異血の子ら

■プロローグ-1■

 この世界の名はアスワード、都市の名はトキホ。白壁と黒い瓦を配した家が立ち並ぶ町並みの上で、空は、夕に染まりつつあった。白い壁が暖かな黄から橙に色を変えてゆく。都市の外縁にある八つの櫓から、都市の周囲に広がる農地に、帰宅の鐘がギンゴンと鳴らされる。
 領主の命令により、暦学者たちは、毎年日没の時刻を割り出した。鐘はその刻に半時先んじて鳴らされる。だが、何かの都合で引き上げに手間取る者は出るものだし、天気の具合で日没より早めに夕闇が降りることもある。──陽光を嫌う妖魔(ヴァン)が、飛び始める程度の闇が。
 アマルカンが魔狩(ヴァン=ハンテ)の詰め所に入ると、カイがすでにそこにいた。すでに領主から支給されたジャケットにズボンという魔狩(ヴァン=ハンテ)の装束に着替え、腰に朱輝龍の剣を下げる紐を丁寧に調整している。
「今日は、妖魔(ヴァン)が出ないといいんだがな」
 目を上げてアマルカンを認め、カイがそう言った。
「そう思うのはやまやまだが。妖魔(ヴァン)がこちらの都合で出たり出なかったりするもんでもなかろうよ」
 魔狩(ヴァン=ハンテ)の衣に着替えながら返事をするアマルカンの声がついぶっきらぼうになるのは、照れが入るせいだ。
「ちがいない」カイはアマルカンの語調に頓着する様子もなく、陽気に笑う。「そもそも都合が通るなら、毎日出るな、と念じるよ」
 この都市の成人の儀は、生まれて十八年。カイもアマルカンも、昨春の儀で、成人となった。カイは二年前、父親が妖魔(ヴァン)との戦いに斃れた時に、アマルカンは成人の儀の日に祖父の引退を受けて、霊武器(フィギン)を継いで、魔狩(ヴァン=ハンテ)となった。
 鉄の剣で傷をつけることができるのは、妖魔(ヴァン)の翼のみ。妖魔(ヴァン)の命を奪えるのは、霊武器(フィギン)だけである。
 霊武器(フィギン)を扱うに十分な霊力(フィグ)をもつ魔狩(ヴァン=ハンテ)は、アヤカシに通じる異能とされる。都市の住民の中には、異能そのものを恐れる者、異能の家族や親しい者は妖魔(ヴァン)に殺されやすいと信じる者があり、魔狩(ヴァン=ハンテ)たちは名を秘す慣わしとなっていた。
 カン、カン、カンと、遠く半鐘が鳴る。
「来やがった」
 カイが小さくののしって、半仮面を身につける。魔狩(ヴァン=ハンテ)は、戦いに出るときは、半仮面をつける。額の上から頬骨下あたりまで、木彫りに薄鋼を重ねたものを綴って隠し、鼻部は呼吸を妨げぬよう、猛禽の嘴のように張り出した覆いを被せている。むき出しの口元と顎のあたりも仮面の影が落ちるので、夕闇の戦いのなかでは、容貌はほぼ判らない。目の辺りには穴が穿たれて外を見ることができる。
 足速に、外へ出た。
「今日だけは、先陣を任せてもらうぞ」
 戦いだというのにカイの声が明るい。アマルカンは小さく溜息をついた。
「俺よりよほど、はしゃいでいないか?」
「真面目一方のお前が、駆け落ちをしようっていうんだ。はしゃがずにいられるか」
 領主の使用人たちがすでに馬を準備していた。
妖魔(ヴァン)は西、三の門の外あたりです」
「わかった」
「了解した」
 カイとアマルカンは、こもごもに、答えに笑顔を添えて、馬の用意への感謝を表し、馬に飛び乗る。
 カン、カン、カン、と、彼らの頭上の半鐘が鳴り出した。西の櫓に、魔狩(ヴァン=ハンテ)が出撃したと報せる鐘である。
 カイの馬が先行し、アマルカンの馬がついて駆ける。都市は、領主屋敷を中心に、蜘蛛の巣のごとく放射状に街路を描き、その両側に家や店が並ぶ。
 半仮面の男たちの馬に、恐れるように道端に下がる者はいても、異様な風体に驚く者はない。
