覆面作家企画『花』参加作品

烏珠闇降下紅花巫女 ヌバタマノヤミヲオリユクベニノハナミコ

麻生新奈

「花巫女殿ッ」
 差し伸べられた(クヌギ)の手を、香柔和(カニワ)はとっさに掴む。敵兵に蹂躙されんとした輿から、橡の馬上に引き上げられた。
 橡は、この国の若き将にして、二の太子。香柔和は、数えで十七、同乗がどれほど畏れ多いことか、解らない歳ではないが。
 ましてや。敵兵が馬上めがけて振るった太刀から、橡がその身で香柔和を庇ったときは、一瞬、何が起こったのか、理解することさえ困難だった。
 橡の衣から、血が滲みてくる。それでも橡は、手綱を落とすとなく、敵をかわし、輿で向かうはずだった王君のもとへ、馬を駆る。

 敵のまだ寄せ来ない、ある貴族の館に、花巫女のための施療の間がしつらえられていた。王君、一の太子。背の傷深い橡も、その横に、うつぶせに寝かされている。
「父上は?兄上は?」
 橡の問いに香柔和は、かぶりを振った。
「花巫女といえども、息絶え果てた骸の前では、無力なのです」
 父と兄の死を聞いて、声もなく、橡は瞼を閉じた。立ち込める絶望が巫女の視野を揺るがせる。
「いけない!」あなたは、逝ってはいけない。
 香柔和は、両の掌で、橡の逞しい両肩の先をくるみこむ。
 木の鈴に選ばれ、花巫女の位を得てから、施療にたずさわるのは初めてだった。花巫女が呼ばれるのは、王族か、高位の貴族の、生命の危機の折りだけだったから。
 そのときが来れば解る、と、先代の花巫女が書き記した木簡を読んだきりなのだが。
 確かに、解る。両肩に触れた両の掌から、花巫女は二本の木の根のように、相手の心象へ入り込む。それは物質とは相の異なる、引き伸ばされた彼女自身の魂の先端。
 闇の中へ、届かぬ底へ、沈み込もうとする橡の核に、そっと追いつき、包み込み、支え、留める。
 根であったものは枝になる。吸うものでなく、咲くものとなる。植物を生命の徴と尊ぶこの国では、子供に草木の名をつける。香柔和の名の由来は、桜に似た薄紅の花。橡の魂を内包する枝篭はいま、びっしりと蕾をつけ、花開き、そして散る。薄紅の花びらは、篭の内、橡の核へと吸い込まれる。
 心身ともに弱り果て、形なきものへ還りかけていた者のなかに、二つの眼が見開いた。
((なぜ、留める))
((お戻りいただくためです。王君様なき今。一の太子様なき今。新たなる王君として))
 ゆっくりと形づくられて、橡の魂は、体を丸めた幼子の姿をなした。
((王位を望まないことだけが、俺の野心であったのに?))
 子供の声でそれを言う橡の深い悲しみが、香柔和には伝わってくる。
 隣国は、王位継承権を賭けた兄弟王子の争いで乱れ、、僻地の豪族・宿我(すくが)に国を奪われた。橡の父は、隣国の轍を踏むことを恐れ、徹底して、長子を自らの継承者、次子橡を長子の下につく者として育てた。──むしろ、軍の采配に才ある橡を疎んじ、早逝を望むふしさえあった。
 そして結局。橡が辺境の小競り合いを転々と対応する隙に、宿我に王君のいる邑を攻められた。報を聞いた橡は、国境から馬を急かせて駆け戻り、途中、王君と兄太子の負傷を知り。神秘な癒しの力を持つ花巫女を迎えに行って、自らも深傷を負ったのだ。
((俺がいないことで、国が保たれるなら、死んでもよかった。生きている間はせめて、父と兄の役に立ちたかった……))
((この国がお嫌いではないのでしょう。では、どうか。現世にお戻りくださいませ。))
 闇の中に、ほんのりと光る、薄紅の花枝で形づくられた篭。その中で、幼子は、なおも逡巡する。
 花弁を与えつくして、枝は灰色を帯びる。
((橡、さま……))
 決意を促そうとかけた声は小さく、あまりに多くの生命の力を分け与えた香柔和が衰弱していることを知らせてしまう。
((香柔和殿っ))
 幼子は、みるみる大人びて、枯れかけた花篭を両の腕で抱こうとした。

