追った。ラローゼは身の潔白を明かしたいと望みながらも、霊力(フィグ)封じに合えば、シズサの命は損なわれてしまう。その命を何にも代えて優先して、外側の傷だけを癒し、今日の日を迎えた。体の奥深くの致命傷は、ラローゼの力をもってしても、癒すことができなかった。
 その間、カイもまた、魔狩(ヴァン=ハンテ)の称号も誇りも、友も捨てて、シズサ=ラローゼを守って来たのである。
「これで、よろしいのですな。ラローゼ様」
「巻き込んで、ごめんなさいね、ナホトカ。それに、ユキヌ」
 シズサ=ラローゼが、地霊(ムデク)樹霊(ジェク)に微笑みかける。
「恋の恩義は、恋の助けで返すが道理です」
 ナホトカがいい、ナホトカの現在の恋人・ユキヌがチラリとナホトカを見る。
「ユキヌ、そなたを知る前、300年近くも昔の話だ。母がこの都市の領主を夫としていたころに、領主と母は領主の姪を養子にしていた。その娘と私が恋に落ちたのだ」
 説明するナホトカに、シズサ=ラローゼが、笑みを深めた。
「ナホトカの父上は地霊(ムデク)だったのだから、彼女とは血は一滴も繋がっていなかったのだけど。当時のこの都市の慣習では、兄妹婚のタブーに触れるといって、反対する有力者がいたの。ナホトカは兄に裁定を願い出たのに、兄はほんとに朴念仁で、人族との裁定はアヤカシ王の責務にあらず、と」
「そうおっしゃるのを、ラローゼ様が強引に、裁定に出てくださったのです。都市に現れたラローゼ様は本当に女神のように美しく装われて」
 ナホトカが懐かしげに言い、ラローゼは、
「美しいかどうかはさておき、逆らいにくい雰囲気は出せていたでしょう?」
 いたずらの思い出を語るように、ころころと笑う。ナホトカの現在の恋人である樹霊(ジェク)ユキヌも仕方なげに微笑を浮かべた。精霊(ア=セク)の生涯は長い。恋の相手が変わることはよくあることで、前の恋人に嫉妬を見せることは恥とされた。
 カイとシズサ=ラローゼの新居は、トキホの守護地霊(ムデク)であるナホトカが、トキホの市内の家を提供した。地霊(ムデク)結界の内側にある家は、妖魔(ヴァン)にも精霊(ア=セク)王にも、ラローゼの居場所がしかとは見定めにくい。ナホトカがかつて領主の義息であったころに暮らした家は、古めかしいが、キラムが風を使って埃を払い、ユキヌが木細工で壊れた箇所などを繕うと、居心地よげな住まいとなった。当時に植えた木は、300年を経た巨木となって家に風格を添えている。