 旧市街の外周は、艶石が埋め込まれている。妖魔(ヴァン)がめったに都市に入らないのは、この艶石に篭められた地霊(ムデク)の結界によるという言い伝えがあって、艶石を除けたり壊したりする者はなかった。地霊(ムデク)はときに人類(ユム)を愛し、都市を与えてきた、というの、古くからの言い伝えだった。アスワードの人類(ユム)に言葉を教えたのも、地霊(ムデク)であるとも伝えられる。
 都市は二重円の構造をなす。内側の円が地霊(ムデク)結界、外側の円が放電柵だ。放電柵は、夕刻から朝まで放電火花を散らす鉄条網である。放電柵と結界の間の地域を新市街と呼んだ。妖魔(ヴァン)は電気を嫌い、数年前に放電柵ができてからは、一度もその内側には入ってこない。だが、人々が働く農地や牧草地は、放電柵の外側にも広がっている
 二人の馬は、ジリジリとかすかな音を立てる通電した柵に沿って、馬をめぐらせた。西の三の小門が見えたあたりで、
「あれだな!」
 カイが声をあげて、馬に鞭をくれた。馬は怖じもせずに、火花を放つ門をくぐる。夕風に揺れる麦の畑、その間に伸びる道の先。妖魔(ヴァン)が高く飛んでは急降下する、独特の動きを繰り返している。人を、襲っているのだ。
 妖魔(ヴァン)は人ほどの大きさだが、容貌は明らかに人間ではなく、蝙蝠に似た翼で空を飛ぶ。服と判るものはたいてい腰覆いと沓しか着けず、肩先に生まれついての突起とも部分鎧ともつかないものがある。陽光を嫌うが、浴びたからといって即死するわけでもなかった。人を捕らえ、運び去って食らう。武器はめったに携えていない。ただし、手指の先の鋭い爪は、十本の短剣に匹敵する。
 妖魔(ヴァン)は高く低く飛んでは、猛禽のように急降下して男を狙う。獲物と見做された男は、地面を転げ回るようにして、妖魔(ヴァン)の爪を避けていた。
 カイが馬上で、霊武器(フィギン)の剣を抜く。鬨の声をあげて、男と妖魔(ヴァン)の間に馬で割り込んだ。霊武器(フィギン)はキラキラと赤い光を放つ。
「立てるかっ?」
 剣を振りまわし、払い、妖魔(ヴァン)を巧みに後退させながら、カイは馬上から男に声をかける。男はふらふらと立ち上がった。
 その傍らに、アマルカンは馬で走りこんだ。馬の足を止めさせるのは、ほんの数秒、その間に男を馬上に引っぱり上げ、馬に鞭をいれて全速で街へ戻る。向かい風だ、馬も少しは速度が落ちるが、妖魔(ヴァン)のほうが風の影響を受けやすい。
 急速に、カイの繰る蹄の音が近づいて来た。
「あ、あ、」
 アマルカンの前に乗せた男が、背後に目をやり、震える声で何か言いかける。聞かずともわかる、妖魔(ヴァン)が、諦めず追って来ているのだ。
「つかまっていてくれ」
 アマルカンは声をかけると、夕闇が深まる中、麦畑の間の道で馬を駆るのに集中する。カイの蹄の音が近い。アマルカンの真後ろで、妖魔(ヴァン)を防いでくれているのだ。
 カイの馬がいななく。妖魔(ヴァン)はときに、馬を襲って人を落馬させ、その上で襲いかかることがある。確かめたくても、振りかえる余裕はなかった。馬が再び悲鳴を上げるのと、妖魔(ヴァン)がギャアと叫ぶのが同時だった。
「俺は大丈夫だ」
 耳元の風と蹄の音を圧して、カイが叫ぶのが聞こえた。
 馬はようやく、チリチリと火花を散らす街の小門をくぐる。妖魔(ヴァン)は電気を嫌い、この門から内側に入って来たことはない。アマルカンが馬の足を緩めさせて、やっと振り向くと、カイも門をくぐるところ。アマルカンに、片手を上げて見せた。カイの馬が、後ろ足の片方を軽く引きずっている。
「馬の尻に奴の爪が届いたんで、腕に一太刀くれてやった」
 カイの一言に、アマルカンはほっと笑い、馬を止めて、男を下ろした。


 アヤカシは、不老の種族で、人を喰らう妖魔(ヴァン)と、精霊(ア=セク)に大別される。精霊(ア=セク)はさらに、風を食い死ねば風に還る風霊(ウィデク)、地の力を得て生き死ねば土くれとなる地霊(ムデク)、樹木から力をもらい死ねば灰と化す樹霊(ジェク)、他の精霊(ア=セク)の喜びから力を得て死ぬと金屑に変じる匠精(メト)という4支族に分かれるが、この間はきわめて近く、互いの間に子をなすことも珍しくない。