「香柔和殿っ」
 闇に呑まれかけた香柔和の意識を、揺り起こしたのは、橡の腕。橡の傷には、数刻の間に、薄い皮膚が塞いでいる。人の持つ回復の力を極限まで高めること。これが、花巫女の癒しの施術の力なのだ。
「お帰りなさいませ」
 香柔和は、弱りきった自分の体を精一杯、平伏の姿勢に整えた。香柔和の手首を、力を取り戻した橡の手が、掴んだ。
「……后になってくれ」
「は?」
 あまりに唐突な言葉に、香柔和は、間の抜けた声を上げてしまう。
「王君になれというなら。この国を支えろというなら。俺の傍にいて、俺を支えてくれ」
 ──この方は、知らないのだ。香柔和は、平伏したまま、声にしないで、独りごちる。これまで王位を継がない者と見なされ、辺境を転戦してきた橡は、“国の宝”と呼ばれる花巫女についても、詳しく教えられていないのだろう。
「残念ながら。花巫女の力は、処女のみに顕れるもの。嫁ぐことは許されません。……命の力をお分け申し上げた直後は、互いに、母子にも似た情愛が沸くと聞きます。けれどそれは、癒しの術の見せる幻。数日もたてば色褪せます……」
 そう。香柔和とて、いま、目の前にいる一人の青年が、心から愛おしい。けれどそれは、一時のものだと、冷めるのだと。巫女の宮に伝わる、幾代もの巫女の木簡が伝えていた。

 宿我軍を、押し戻す戦いは熾烈を極めた。
 香柔和は、橡への癒しによる消耗から回復しきっていない体で、さらに、若手の将のなかの一番手、ムクゲが負傷した際にも、施術をせざるを得なかった。
 橡は、部下でもあり友でもある蕣に付き添って香柔和の元を訪れ、余人があっては施術ができないと言われて、王君の身で、召使が控える次の間で待った。
 蕣を救った施術の後。さらに弱ってしまった香柔和の枕元、
「すまぬ……」
と一言呟いた橡の声に、香柔和は頷く。
 王君の后となる女は他にもいるだろう。だが、癒しの施術をする花巫女は、香柔和一人。木の鈴は、めったに花巫女を選びはしないのだから。
 負ければ、男を殺され、女と穀を奪われると伝え聞く宿我軍を、ようやく、撤退させた後。橡は、正規の儀礼によって、新しい王君となり、蕣は宰相の位についた。

 秋。底冷えのする夜になって。
 橡の堂々たる体躯が、ほっそりとした女性を抱いて、花巫女の宮に現れた。
「救えるか?」
 香柔和は、小さく、眉根を寄せた。女はたしかに弱っており意識もないが、巫女として感じ取れる生命の力は死に瀕するほど弱っているとは思えない。
「診させてくださいまし」
 橡は頷き、蕣の施術の日のように、高衝立に隔てられた次の間にさがる。
 香柔和は、女の身体をすぅと撫ぜてみて、巫女でなければ判らないほどの徴に気づく。
 女の胎には赤子がいて、流れかけているのだ。いつもの施術の肩口ではなく、腹部に両手をあてがう。細心の注意を払って、力を伸ばす。過剰な力は、かえって、微妙な均衡にある小さな命を損なってしまうだろう。
「生きたいの」
 言葉とはいえないほどの、かすかな声。
「生きなさい」
 そっと掛けた声を、解したようだった。
「生きていいの?」
 切ない問いに肯定を返すと、喜びの気配が伝わってきた。
 腹から手を離し、女をつくづくと見て。王の館で、王君の側に仕える女をあらわす、薄紫の布巾に、ようやく気づいた。
「ああ、では子は……」 王君の。
 この国で、貴族は複数の妻を娶るのが普通なのに、橡が妻を娶ったという話を、香柔和は聞いたことがなかった。
 だが、宮にいる巫女に、王の館の噂が全部伝わってくるわけではない。橡には、王位を継ぐ子供をもうけねばならないはず。
 衝立の向こうの橡を意識して、香柔和はため息を押し殺す。誰を施術しても、かならず湧き上がる愛しい思い。母が子にかけるような、温かな気持ち。それは確かに三日もあれば冷める。だが。だが。あの最初の施術で起きた想いだけは、ずっと心の奥底に燻り続け、香柔和を困惑させていた。

 断続的に、戦が続いていた。隣国の宿我にたいして、橡は、積極的に攻め、圧制に苦しむ敵領を、少しずつ削り取っていた。
 橡は、温情ある王君であると同時に、優れた軍将であり、友である蕣も能く橡を援けていると噂に聞いた。あの戦い以後、橡が大きな傷を負うことはなかったが、香柔和は、多くの重臣や将を救った。