 現在の王は、風霊(ウィデク)オーリン。精霊(ア=セク)の慣例に従い、顔立ちの整った若い男性の姿をとるが、四百年近い齢となる。父王の死後、およそ三百年近い治世を保っていた。歴代の精霊(ア=セク)王のなかでも、強い霊力(フィグ)を持つ王で、つねに風をまとい、夕映えを連想させる長い髪を炎のように揺らしている。
 王位継承者として定められているのが同父同母の妹のラローゼだが、その位に敬意を表して、王妹ラローゼと呼ばれることが多い。若く美しい女性の姿をとり、月光を思わせる淡金の髪を、柔らかく風に舞わせる。
 現在の精霊(ア=セク)王宮は、とある高山の、巨石が組み合わさったような洞窟である。ただし、その内側は匠精(メト)が艶やかに磨きあげ、金や宝玉の煌く細工物を嵌め込んで、荘厳に飾っている。
 その最上にある王座の間で。オーリンとラローゼは、人類(ユム)との交渉の落とし所について、激しく議論していた。
 もともと、精霊(ア=セク)王宮と人類(ユム)の間には、交流がない。それが、人類(ユム)の都市トキホで電気が発明され、人類(ユム)の住む他の都市にも広まって、不快を訴える精霊(ア=セク)が増えたことから、オーリン自らが交渉を采配したのである。
 オーリンの案は、アスワード世界の三分の一を《聖域》とし、そこには電気を一切入れさせない。代償として、トキホ領主の外屋敷などを含め、人類(ユム)の都市の要所にオーリン自ら守護結界を張る、というものだった。
 ラローゼの案は、放電柵を禁じ、電気は灯りとしてのみ利用して、配電の時間も夕刻に限定する。代わりに、魔狩(ヴァン=ハンテ)妖魔(ヴァン)と戦うための霊術具(フィガウ)を与える、というものだった。これは本来は地霊(ムデク)樹霊(ジェク)妖魔(ヴァン)と戦う際に用いるもので、空を飛ぶことができる。新市街を捨てることになるが、アスワード17都市の内でも最初に電気柵を完成したトキホでさえ新市街の人口は少なく、人類(ユム)側の実質の損害はそう多くない。
 オーリンがラローゼの判断力を評価しないと言い出し、その例に挙げたのが、およそ三百年前の近接(タゲント)の戦での出来事である。ラローゼは、敵である妖魔(ヴァン)に仕えるらしき瀕死の竜を救ったのだが、これが実は異血(ディプラド)の王子だったらしいというのが後から判った。救ったときは、妖魔(ヴァン)王と竜との間に子があることは精霊(ア=セク)の間で知られていなかったし、妖魔(ヴァン)の血の匂いに満ちた戦場で、目の前にいるのが純血の竜ではないとは、まだ少女期だったラローゼには感知できなかったのである。
 オーリンが戦の前に何年も姿を消していた理由は知らない。ただ、直前に戻って、父である「四方の風のオムト」の惨死を目のあたりにしながら、よく戦を指揮して、被害を最小に抑えた。
 相手が王子だったことは、知らなかったのだから、仕方ないとして。父の死んだ日に敵方の竜を救ったのは、兄から見れば許しがたかったのかもしれない。だが、ラローゼにしてみれば、もうこれ以上の死を見るのは嫌だったのだ。こんな時間が経ってから、償いを迫られることになるとは思わなかった。不老の精霊(ア=セク)にとってさえ、三百年前というのは、ずいぶんな過去である。古いことを持ち出されて戸惑ったラローゼがいくら反論しても、オーリンは言葉尻を捉えて、とうとう呪縛を受け入れさせてしまった。


 魔狩(ヴァン=ハンテ)のカイとアマルカンは、詰め所に戻り、馬の怪我の様子を、領主の館の者たちに報告し。私服に戻ったところで、並みの男よりよほどガッシリとした中年女が、
「アマルカン」
 小さく名を呼んで、ちょっとちょっとと、手招きした。