 風もない巫女の宮の室の中、木の鈴が鳴ったのは、平和と戦がまだらに過ぎた、数年の後であった。香柔和は、伝承に従い、宮が飼う鳩に、鈴を結んで、飛ばした。
 翌日、巫女だけに大人しく捕らえられる鳩を抱き宮を訪れたのは、まだ幼い少女だった。

灼此イチシと申します。香柔和様、よろしく」
 出自を尋ねぬのが慣例だが、幼い顔だちに凛とした色を載せた身なりの良い少女である。
「巫女の宮にようこそ」
 香柔和は、少し迷ったが、後になって知るよりは、と、決意する。
「鈴が貴女を呼んだけれど、花巫女が二人いた例はないと聞きます。事が起こり、施術を行うまで、真に花巫女かどうかの判断は延ばさせてくださいまし……」
 正確には。記録によれば、一時期的に花巫女が二人になった時期もあるようなのだが、必ず、まもなく、片方の花巫女の記録は途絶えてしまうのだ。──木の鈴が鳴ったことを王の館に報告するのは、もう少し後にしよう──。そう思う香柔和の前で、
「はい」灼此は、こくり、と頷く。「私も、何かとても大切なことを忘れている気がしてなりません。この気持ちが、鈴に呼ばれたことと関係があるのかもしれません」
 その物言いの端々から、賢く、思いの深い子供なのだろう、と、香柔和は感じる。
 もしかしたら。もうじき、この子が、唯一の巫女になるのかもしれない。
──もうじき。私が死ぬことによって。
 不思議に、怖いとは思わなかった。
 邑はまさに、灼此の花の季節。この草は、秋になり葉が枯れたその後で、太く真っ直ぐな茎を伸ばし、その先に朱赤の大輪の花をつける。炎や血を連想させるその色を不吉なものとする者もあったが、香柔和は、その花のたくましい鮮やかさが嫌いではなかった。

 橡が正妃を迎えることになった。
 相手は隣国宿我の娘、断続する戦が橡優勢の戦況のなか、宿我は、美貌の愛児を橡の后にと申し出てきたのだという。
 敵国にも面子がある。明確に和平の申し入れがあったわけではなかったが、誰もが……王君橡、宰相蕣から、邑の農民に至るまでが、これを和平の印と釈った。
 邑は、にわかに華やいだ。

 婚礼の夜。見るともなしに、王の館の方向に視線を投げていた香柔和は、炎の色に目を瞠った。喧騒の音が風に乗ってくる。
 何事、と、気をもむ間もなく、蹄の音が響いた。宰相蕣自らの、早馬だった。
「王君が、毒を塗った短剣で傷つかれ……」
「まさか、花嫁殿が?」
「騙れました。花嫁など来はしない。王子に、女衣を着せて乗り込ませるとは。王君が返り討ちに討ち取られましたが、王君は、短剣の毒がまわられて」
 出来事を聞く間にも、馬に引かせた輿車の音が近づく。数人がかりで、そっと降ろされた橡は、晴れ着の胸元から血をしたたらせ、傷のまわりは不気味に変色している。命の気配は、あまりに薄い。
 施療の間には、次の機会に力を試すと言い渡してあった灼此が、すでに控えていた。
 花巫女が、王族と高位の貴族しか看ないのは、癒しが花巫女の命の力を費やすから。多くの者に癒しを与えたら、巫女の力が尽きてしまう。たとえ相手が一人でも、その相手が深傷であれば、花巫女は相手を救う為、自分の命と引き換えにすることがあった。
「今日の術は、私が行います。灼此は下がりなさい」
 香柔和は、不服げな灼此を下がらせ、橡と二人になった。
 水壷の水を口に含むと、橡の唇に、唇を重ね、その水を、わずかずつ、わずかずつ、橡の唇へと流しこむ。
 ごくり、と、むせることもなく、橡が飲むのを、確かめた。
 肩口に掌を当て、念を込める。一口の水が、体内を巡り、毒を集め、毒が侵入した傷口から一たらしの毒液となって流れ出るのを、脳裏に描く。こんな施術は初めてだ。
((でも、どうか……))祈りを篭めて、力を高める。
 ぶくり。異音を吐いて、傷が鳴った。
 みるみる、変色が著しくなる。とっさに、懐剣で服を裂き、服の布で傷に滲む液をふきとって、投げ捨てた。
 いつもと違う施術をしたことで、力を多く使った実感がある。
 改めて、肩口に掌を当てなおし、自分にとってはもう慣れ親しんだ、木の根とも枝ともつかない形で、闇を落ちる橡の後を追う。毒は排したといえ、橡はすでにあまりに遠く、細く細く伸ばした香柔和の魂は、途中で尽きてしまう。この姿では、捉えられない。この形では、救えない。
──私が戻れなくても、灼此が残る。
 香柔和は、自分の肉体へ戻る帰路を断ち、人の輪郭をもつ一群れの花となって、闇に身を投じた。橡にようやく追いついて、抱擁する。
 その時。
 遠く遠く、現世のある上方、炎の色の花が咲いた。細い赤い糸のような蕊が伸びてくる。
((灼此……))
 香柔和は囁いた。
((おやめ、届かない、橡様には私を全部差し上げる、お前が無理をしないでも、この方はきっと蘇る))
──否!
 強い否定が、赤い糸を揺るがせる。
 香柔和はかぶりをふると、橡を強く抱擁した。そのまま、つぷりつぷり、と、香柔和の魂は橡の内へ入り混じる。

 橡は、自分が暗い中有の闇のさなか、細く震える赤い糸に吊られているのに気が付いた。胸元が、温かい。そこには、薄紅の花がただ一輪。一片、また、一片、花弁が胸に溶けてくる。その心地よさに陶然としたとき。
((拒んで!))
 強い調子で誰かが言った。どうやら、赤い糸らしい。
 とっさに、彼の身内に入り込もうとした最後の花弁を拒んだものの。なぜ、あの心地よさを否定しなければいけないのか、彼にはどうしても思い出せない。
((お解りにならないのですか?))
 声は彼を叱咤する。……わからない。ここがどこかも。声が誰かも。ただ一つ残る花弁が何を意味するかも。
((私にももう、言葉を紡ぐ余裕はない。どうかこの糸を、辿って昇ってください……))
 かすかに反発する。彼はそれなりに地位あるものであったはずだ。なぜ子供の声に従わねばならないのか。
 だが。声の来る方を見上げて、赤い炎の形の花を見た。
 赤い花があんなに高みに咲くのに、薄紅の花が彼とともに下にあるのは気にくわぬ。
 彼自身、しかとは理由がわからないまま、薄紅の花弁をひとつ懐にいれると、赤い蕊を握って上りはじめた。

 王君橡と二人の花巫女は三日の間、眠り続け、前後して目覚めた。
「全部、思い出したような気がします……。私は、生まれる前に、王君様と香柔和様に会ったことがあるのでしょう?」
 灼此の問いに答えたのは、香柔和にとって意外なことに、三人の目覚めを待っていた宰相蕣であった。
 数年前。蕣は王君の側仕えの女茜と恋に落ちた。この国で、王の館に仕える女は、王君のもの。蕣は懊悩の末、位を捨てる決意をし、茜を王の館から呼び出し逃げた。
 事に気づいた橡は単身、二人を追った。
 そのとき、茜は蕣の子をすでに身篭っていた。茜には橡の手はついていなかったが、茜にはそれを証する手段がなく、月のものが止まったことさえ言いそびれて逃避行に従い、身体の変調をきたした。茜が意識を手放し、蕣が立ち往生したところに、橡が追いついた。
 橡は、蕣の罪を許し、意識のない茜を花巫女に託したのである。
「その時。花巫女がもう一人いれば、と、お思いになったのではありませんか?」
 灼此に問いかけられて、橡は、灼此ではなく、香柔和へ目を向けた。
「花巫女が王だけを癒す役回りであれば、とっくに、巫女であるより后であってくれと言っていた。が、だが蕣を始め、何人もの臣を救われて、俺にはそれだけの踏ん切りがつかなかった。花巫女が一人きりでさえなければ。──蕣が茜を愛しむのに負けぬほど、俺とて、と、確かにそう思った」
「王君様のそのお気持ちが、母の胎にいた私のなかに“力”を呼び込んだのです」
 灼此が言葉を添えて、橡へまっすぐに微笑みかけた。
「──さて。こうも追い詰められては、ここで言うしかないようだな」
 橡は、弱った体をゆるゆると起こして、正座の形に威儀をただした。香柔和も釣られたように、身を起こす。橡の正面に手をついて、橡が再度口を開くのを、待った。
「何年ぶりだろう、もう一度問わせてくれ。私の后になってはくれまいか? 香柔和」
 お前が冷めるといった思いは、冷めなかったのだと、橡の目が告げている。お前の側はどうだったのだと、その目が問うている。
 香柔和は、言葉が出ずに、ただ、頭を下げて諾意を示す。
 ぽとぽとと床に落ちる嬉し涙が、香柔和の気持ちを語っていた。


※万葉植物のカニワ(カニハ)・イチシについては諸説あるようなのですが、この物語は、カニワ=チョウジザクラ、イチシ=ヒガンバナのイメージで書きました。

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背景画像:Studio Blue Moon