「今夜の件。ネルをご一緒させてもらっていいかい?」
 女の名はザサラ=ガロウ。その脇から顔を出すのは、露骨に体格の似た、だがまだだいぶ背の低い少年である。
「大人しく、する。余計なことは、言わない。ちょっとでも、手伝う」
 アマルカンは、カイと顔を見合わせた。ザサラ=ガロウはその逞しい腕で、《黒の重斧》と呼ばれる霊武器(フィギン)を繰る魔狩(ヴァン=ハンテ)である。ネルと呼ばれた少年は、彼女の息子で、かすかながらすでに霊武器(フィギン)の反応を得ていた。それは、魔狩(ヴァン=ハンテ)の跡継ぎとなることを意味する。ザサラがときどき詰め所に連れてくるので、すでに顔なじみだった。
「それは、人手は多いほうがありがたいが」
 アマルカンが受け入れると、カイも、ネルに頷きかけて、微笑った。
 すっかり夜の色になった街路に、目立たぬように覆いをかけた油灯を下げて出る。光は周囲に広がらず足元だけを照らし出す。
「まぁ、ネルも明日は我が身だから、巻き込まれておくのも悪くはないだろうな」
 カイがネルに、からかう口調で声をかける。
「ちぇ。カイは余裕こいてやんの」少年が口を尖らせ、「そういえば、シズサは?」
 カイの恋人の名を出した。シズサも異能で、霊術具(フィガウ)の使い手である。治癒魔法や解呪ができ馬術も得意なので、魔狩(ヴァン=ハンテ)として妖魔(ヴァン)との戦いに参加していた。
「今日は、ちょっとな」
 カイがにやりと笑った。
「そういえば、カイ、お前らはどうするんだ」
 アマルカンは普段、立ち入ったことは口をはさまないようにしているのだが。今なら聞ける気がして、カイに尋ねてみた。
「アマルカンたちには悪いが、俺たちはちゃんと表だった式を挙げるぞ? 今度の、例の仕事で、我らが領主殿が手当てをはずんでくれるらしいし」
「ああ、あれか。よく引き受けたな、アヤカシの護衛なんて」
「アヤカシというなよ、精霊(ア=セク)なんだから」
 精霊(ア=セク)は、容姿は人類(ユム)に似て、しかも美しい。だが、妖魔(ヴァン)と同じく、アヤカシに属し、霊力(フィグ)を用いる。領主の元に精霊(ア=セク)の王の特使が来るという予定があって。カイはその護衛を引き受けたのである。
「うーん、人に異能と言われる身でも、精霊(ア=セク)はイヤか? マイヤ殿の影響ってことは、ないよな?」
 カイが首をかしげる。アマルカンの恋人マイヤは、幼いころ両親を妖魔(ヴァン)に殺され、以後、強度のアヤカシ嫌いなのだ。だが、その影響ではないと、アマルカンが反論する前に。
「いや、精霊(ア=セク)はあたしもヤだね」
「俺も」
 《黒の重斧》母子が口を挟んでくれた。
「アマルカン。俺、聞きたいことがあるんだけど」
 ネルが母親の隙を見るように、つま先立ちで、アマルカンに囁いた。
 なんだ? と目で尋ね返す。
「マイヤさんの両親を救えなかった魔狩(ヴァン=ハンテ)って、俺のお袋?」
 アマルカンは、かぶりをふった。
「俺の祖父だ。それで、孤児になったマイヤを、母が引き取った」
「アマルカンとずっと一緒に育ったんだよね?」
「そうだ」
「結婚に反対されてるって……、アマルカンのお母さんが、マイヤさんを嫌いってこと?」
「違う。俺がマイヤとの結婚を言い出すまで、母はマイヤを実の娘のように可愛がってた。マイヤは、アヤカシだけではなく、魔狩(ヴァン=ハンテ)も嫌いなんだ。両親を救えなかった魔狩(ヴァン=ハンテ)が俺の祖父と同一人物であることも知らないし、俺が魔狩(ヴァン=ハンテ)を継いだことも知らない。……母は霊力(フィグ)こそ継がなかったが、ずっと祖父の協力者だったからな。魔狩(ヴァン=ハンテ)になった俺とマイヤの結婚は反対なんだ」
 アマルカンは、ネルに答えながら、ちらとカイに視線を向けた。
「迷ってた……、俺には、マイヤも母も大切な人だから。でもカイに焚きつけられたんだ、"一番"大切なものを選べ、って」
「なぁに、子供でも生まれりゃ、母上も軟化するさ。それまでの辛抱なんじゃないか?」
 カイが暢気な声で言う。
 夜の街路で、声をしのばせながら会話を交わしているうちに、アマルカンの家についた。庭に入ろうとするアマルカンに、カイが肩を引いて引き止めた。
「あぁ。一応、念を押しとくが、今晩何かあったら、俺が戦闘要員だ」カイは、布を巻いた刀を示す。「お前は命にかかわるぎりぎりまで霊武器(フィギン)を出すな。いいな?」
「……ありがとう」
 マイヤの前で魔狩(ヴァン=ハンテ)であることを明かすな、と、言うカイに礼を言ってから、アマルカン一人で、庭まで入った。
 トキホの家は、日中は地上で過ごし、夜間使う寝室は地下に作る。妖魔(ヴァン)が結界から中に入ることはめったにないが、ゼロでもないからだ。地下の寝室は窓が小さく、家を妖魔(ヴァン)に襲われたときには地上部に火を放って難を逃れることを想定していた。火をかけたときに隣家に延焼しないよう、家と家の間には白土塗りの塀を設ける。
 アマルカンが、マイヤの部屋の窓をこんこんと拳で打った。窓は、部屋の中からは天窓、地上からは膝ほどの高さの縁に水平に嵌め込まれた木板に見える。
「アマルカン」
 窓が開いて、マイヤが顔を出す。部屋の中から梯子に乗っても、ようやく顔が出る高さである。
「荷はまとめたか」
「ええ。でも、もう、こんなに暗いのね?」
 油灯の明かりが、マイヤの顔に浮かぶ、怯えた表情を浮かびあがらせる。
「花嫁さんを真っ先に出してしまいな」
 ネルの母親は、自分の息子の腰に綱を巻きながら、言った。
「この子を入れる、荷物くらいは上げられるよ」
「すまない」
 アマルカンは、母子に礼を言い、マイヤの両手を自分の肩に抱きつかせた。アマルカンが腰を支えて、ゆっくりと引き上げる。これでもし母が気づいても、アマルカンとマイヤが荷物を見捨て、仲間たちが母を妨害してくれれば、逃げおうせてしまえるだろう。
 ネルは綱で室内に下ろされた。アマルカンとマイヤ二人分の、最小限の身の回りの品は、いくつかの鞄に分けられている。ネルが荷物を一つ持って器用に梯子を上がっては母に渡して外へ出し、また次を取りに下りる。カイは、夜空に妖魔(ヴァン)の影がないか、周囲を睥睨している。
 数分で荷物は運び出され、ネルも引き上げた。
「この方たちは?」
「俺はカイ、姐御はザサラ=ガロウ。二人ともアマルカンの友人だ。坊主は姐御の愛息子でネルソン=ガロウ」
 カイがひどく簡単に三人を紹介する。
 荷物を分担して持ち、歩き始めた。荷車は轍の音が高く響くので、あえて用意していない。
 マイヤは闇にしきりに怯えた。風にビクリとし、犬の遠吠えに硬直した。あれは妖魔(ヴァン)ではないか、これは妖魔(ヴァン)ではないかと、口に出して不安がり、その合間にアマルカンの母に結婚を反対されたことを悲しみ、駆け落ちを手伝ってくれている面々に感謝し、アマルカンへの愛の言葉を繰り返した。
 最初はいちいち相手をしていた面々は次第に無口になり、アマルカンだけが最後までマイヤの相手をし続けた。
 結局、妖魔(ヴァン)の襲来はなく、野犬さえ襲って来なかった。
 アマルカンの新居は、それほど大きくはないが、新婚の夫婦には手ごろな一軒屋である。引き戸を開けると、
「行けなくてごめんなさいー」
 明るい声で、シズサが顔を出した。カイの恋人が待ち受けていたことに驚いて、ネルが目をぱちくりする。部屋の中には、ちょっとした祝宴の用意がしつらえてあった。
「鍵を貸せって、……これか?」
 アマルカンがカイに尋ねる。
「ん、俺のおごりじゃなく、もう一人のほうだけどな」
「え?」
「もう十年も戦いに出ていなくても、あいかわらず同僚のつもりなんだ、受け取っておけよ」
 マイヤに聞こえないほどの声で、カイがアマルカンに囁いてよこした。


 都市トキホから馬で一刻の地に、その城はある。トキホが拓かれた千八百年前には精霊(ア=セク)のものであった城は、きらびやかなドームに覆われ、金属と石で築かれた壮麗なものだが。九百年前の戦で妖魔(ヴァン)の手に堕ちて、現在は妖魔(ヴァン)王の居城となっていた。
 城の中央、とりわけ美麗に飾られた塔の根元をくだった地下に、妖魔(ヴァン)の王の玉座があった。
 壁には細い棚が設えられて、この世界のすべての妖魔(ヴァン)の数だけ、告存晶(レペィキスタ)が飾られている。
 部屋の中央には、磨いた骨を飾った、背の高い石の玉座があった。
精霊(ア=セク)王オーリンが、エドア=ガルドの元に密使を送る、という情報が入った」
 口を開いたのは、妖魔(ヴァン)王リュウガの継嗣ナムガ=オ=リュウガである。
 匠精(メト)たちが磨きあげた大広間。普段は玉座近く控える妖魔族(ヴァン=フィア)の衛兵も、今は人払いされて、広間にいるのは四人だけだった。
「エドア=ガルド? 人類(ユム)、よね? 電気の」
 姉リュアに、電気の発明者だろうと確認されて、ナムガは、そうだ、と頷いた。リュウガの継嗣ナムガ=オ=リュウガは、威厳のある壮年の男性の姿を、異母姉リュア=エ=レネルは対のような同年代の女性の姿をとっている。兄であるサガ=エ=ロインより年上の外見が、兄姉より若くして継嗣となったナムガの虚勢を表していることは自覚しながら、姿を変える決意のつかないナムガである。
 妖魔(ヴァン)の貴族は、美男美女の姿を用いる。その慣習を自ら破っているのが、王座に座った妖魔(ヴァン)王、リュウガだった。妖魔(ヴァン)本来の、しかも老いさらばえた姿のまま、じっと動かない。耳を澄ましているのかいないのか、それも判然とはしなかった。

精霊(ア=セク)王オーリンが、エドア=ガルドと交渉に及ぶつもりらしい。特使は、精霊(ア=セク)王の妹、西風のラローゼがじきじきに立った」
 王の妹が出るのだから本気なのだろう、という意味を言外ににじませて、ナムガが続けた。
「ラローゼ?」
 月光めいた金の髪をたなびかせる風霊(ウィデク)の姿を思い返しながら、サガは小声で反問した。金の髪に、緑の霊石をはめた金の宝冠をいただく、たおやかな美貌の精霊(ア=セク)
「で。兄上はどうなさるおつもり?」
 リュアは媚びるように甘い声で問う。リュアの母とナムガの母は姉妹で、あいついでリュウガの寵を受けた。ナムガが継嗣に決まってから、リュアは年下のナムガを兄と呼び、年長のサガにもそれを強いていた。
精霊(ア=セク)人類(ユム)に組まれても厄介だ。阻止せねば。今日はそのためにそなたたちに集まってもらった」
 この場で一番年下でありながら、場を仕切らざるを得ないナムガは、リュアとサガを見る。本当なら、ナムガ一人、あるいはナムガの言うことなら何でも従うリュアと二人で済ませてもよかったのだが。サガは、王子王女3人のなかで最年長でもあり、情報を入れないことに躊躇いがあった。
「阻止……? 交渉がまとまる前に、ラローゼを攫いましょうか」
 無茶が好きなリュアも、殺す、と言わなかった。考えてみれば、精霊(ア=セク)王の妹を殺せば、精霊(ア=セク)軍と妖魔(ヴァン)軍の間で、全面戦争に突入する可能性もある。近接(タゲント)の際の戦のように。
「そうだな……」
 ナムガは殺してもいいつもりだったのだが、リュアの発言で気を変える。
「三人で賭けません? 私は魔剣ハズベルを出すわ。ラローゼを捕らえた者が三人分の賞品を自分のものにするの」
 リュアは、うきうきとした声を出した。
「面白そうだな。リュアが魔剣でくるなら、私もそれなりの物を……。輝晶槍でどうだろう」
 リュアにつられて、ナムガが提示したのは、女戦士でもある母たちから受け継いだ名高い霊武器(フィギン)である。サガには、そのような持ち物はないはずだ。と思ったところに、リュアがねっとりとした口調で語を足した。
「翡翠竜の最後の一頭でも、いいのよ?」
 リュアの追い討ちに、ナムガはさすがにぎょっとする。翡翠竜の最後の一頭とは、かつて戦場で父王リュウガを騎せた竜。名をロインという。つまり、サガ=エ=ロインの母。リュウガがたった一夜、人の姿に変え、一子をもうけたその相手である。
「賭け代は、ラローゼとせい」
 黙っていたリュウガが口を開いて、ナムガはぞくりとする。妖魔(ヴァン)の貴族の慣習を破り、人の姿も取らず、外見の年齢も時経るままに重ねているリュウガは、剣による戦闘能力と霊力(フィグ)の両方において、妖魔(ヴァン)最強と恐れられた王である。いまは実権をほぼナムガに譲っているとはいえ、伝説ともなりうるリュウガの強さをナムガは知っている。気にいらぬとなれば、我が子を手にかけるくらいなんとも思わぬ残酷な妖魔(ヴァン)であることも。
 ナムガは、リュウガの第三の継嗣である。最初の継嗣は、六百年前の戦で精霊(ア=セク)に殺された。第二の継嗣は三百年前、リュウガが自ら斬ったという。リュアは大胆なことを口にするが、ナムガ自身が同じ発言をする勇気はなかった。
「なるほど、美貌の精霊(ア=セク)そのものを取るもよし、オーリンからしかるべき身代を求めるもよし。よい賭け代となりましょう」
 ナムガはうやうやしく肯定した。
「ナムガは出るなよ、リュアとサガにて、貴族を率いよ。平民は使うな」
 しわがれた声が後を続ける。継嗣の名をもつ以上軽々に動くなかれ、というのは理のあることなので、ナムガは深く頷いて、父の前を退出する。それに従いながら、リュアはまだ、ナムガの耳元に唇を寄せてきた。
「兄上。近接(タゲント)を控えて、ラローゼがこの城に囚われることになれば。もしかしたら、異血(ディプラド)の娘を得よという、宿命の導きかもしれなくてよ?」
 その小声は、艶っぽい笑みを含んでいた。
「二のアヤカシは一となる。
 異血(ディプラド)を受けるもの、その母なる者の唯一の娘、
 近接(タゲント)の刻に門を開いて、望む全てをノ=フィアリスへ導く。
 アスワードは人間の世界となる」
 アヤカシの間に言い伝えられる、古い予言。次の近接(タゲント)は、およそ二十年後。まだ、異血(ディプラド)の娘は見出されていない。


「ラローゼが、特使?」
 一人になってから、サガはラローゼの姿を思い返していた。
 アヤカシは、妖魔(ヴァン)精霊(ア=セク)も、病はなく、老いることもない。金属の武器では傷つかない。だが、不死ではなかった。霊力(フィグ)が尽きたり、霊力(フィグ)の源を断たれれば死ぬ。生に飽きると消滅する。霊武器(フィギン)で斬殺することも、できる。
 先の戦の際、サガは、精霊(ア=セク)どもに浚われた幼姫を探して、母ロインと同じ、竜の姿に変じて戦場に入った。サガの人としての姿は、父リュウガに与えられたもの。人の姿では霊力(フィグ)もつかえるが、竜形のほうが速く飛べた。だが竜形となれば霊力(フィグ)が封じられ、ひたすら力で戦うしかなく、まだ柔らかい幼い鱗の隙を精霊(ア=セク)たちの霊武器(フィギン)で傷つけられて、瀕死の傷を負った。戦が終わり、妖魔(ヴァン)の死骸だらけの戦場で倒れ伏していた時に、負傷した精霊(ア=セク)を探しに来たラローゼに見つかった。ラローゼは、目の前にいる竜が、妖魔(ヴァン)王リュウガの息子であるとは思わなかったらしい、おおかた、妖魔(ヴァン)の騎竜だと考えたのだろう。サガの傍らに降り立ち、癒しの術を発したのだ。
「賭け代は、ラローゼ、か」
 サガは、この賭けに勝ちたいと思った。ラローゼを人との交渉の場から引き離してしかるべく決裂させた後で、なんの代償も求めずに解放してみせようと考えた。あの思いもかけない借りを返すのだ。さぞかし溜飲がさがるだろう。